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<私の佛教経典>2005


 釈尊、約2500年前。

 古典としての膨大な経典の中には、現代にあっても示唆に富むことが多いような気がしますが、(逆に言うと、聖徳太子の頃から、日本には、大陸からの釈迦の教えが流行り、為政者や、社会的リーダー、中産階級に浸透し、江戸時代に入り、庶民が広く勉学できるようになると、「寺子屋」で武士の子も商人の子も学んだらしい。農村部には、ヒューマニスト達「お坊さん」がその智恵を以って、井戸を掘ったり、温泉湧かしたり、疫病を防いだり、尊敬を集め、民心の平穏を図ってきたんじゃないか・・・・、つまり、現代日本人の心の中には、日本流にアレンジされた、釈迦の教えが脈打っているんじゃないか、ものの見方に下敷きになっているんじゃないか?なんて、勝手に思うわけです。)  で、死後の世界、霊魂については・・・・私の見た限り、何も書かれていなかったよう思います。
 ただ、
  釈迦自らが、死に臨み・・・・実の滅度にやあらず・・・・
と言う記載が有りましたが、これは・・・・あまねく一切に及ぼし・・・の願いが、亡くなった後にも・・・・自燈明・法燈明(自らと、法(広義の)を頼りとして生きなさい)・・・の教えの、不安を払う方便ではなかったかと、私は思うのです。

 イズレニシテモ、読書は読む者の「物差し」でしか読めないのでしょう。

 晩年の教えと言われる「法華経」は、アーしなさい、コーしなさいと教条的なことは、書かれていなかったように思います。そのほとんどが物語風「たとえ話」でした。

 無二の勉強家、炎の人、日蓮上人が奉ったわけが分かるような気がしてしまいます。法難と言うようですが、幾たびか、人生の苦境に立たされた上人も、やがては母の死を見取り、やがて、御本人も亡くなりました。

 厳密に言うと、その法華経の日本の定番には、原典があり、その、原典すら未だに、学者によって欠落部分が発見されているようで、キリストの聖書よりも、佛教経典は亜種、亜流が膨大にあり、その中にうたわれているように、文章として残っていても、解釈が変わり、その実体は無くなって行くのですよと、予言されているようです。

 ヤハリ、私は宗教としてでなく、古典として紐解いて味のある、魂のふるさとで有って欲しいと思います。日本人の世界観にも、精神的、文化的、宗教的、交配(いい意味での)が繰り返され、現代に至っており、みんな違って、みんないい・・・・と言うところで如何でしょうか?

 ただ、「信じるものは救われる。」

 去る2004年7月16日から、みちのくへ旅立ちました。

 旅の途中立ち寄った宮沢賢治記念館で、賢治が深く法華経に帰依していたことを知る・・・正確には・・・思い出した?のでした。

 法華経なんてものは読んでみると面白い・・・語弊があるな・・・素晴らしいものです。

 一般的に佛教と言われると「厳しい戒律の下、清貧な精神生活」を思い浮かべませんか?

 ところが、「維摩詰 (ゆいまきつ)経」の中に華美とは言いませんが、気高く壮麗な身なりをしたらどうかと語られているようです。

 喩え話の中にも、人心の掌握を語っているような気が、私はするのですが、だらしない身なりでは、人の信を得られないとの教えだったような気がします。

 そもそも中国は天台山で時の皇帝が、多くの経典を多くの佛教者に集積整理させたようですが、そこで学んだ日本人佛教者も多い。

 中国では「西方極楽浄土に現れる阿弥陀如来」を崇拝する、阿弥陀如来信仰がはやったようですが、これも法華経の中にうたわれる、仏説阿弥陀経の中の喩えの教えなのですが、日蓮上人は「阿弥陀経」を信奉する浄土宗系を、曲解であると論破しています。

 佛教各宗派をことごとく論破し、厳しい立場に立たされ幾度となく、流刑にも遭い、それでも、ガリレオのごとく自説を曲げず、全うしたようです・・・・

 お題目の意味は、現在インドで挨拶に使用している「ナマステ!」という言葉にもなっている「ナムシー」(信頼する)という意味で、それがサンスクリットから漢字になり「南無」になっているそうで「妙なる教え法華三部経」を奉るという意味で「南無妙法蓮華経」と言うそうです。

 その言葉に、如何ばかりの呪文的効果があるか、分かりませんが、呪文でいうなれば法華経の中に「アリナリトナリアナロナビクナビ」という漢訳(さらには和訳)されていない部分などもあり、不思議な部分もあります。

 「成田山新勝寺」にも「のーまくさんまんだーばさらだんせんだんまーかろしゃだそわたやうんたらたかんまん」という言葉がありますが、これも、呪文のようで、サンスクリットの持込のようです。

 如来に仕える王様もいろいろ出てきます。民心の掌握のため世尊から教えを頂くようですが。

 伝え聞くところによれば、釈王家の王子として生まれたゴーダマシッダールタも妻子がありながら、為政者とはならず、出家をして、苦行を積んだりしたようですが、最終的には苦行の中からではなく菩提樹の下、三昧の中で悟りを開かれたようです。

 ここまで書いて、ふと会いたいと・・お釈迦さまに会ってみたいと思いました。

 僧籍に身をおかれる方としては、鎌倉建長寺の正統院住職様や、最近本を出され、いささか話題となっている大島龍穏上人にご縁が有りましたが、龍穏上人は元、大都市横浜を擁する神奈川県警捜査一課のバリバリの刑事さんだったそうで、何千体の遺体を見てきたとか・・・著作の「鬼刑事、僧侶となる」を拝読しましたが、刑事さんの仕事もさることながら、僧籍を頂くまでの修行もすさまじいものがあり、到底私では勤まらないと感じました。

 経典の中に「増上慢」と言うようですが、思い上がることを戒めている言葉があります。

 また、「ろかだや」(実践を伴わず、理屈ばかり言う人)などという言葉もありますが、大島さんの生き様を読んでみて、私自身が我流にかじった(実は歯が立っていなかった?!)佛典に対する小さな驕りを感じました。多少知識として知っていても、体現するため僧侶として修行を積むこととは比べものにならないということでしょう。

 死んじゃった人を刑事ドラマなんかで「ほとけさん」なんて言いますが、「佛」の性質はあらゆるすべての物に宿っていて「佛性」と言い、生命に力を与えてくれるものを言うとのことで、たくさんの「佛を見る」ということは、平安時代に流行った「不浄観」という死体を見るという行為ではなく、草花でも良い、月でも良い、雨でも、太陽でも、石ころでも良い、動物でも良い、勿論人でも良い。

 それが有り難いと思えればそれが佛性、即ち佛なのだいう解釈を見ました。

 出来れば、それが一番幸せな生き方なんじゃないかと思いますが、凡夫は、つまり、あらかた一般の人は、それがなかなか出来ない。

 そして、「私だけがこんなに苦しい思いをしている。あー周りの人がうらやましい。」と・・・小さなことにも感謝できずに、苦しんでしまい、悩んでしまい、曰く「六道を輪廻」してしまうらしいのです。老いも若きも、お金のある人もそうでない人も、男性も女性も。

 心安らかでいたいと思う気持ちは、古代ギリシャ哲学のころから、どうしたら心の平穏を保てるか、既に考察されている記録が有り、「アタラクシア」なんて表現が有ります。

 「生物学のページ」との接点ともなりますが、現代においても理由のない「不安感」が人をさいなむことが分かっていますが、大脳生理学的にこの「不安」のメカニズムはまだ解明の緒に就いたばかりで、結果論的に不安を取り除く薬の良いものが開発されてはいるものの、根源的には生理学ではまだ解決されていない。

 しかし、佛教経典には既に「苦を善く除く」という表現が出てきて、目指すところは同じなのかも知れないと、期待してしまうわけです。

 東洋医学の解明に走る西洋医学が既に「不安」の扉を開く日は近いのではないかと思うのは私だけでしょうか?

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