3年A組の保護者の皆さんへ 7
今学期も大詰めを迎えております。現在、生徒達は、明日からの県大会に向けて励んでいる生徒や運動会の準備に励んでいる生徒、コンクールに向けて頑張っている音楽部員など様々な生活を送っております。この間、日焼け止めクリームが認められたり、暑い時は、“半袖とタンパン”で授業を受けることが認められたり、少しずつ生徒の生活に潤いをもたらすための動きがでてきました。
そんな折に、生徒会の意見集約箱である、“目安箱”にゼリーの殻や学習プリントなどのゴミが入れられるという行為が起きました。涙ながらに悔しさをにじませる、生徒会役員の子ども達。生徒会担当のわたしも、決して予想できない事態だったとは申しませんが、実際に様々な苦労をして、学校生活の見直しをしている生徒を見ていただけに、それらの苦労に泥を投げつけるような行為が許せません。生徒会役員の子ども達は、集会で全校に訴えることにしました。「みなさんの知らないところで苦労している人がいることをわかって欲しい。」「自分がされたら嫌なことは、決してやってはいけないと思う。」「もし、わたし達生徒会役員に言いたいことがあるのなら、こんな方法ではなくてやってほしい。」
便所の治安を守ろうと、いつも便所にカラープリントをして、心和ませるプリントを作る生徒がいます。いたずらされて、床にはがされていても、放課後、また再び貼りなおしているのです。目安箱に意見を入れてもらおうと、いつも目安箱の近くに鉛筆とメッセージ用紙を用意する生徒がいます。鉛筆が折られ、用紙のたばごと、箱の中に入れられても、文句いわず、もう一度やりなおすのです。その姿を、人影の少ない校舎の中で行なっている生徒をみる度に、この子たちの気持ちが、全校生徒に届く、そんなあったかい学校になればいいと、心に祈るのです。
俺だって、その気になれば・・・U
わたしの生まれは酒田市です。それも、比較的海に近いところに住んでいました。歩いてすぐに、砂浜と日本海です。
わたしには。小学校、中学校と想い出の遊び仲間がいました。特に小学校のときは、わけもなく地面を掘っていたことを思い出します。どうして地面を掘っていたかというと、今でもわかりません。ただ、むしょうに地面を掘りたかった時代だったのでしょう。
海に向かう途中の松林のある一角に掘った、大人の背丈まであるくらいの穴。小学生の頃、休みになると、スコップと弁当を担いで、穴を掘りました。ゲームとかそんなものがない時代です。もちろん、今はもう埋められましたが、それはもうちょっとした要塞でしたね。その地面掘りの仲間の中に近所のラーメン屋の長男がいるんです。
学校が早あがりのとき、時々、家の人にねだってラーメンの出前を頼みます。出前の配達は、決まってそのラーメン屋の友人でした。すると、家の人は、決まって「感心だねー。」ってわざとらしく、私の耳元で言うんです。その度に「俺だって、その気になれば・・・。」と思ったもんです。実は私は、超負けず嫌いな性格なんです。
先日、三者面談の予定表のプリントをさしあげました。今は、進路希望調査も行なって、その集計の最中です。「三者面談をするよ」と言ったら、「えー。やだー。」とブーイング。三者面談では、これまで2回行なった実力テストを材料にお話することになるでしょう。テストは、返す度に、一喜一憂。「次は、真面目にテスト勉強しようっと。」なんて、反省の声が聞かれます。『俺だって(わたしだって)、その気になれば・・・』という気持ちが、たくさん教室に生まれる瞬間なのです。
今日は、校内弁論大会が、壮行式に先立ってありました。3Aでは、先日、学級でミニ弁論大会を行ないました。そして、学年発表には、O.Tくんの「離れてこそわかる兄弟の愛」とS.Nくんの「空手道と出会って」をクラス代表として発表してもらいました。弁論では、いつもとは違う友人の姿が見えてくるものです。いっしょにふざけたり、冗談を言い合う中なだけど、本心は本当のところ、みんな知らないのです。弁論文などで、本心を聞いたりすると、“あいつって、そんなこと考えているんだ。”と感動しちゃいますね。
学級の弁論が終わった後、わたしのラーメン屋の友について話をしました。中学三年の時に、校内弁論で、あのラーメン屋の友が発表したのです。
『父の死と自分の進路について』
中学を卒業する日が近づいたある日、そのラーメン屋の友人の父が事故で亡くなりました。出前の途中、地面堀りを手伝ってくれるおじさんでした。そんなやさしかったおじさんが死んだというのは、強烈なショックでした。
ラーメン屋の友は、長男でもあったことから、ぎりぎりで高校進学を断念しました。そして家業のラーメン屋を継ぐために修業にでるのです。まわりのみんな全員が、高校に行くのを、なかば当然のように思っていたわたしにとって、このことはすごくショックでした。その後の高校生活の間は、ただの一度も、ラーメン屋の友と会うことはありませんでした。そして、いつかわたしも、家を離れました。
何かの用で、久しぶりに酒田の自分の生まれた家に行きました。というのも、わたしの実家は、家を建てて、別の場所に引越ししたのです。ラーメン屋は、その当時の面影を残したままありました。近所の人の話によると、昼はラーメン屋の出前中心で、夜は、街にでてラ―メンの屋台を出しているとのこと。今のご時世です。なかなか昼の出前だけでは大変なのでしょう。
夜も屋台を引いてがんばっている彼の姿と地面堀りのときにがんばっていた友の姿が重なるのです。
主のいない店内に入り、みそラーメンを注文します。奥さんらしい人が、ただもくもくと作ってくれるのです。ちょっぴりしょっぱいラーメンを食べ終えて、店を出ました。
もうそこには、「俺だってその気になれば・・・。」と思う、見かけ倒しの自分はいません。
そこにいたのは、同じ地面堀りの仲間として、俺は俺らしくがんばろうと思う自分でした。
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