3年A組の保護者の皆さんへ 4

校内マラソン大会の前に、“足の遅い者が一生懸命走る姿はすばらしい。でも、足の速い者が全力を出す姿は、もっと美しい”という話をしました。中学3年生にもなると、行事の時に冷めた姿で参加する生徒がでてくるものです。なんとなく斜にかまえて、一生懸命という言葉をばかにする。そんな成長は、とっても嫌なものです。だからこそ、スタートの前の朝の会で、話しました。マラソン大会では、みんな昨年よりも、タイムが上がっていました。だから、全力でとはつながらないかもしれませんが、少なくとも昨年よりも、力をだした人が多いのでしょう。これは、あくまでも、わたしの考えです。でも、それを真剣に聞いてくれて、一人ひとりが自分なりに解釈してくれたことが嬉しいのです。この姿は、地区駅伝大会での応援にもつながっていきます。

 

“いのち”の授業

最近の日記に、「むしゃくしゃして、死にたい。」なんて、メッセージが書いてあることがでてきました。何にむしゃくしゃするのでしょう。友人との間のこと?勉強の悩みのこと?家庭でのこと?恋愛かな?この暑さのため、より疲労もたまってのことでしょうか?それにしても、“死にたい”ということばは、どきっとしますね。来週から教育相談によって、悩んでいる子どもには相談にのりたいと思います。

それでも、悩みというものは、最終的には自分で乗り越えなくてはならないものだと思います。わたしができることは、一緒に悩みを感じ合うことくらいなのでしょう。深く悩んでいる時、人は本当に孤独です。でも、人間、この孤独な時間こそが、実は心を大きく成長させるのです。

『孤独を恐れるな!』実は、わたしにそう教えてくれた方がいたのです。

 

その校長先生は、わたしにこう語りました。

「自分でこうしようと思ったら、たったひとりでも始めなきゃだめ。そのための孤独には耐えなければいけない。ただ、孤立しちゃいけませんよ。“孤独”というのは、自分がやっていることに理屈をつけながら自信を持って行動していくことで、“孤立”っていうのは、自分から閉じていくことなんですから・・・。実際、孤独の中でひとり考え、がんばっている人は、いっぱいいます。」

 

その校長先生とは、神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷小学校の大瀬敏昭先生とおっしゃいます。今から、3年前に、わたしは、自分の勉強を兼ねて、ここ茅ヶ崎市立浜之郷小学校に1週間通いました。あの、サザンオールスターズの桑田圭祐の生まれた地です。茅ヶ崎駅を降りると、サザン通りなんて名前のついた通りがあります。

わたしが、この地に来たのは、1冊の本がきっかけです。この大瀬校長先生が書いた本で、これまでの学校から変わろうという内容の本です。具体的には、もっと子どもを中心とした学校を作りあげようという話なんですけれど、当時のわたしの心の中にあった、もやもやがすきっと晴れた本だったのですね。以後、この校長先生の行動力と勇気、それが学校を変えていきます。NHKの番組も、この小学校の軌跡について1年間取材し、番組を放送したほどです。

何が新しいのかということについては、この通信では説明しませんが、とにかくこの校長先生が、これまでの日本の学校の行き詰まりを突破させようとして、新しい学校経営を行ったのは確かなのです。

この小学校は、全児童数が670名以上という規模の小学校です。だからこそ、この大瀬校長先生が行う、斬新なアイデイアや改革の方針は、当初は誰もついていけません。それでも、信念を持って、先生が改革を断行していくのです。悩みもあったことでしょう。大瀬先生の表情からは、それを感じることはできません。落ち着いた笑顔が絶えずあるみのです。

この校長先生は自分でも授業をします。わたしがみたのは、森高千里という歌手が歌う、「ロックンロール県庁所在地」という曲、そうそう、今、ミニモ二が唄っているものです。それを社会科の教材として授業を展開しています。どの子も、しっとり落ち着いた姿勢で、校長先生の静かな声に耳をすますのです。

校長先生の熱意は、しばらくすると他の先生方にも伝わります。わたしが行った頃には、どの先生も、大瀬校長の素晴らしさや、自分を変えた先生だと語ってくれました。

1週間、わたしがその学校に通ったので、せっかくだからと、校長先生がわたしを校長室に呼んでくださり、いろいろな話を聞かせてくれたのです。

その時にでてきた会話が、あの“孤独”と“孤立”の話だったのです。その話を聴いて、とても感動しました。

 

わたしは、孤独になるということを、大変悲しいことだと、それまで信じてきました。でも、よく考えると違うんですね。1日の中にだって、孤独になる瞬間があります。中学時代のとき、夜、布団に入り、目をつむると、そのまま目をさますことがないんじゃないかと不安になったことがありました。そのときから、死について考え始めたように思います。死を考える時、人は孤独感を強く感じます。ひとり、自分の心臓の鼓動を感じ、ああ生きているんだと思うときだってあります。孤独になってこそ、自分の弱さを感じ、強く生きたいと願い望んだりもするのです。孤独をごまかして、メールで“寂しいよ”と、24時間、片時も携帯を離さずメールをやりとりしている若者達をみると、『孤独になれ!』、『孤独から逃げるなって!』って言いたくなるのです。

 

先生がわたしに話した時から、孤独になるということは、決して悪いことではないと思うようになりました。

「先生は、どうしてこんな改革ができるのですか?」と、わたし聞いてみました。

大瀬先生は、いつもの穏やかな笑みを浮かべたまま

「私は命をかけてますから」と、こともなげに答えるのです。

 

あれから3年が過ぎました。

三日前の朝、新聞を開くと、教育面に“いのち”の授業を行った校長先生の話が掲載されていました。大瀬校長の記事です。自分の“いのち”を教材にする、すごい授業です。

先生は、もう末期癌なのです。

なぜ、そんなにまで強いのでしょう。わたしが同じ立場ならどうするだろう。ひとり、孤独になって考えるのです。授業の内容は、記事を読んで推測するに、子ども達の飼育していたベッカムという名のカマキリ。そのカマキリの死と残ったベッカムの卵から“いのち”を考えさせているようです。そして、カマキリの“いのち”と校長先生の“いのち”…。

 

死を目の前にしている先生にとって“いのち“という教材はあまりにも過酷なものです。でも、この授業を通して子ども達の心にリレーされたものは、大瀬先生がふりしぼる孤独の力なのかもしれません。

 

あの時のわたしに熱く語った、大瀬先生の一言一言。

ひとり、もう一度、大瀬先生から預かった、バトンの重みを味わう最近です。

 

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