2年B組の保護者の皆さんへ bP7
現在、新生徒会は、学級討議・明友議会・生徒総会などの準備で、大忙しです。生徒会役員の子ども達も一生懸命仕事をします。でも、まだまだ学ばなくてはならない点は多いようです。今は、大勢の人を動かすことの苦労を、ようやくわかってきた段階でしょう。
実は、職員室には、かつての教え子が2人います。一人は、ご存知だと思いますが、英語のS先生であり、もう一人は、これも英語のG先生です。わたしくらいの年齢で、2人の教え子と同じ仕事場で働けるなんて、きっと珍しい方なのかもしれません。実は、2人とも中学校の時は、生徒会のリーダーでした。S先生は、M中学校の生徒会長、G先生は、K中学校の副会長なんです。あの時に、わたしが、彼らに言った言葉のひとつひとつは、遠い記憶のかなたで忘れてしまいましたが、彼らがどんな風にわたしの言葉を感じ取っていたのかを思うと、ちょっぴり肩身の狭い思いの職員室です。
その一人のG先生に、「教員採用試験どうだった?」と、ひっそり聞いてみました。「実は、中間テストの日が発表なんです。」という返事。今の時代、教師を目指す苦労は、並大抵ではありません。高い倍率、まして、毎日、授業の準備をしながら、その一方で、試験勉強もするのですから。わたしには、到底かないません。中間テストの日、「先生、うかっちゃいました。」とG先生が、こっそりわたしに教えてくれました。「すごいねー。」おもわず握手です。人間は、夢を見つけ、それに向かっている時は、たいていのことにヘコタレズ頑張れるものなんですね。夢をかなえた先生に、「おめでとう」
真っ白の理由
わたしは、男三兄弟のまん中に生まれ、一番上と歳が近かったせいもあり、わたしは、自分のために何か物を買ってもらったという経験は乏しいんです。だいたいは、兄からのおさがりでしたから。
中学生の時の制服にしろ、さびついた自転車にしろ、習字箱から絵の具箱まで、すべてお古でした。悪いことというものは、重なるもので、ちょうどわたしの学年から、あらゆる教育制度が新しくなる節目だったんです。高校入試が、3教科から5教科になったのも、わたしの学年からだし、小さいことでは、絵の具箱や習字道具入れなど、学校で一括購入するもののデザインが変わるのも、わたしの学年からでした。だから、わたしがおさがりとしてもらったもののほとんどは、一般の児童・生徒とは違う、デザインや色のものでしたね。それが嫌で、兄や姉の物があっても、新しく買い与えてもらった友人は、数多くいたんです。でも、残念ながら、わたしの家庭ではそれを許してはくれませんでした。今とは違う、高度経済成長時で、多くの人が所得が上がったいい時代であったんですが、厳格な父には、そんなことはおかまいなし。ま、それも7人家族という大家族を支えていたのだから無理はないのですが…。
それでも、決して裕福ではない我が家にもサンタクロースというのはやってくるもので、いつだったかツリーに願い事を書いた紙を貼ったことを覚えています。中身は「新しい習字道具箱」でした。
それ以後も、わたしは、奨学金をもらいながらの、高校、大学生生活をおくってきました。
ある日、父が高校生の兄と中学生のわたしを呼んで、給料袋をみせるんです。袋の中には、現金の札束。今と違って、銀行振込の時代ではありませんから。
「父さんが、1ヶ月がんばって稼いだ金の合計は、これだ。これから、おじいちゃんとおばあちゃんの生活費、おまえ達の学校の集金、みんなの食費…。」
中の札束は、みるみるうちに減っていく。ちょっと、やり方はシビアだけれど、あれを見せられたら、自分の有り様を考えてしまいますよね。なんとか、浪人しないで、大学に入った原動力も、あの日の出来事が大きかったと思うのです。
中学3年の春。修学旅行は、昔も今も東京でした。今年の2年B組と同様に、班を決めることはなかなか難しかった。それは、クラスにいるボス的なAとその手下のBとは、誰も一緒になりたくなかったからでした。担任の先生は、若くてきれいな女の先生で、芳賀先生といったが、その先生が、わたしを呼んで、AとBといっしょになるように言われたんです。決してAとBとは気が合いませんでしたが、たまにはクラスのためになろうと、承諾した自分でした。
大社長の息子であるAとは、特に肌があいませんでした。修学旅行の準備中も、いろいろ問題がありましたが、ほとんどは、わたしの方が妥協しました。
旅行当日、待望のお小遣いを、父からもらいます。“5000円”という、学校で決めた約束の金額。わたしにとっては、天にも昇るような大金なんです。ところが、いっしょの班のAとBは、約束以上の金額、20000円を財布に入れてきたんです。もちろん内緒で。でも、自分らで、そっと自慢げに話すから、先生以外のみんなが知っている。
旅行中の班行動という時間は、AやBと同じ行動。あの二人のいく店、食べるものは、ほとんど高級なところばかり。喫茶店なんて、はやりだした時代です。インベーダーゲームに大金を果たし、飲み食いをする。わたしは、そっと5000円をポケットに握りしめながら、水や安い飲み物で我慢するんです。
旅行4日目だったか、AとBが、あまりに節約するわたしに、腹が立ったのか、こう言って来ました。
「なんで、何も金使わねなや?」と。
「なんでって、おれは、5000円しかない。そんな、高いもの飲み食い、遊ぶことなんてできねだろ。」
そしたら、Aは、一言!
「貧乏人!」
真っ白になった。今でも、あのくらい真っ白になったことはないですね。
思いっきり、顔面にパンチしたんです。社長の息子の前歯は、飛びました。Aは、東京の歯医者に連れて行かれました。
旅行後、父が呼ばれ、わたしが、Aにしたことの説明をうけたように記憶しています。多分、その後、Aの家に誤りにいっしょにいったのだが、その記憶は、さだかではありません。
父は、そのことについて、何もわたしを責めませんでした。
ふと思い出すのです。あの時の真っ白になった理由を。多分「貧乏人」と言われたことが、原因ではないのですね。それよりも、あの父が一生懸命働いて、やっとの思いで稼いだ“5000円”を、そのお金をばかにされた感じがして、どうしても許せなかったんですね。きっと。
その後、東京に出張にいった父は、わたしだけにお土産をかってきてくれました。
土産は、習字道具でもなく、「ドリトル先生 アフリカ行き」という一冊の本でした。
キ リ ト リ セ ン
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