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福岡 野口整体

人生最後の時


日本は世界有数の長寿国です。今の日本人の平均寿命はとても長い。

日本では昔から長寿である事が尊ばれて、還暦・古希・喜寿・傘寿・米寿・卆寿・白寿・百寿・・・などと呼んでお祝いしてきました。

周囲の人々がこれらの特別な名称を冠して祝ってきたのは、この年齢になるまで死なずに生きて来た「奇跡の人」に対する畏敬の念と憧れと感謝と喜びと物珍しさの現れです。

昔の80〜90歳の人などは、まさに「生き仏」だったでしょう。きっと近所の人達は手を合わせて拝んでいたはずです。「ありがたや、ありがたや・・・」と。

人はいつか死にます。死亡率100%です。とても嫌な事ですがこれは避けて通れません。死にたくないと思って足掻いても必ず死にます。

昔の人もやはり死ぬのが嫌だったようで、一部の人々は不老不死の薬や方法を求めて東奔西走していたようです。

我々は歳を取り老人になって寿命が尽きて死ぬかもしれませんし、3年後に病気で死ぬかもしれませんし、明日の朝に交通事故に遭って家族に「今までありがとう」とすら言えずに脳みそを飛び散しグチャグチャになって即死するかもしれません。基本的にいつ死ぬか判りません。

自分はいつか死ぬのだという事をキチンと見据えれば今をどう生きればよいか、どう生きれば悔いが残らないかが解る。死を見つめないと生は無く、死について考えないと生は輝かない。日々の慌ただしさに流されて空気を吸いながらなんとなく生きているだけになってしまう。

口を開けば病気・ケガの愚痴や不満や嘆きばかり出てくる人・病気の重さを自慢する人・毎日々々同じ事の繰り返しで退屈でつまらないと思っている人は「死」について一回とことん真剣に考えてみるとよいと思います。

死を見つめた者だけに充実した生は与えられるのかもしれません。



ところで、人間はただ寿命が長ければよいのでしょうか?

人間はただ長生きしさえすればよいのでしょうか?

人間はただ生命を維持しさえすればよいのでしょうか?

残念ながらもうほぼ回復する望みがないにもかかわらず、何とも言えない臭いがする病室で、鼻の穴か胃に開けた穴にチューブを突っ込まれて、そこから食べ物とは呼べないようなモノを流し込まれ、それを当てられたオムツに排泄し、喉にもチューブが穴を開けて繋がれているからモノも言えず、何ヶ月も何年も一日中ボーッと寝たきり状態で人工的に延命させられて80歳90歳になっても果たしてそれは「めでたい事」なのでしょうか?ご本人に意識が無くて治療法や処置法に関する意思を確認出来ないのであれば仕方がないのかもしれませんが、果たしてそれで「幸せ」なのでしょうか?昔の日本人がこの光景を見たらどう思うでしょうか?

もちろん、ご本人がそういう処置を望んでいるのなら話は全く別です。

2015年6月、国は将来の更なる医療費の増加を抑制する為に全国の病院のベッド数を削減する方針を打ち出しました。
入院加療を希望している病人を追い出したり、門前払いにしたりする事には反対ですが、「自宅に居たい」「自宅に帰りたい」「自宅で過ごしたい」そして「人生の最期は自宅で迎えたい」と思っていた人にとっては、国の方針の理由が何であれ、希望が叶えられそうです。

しかし、そもそも我々は入院などしなくてよいようにすべきです。なるべく病院の世話にならなくてよいようにもっと身心を敏感にすべきです。


あなたは人生最期の時を「どこ」で「どんな状態」で迎えたいですか?