24のおまけ 現代クイズ論 改訂版

改訂にさいしての注意書き

 これは1996年3月に出版した『現代クイズ論』の改訂版です。何故改訂したか。内容があまりにも毒舌だからです。にしても、敵を作りそうな文章である。今の意見と必ずしも一致しないが、「オッサンが昔こんなことを言っとったんだ」という雰囲気だけでも味わってもらえれば幸いである。内容は「現代落語論」(立川談志)を模したまえがき、架空の対談(注も当時のもの)、問題論、社説集、高校時代の問題、と続く。今回は「問題論」「高校時代の問題」を外して紹介する。「問題論」を外したのは、意見が今と違いすぎるからである。

 

まえがき

 “キミのふだんよくしゃべっている能書きっていうのはなんかおもしろいから、ひとつ本にまとめていいたいことをいったらどう……?”と一三書房の池岸氏からいわれたのがざっと今から今から一年前。物事何でも安直に受け合う性分だから、

 “本を? わたしの本を出してくれるの、イイネ、ごきげん、やりましょう。書きゃ、いいんでしょう”

 とはじめたようなものの、イヤハヤ、どうしてどうして、バーで酔っぱらって他人の悪口をいってるのとワケが違う。書く、という労力プラス、それをまとめることのムズかしさ。

 100問作ってくれとか、二時間クイズについてしゃべってくれ、なんてのは、明日にもできるが、サテそれを本にする、ということのたいへんなこと。もちろん文章なんてのはまるでわからない素人だから、ひとつのリズムでつづっていくわけなのだが……。

 どうやったらいいのか、これがカイモク、わからない。一年目の今年の夏から秋にかけてはいささか、ノイローゼになり、“ヤアーメタ”と何度も放り出そうと思ったのだから、いいかげんなものだ。

 クイズについて、いいたいことは山ほどあるし、クイズをよく知らない人には、

 “こんないいものなんだョ”

 と教えてあげたいことも数多くある。(以下略)

 

 最初はかなり好き嫌いに任せて、世間で言われるような「毒舌な文章」を綴っていましたが、そんなの読みたい人はいない、ってことで、普通の文章にしました。とりあえず他のサークルの人が見ても怒らないような、やんわりとした文章なんですが、怒らないでください(別に見ないだろうけど)。とはいえ、多少は毒舌交じりの部分がありますので、笑って許してください。「くだらねえもんよこしやがって!」と思った方もいらっしゃるでしょうが、基本的には無料ですんで、怒らないでください。クイズ問題も167問入っていますんで、クイズ好きの人はそれで帳消ししてください。

 こういう冊子を作ることの可否についてはいろいろあると思いますし、単なる自己満足の産物と言われるかも知れません。それは分かってるのですが、敢えて形に残して、自分の意見に責任を持つのもいいかな、と思ったのです。今まではただ他人の悪口を喋るだけで、どうせ形に残らないから多少は辻褄の合わないことを言ってても良かったのですが、無責任に過ぎるんじゃないか、って訳で書いてみました。やっぱり自己満足ですね。

 

 クイズについてもっと深く考察しようとしてたんですが、「クイズについて考え出すとどんどん深くなってしまうので、以後の考察は若い衆に任せます」とは水谷氏の言である。とはいえ、水谷氏ですらどんどん深くなってしまうんだから、わたしなんかには手に負えない問題なのです。何故なら世間のクイズが我々の意図とは別に動き出しているからです。だから我々には理解できないし、動かしがたい何かがあるんじゃないでしょうか。我々は我々が面白いと思ったクイズをすればいいんだと思います。基本的に、わたしなりの答えは以下の文章に鏤めた積もりです。

 本当は、クイズについて真剣に考察する必要なんて全く無いのかもしれません。面白いと思ったクイズをしさえすれば、それでいいんじゃないですかね、と。だから、考えても詮無いことかもしれません。わたしの意見も結局は好き嫌いに立脚したものかもしれません。だから、稚拙で「けっ」と思われるものかも知れませんが、とりあえず考えれば考えるほどはまってしまう、ってことで、これが限界かな、と思はれり。

 

 なお、水谷さんを初めとして、本書に実名で掲載された皆さん、許して下さいませ。

 

 特別対談  「クイズとは?」

                                    話し手:ささきしげき(TQC新3年)と池岸笠志(文芸評論家)

                                   とき:1996年2月29日(木) ところ:池袋メトロポリタンホテル

 

第1章 ベタとオープン

 

池岸(以下いと表す):さて、お話しを伺いたいんだけど、何から話していいか…。

ささき(以下さと表す):何かこう、改まってしまうのもおかしいですね(1)。とりあえずクイズの事でも。

い:まあ、そりゃクイズのことを話すつもりなんだけど…。まあ、ベタについての意見でも手初めに…。

さ:ベタですか…。そうくるんじゃないか、と思ってたんですよ。まあ、わたしの中でもまだ、全然まとまった意見がある訳じゃないんですけど、とりあえずですね、ベタだけが悪いわけじゃない、っていうのは、皆さんと同じ意見なんですがね。

い:確かに、この世界のことわざで「人を憎んでベタを憎まず」というのがあるくらいだからね。ベタは、あくまでも出題するほうの意識の問題だと。

さ:そうですね。よく、ベタについて考えると、答える側の痛さ(2)ばっかり問題になるけど、あれは違うんですよね。プレーヤーは、出題されたから答えただけのことであって、文句を言われる筋合いはない。もちろん、非難してもいいポイントもあるんですが、、、それは長くなるんで、それはともかくとして、とりあえず、ベタに関しては、サークル活動では、普段あまり問題にはしない(3)。

い:普段なら別にいいんだけどね。

さ:そう、オープンとかで出題されると、こいつら普段何やってんだ(4)、とか思ったりするよね。誰かにおもねってるんじゃないか、とか、そういう余計なことまで考えてしまう、っていう…。

い:気持ちは分かるんだけどね。自分たちの色ばっかりを出そうとすると、クイズが濃くなっちゃうんじゃないか、っていう恐怖心というか。そういうものがあるのかもね。

さ:東大(中略)オープンなんかは、そういうことに恐れを持たなかったから、濃いクイズになってるんでしょうけど、あれでいいと思うんだよね(5)。明治オープンのイントロみたいな濃さを、普通のクイズで出すのを、いいわるいは別にして、恐れるな、という気持ちがありますね。保険のようにベタを出題することは、自分たちのしていることの否定になる、っていうか。

い:言わば、自分たちの濃さをベタで薄めている(6)、っていう。

さ:そんな感じですね。広がりを否定している、っていう。

い:ベタを出すな、とは言わないけど、ベタを知らない人を受け入れない世界だからね、クイズ界は。

さ:そう、それはある。これからの人々を大切にしてないし(7)、オープンでは同じ顔ばかり。一部の人しかおもしろくないようなクイズしかしてない、っていう。

い:「楽しむために強くなる」っていうサークル(8)があるけど、じゃあ、クイズは強くないと面白くないのか、って言いたいね。

さ:しかも、そう言ってた奴らが「クイズに実力はない」とか言い放つし…(9)。

い:やっぱり、クイズに実力はある、と思ってるんだろうね、彼らは。

さ:ベタ中心のクイズをやってれば、知っているベタの数で実力は測れるからね。

い:予選のペーパーがまさにそれだよね。だから、教養はあるんだけど勝ち残れない人が出てくる…。

さ:まあ、それはいろいろあるだろうけど、とりあえず、ベタの無い大会を作れば、みんなが認めてくれる、っていう下地ができていることは事実だよね。一般に実力があると思われている人が予選すら抜けられない、っていう大会を、非難する人が少ない、っていうか、むしろ面白がってくれる人が増えてるよね。もちろん、その原因は、オープンが一部の人だけのものになっている、っていうのがあるよね

 

(1)この2人はかなり前から親しい仲なので、他人行儀なのは変だ、という意味。

(2)どうもささき氏の思い込みかもしれない不用意な発言である。ベタ=痛いという図式が成り立つ訳はない。そのことに関しては後述。

(3)TQCではベタが出題されにくい、ということと、ベタを出題すると何を言われるか分からない、ということと、他のサークルと違い、ベタがベタじゃなく感じられる、などの理由が考えられる。

(4)いくらそう思っていても、早押しの最中で不機嫌そうな顔をするのはルール違反ではある。

(5)東大(中略)オープンの問題が、濃いとは決して思わないが、一般にはそう思われているだろう。理由としては「全くの新作問題が多いから」が挙げられると思う。普通ならボツにする問題を使い、普通なら使う問題をボツにしている。拙著「第4回」に「没問題」を入れているのも、そうしたことをはっきりさせたかったからである。

(6)クイズ界(というものがあるとして)に身を置いている以上、どんな人でも一般の人より濃いのは確かである。それを一般的にではなく、クイズ的に薄めるのが悪い、と言っているのである。

(7)社会人が学生のクイズをどう思っているかは不明だが、5大戦などを社会人が主催する理由がよくわからない。学生同士の交流戦にすればよいと思うのだが、どうでしょう?まあ、この発言は社会人についてだけ述べたものではない。

(8)詳しくは「長戸本」や「RUQSのクイズ全書」を参照。

(9)「絶対ニューヨークへ行きたーい」を参照。

 

第2章 オープンと独創性

 

い:じゃあ、今度はオープンのあり方について少し話しましょうか。

さ:ベタの話はあれで終わり?もっと話しましょうよ。

い:きりがないからねえ。まあ、あの、オープン大会ってさ、最近東大は活躍しないよね(1)。

さ:相変わらずごまかすのがうまいねえ。まあいいや。東大ねえ。当然なんだけどね。

い:というか、勝とうとしてないでしょ。

さ:別にそういうわけでもないと思うんだけどね。とりあえず「市井のクイズが我々に追いついていない(2)」ってとこかね。

い:相変わらず強気だねえ。でも、一般的に見て、TQCのクイズはかなり強いよね。

さ:わたしが偉そうにいうのも何だけど(3)、みんな知識量とその質はものすごいものがあるね、確かに。だけど、オープンになると勝てない。ひとつには予選に弱い、というのがあるよね。まあ、予選だけ強いのもどうかと思うけどね(4)。

い:でも、予選を抜けても何か弱い。

さ:やっぱり予選の次の早押しだろうね。予選の次は必ず早押しでしょ(5)。これがウチは弱い(6)。逆に言うと、これ以降はある程度勝負運というか、誰が勝ってもおかしくないというか。

い:本来は誰が勝ってもおかしくないクイズが、一番楽しいと思うんだけど、正直言って難しいよね。予選のペーパーをやめるとすれば別だけど。

さ:あんだけウルトラ好きのクイズプレーヤーがいながら、誰も予選に〇×をやらないよね。あれは不思議でならない。何かいいアイデアない?

い:うーん、例えば、予選のペーパーを、アバンギャルドにするとか、超難問にするとか。

さ:ペーパー以外なら、〇×、3択、全員でローテーションなんてのもなかなか。

い:うーん、どれもこれも独創的じゃないな。

さ:まあ、小山氏が何か考えているんだろうな。きっと。とりあえず、みんながペーパーである必要はないと。

い:ペーパーでもいいんだけどね、ベタじゃなきゃ。

さ:出たことある問題ばっかだもんね。ペーパーなんて。クイズ本を暗記すれば勝ち抜けられるなんて、そんなの知識比べじゃない。

い:まあ、クイズが知識比べである必要はないんだけど(7)。それはともかく、例えば「第2回東大(中略)オープン」の問題の中で、クイズ本にあったのは、わたしの記憶が確かならば「ヤクルトの内容量」くらいかな(8)。まあ、1問くらいなら、かぶったうちには入らないね。

さ:でも、ペーパーやってる最中に気にはなったよ。とはいえ、わたしの企画だってクイズ本とかぶってるのが多いからなー。まあ、無意識的にかぶるのはしょうがないにしても、、、

い:そうだね、複数の人間が作ったペーパーが、クイズ本問題だらけだとしたら、確信犯としかいいようがないね。やっぱり、クイズを山ほどやった人が勝てるようにしてあるのかな。4〜5問くらいならあまり気にならないけど。

さ:とはいえ、普通に問題を作っても、やっぱりかぶるからねえ。こないだバイトで、クイズ研以外の人がクイズ問題を作るのを見たんだけど、結構ベタだらけだったね。やっぱり、クイズ問題にしやすい知識というのは、誰にとっても同じなんだと思ったね。得意ジャンルだといい問題になるんだけどね、本から作るとベタばっかり。しょうがないのかなあ。

い:だから今のクイズは…、まあいいや。とにかく、何とかしてマニアックな問題を避けようとすると、似通った問題ができちゃうのかもね。多少易し目で。

さ:そうなんだけどね。だから、ベタを出したからっつって、すぐに非難しちゃあいけない。だけど、クイズの広がりを考えると、ベタはちょっと…。クイズの広がりを考えて行くとさあ、どうしてもベタを捨てたくなるね。

い:でも、ベタよりひどい問題もあるじゃん。

さ:あるねえ。もっとクイズの広がりを否定してしまっている問題。

い:クイズが何でもありだ、っていうことを分かってないっつうか。じゃあ、まあ、ちょうどいいんで、この辺で難問について(8)聞きましょうか。

 

 

(1)昨年度の主なオープンでの戦績は、東大(中略)オープンで、本藤氏が決勝進出。明大オープンでは秋元氏が決勝進出。K1では佐々木氏がベスト8進出。

(2)某氏の著書の「市井のクイズはまだまだ東大のレヴェルには追いついていない部分が多く」という記述を多分に意識している。その後「まぁオープンの予選問題にクイズ本からパクってきちゃいけませんよってこと」という言い得て妙な記述がある。

(3)確かにその通りだ。お前なんかに言われたくない。

(4)削除

(5)オープンの予選ペーパー後の第1ラウンドは、大抵は単なる早押しクイズである。ベタが出題されることが多い。最近は多少ベタ以外の問題も出るようになって来た、と信じたい。そろそろ変革期だろうし、今年は別の方法も何処かで表れるかもしれない。

(6)本気でサル押しをしようとおもえば、できないこともないのかもしれない。

(7)佐々木氏は、クイズの知識比べ以外の要素も、積極的に認めて行かなくてはならないという立場に立っている。つまり、「問 対義語の対義語は何?」とかいう、訳の分からない問題もありだとする。

(8)ちなみに、この問題はFNSの「クイズ王2」に書いてある。

(9)佐々木氏は、難問が好きらしい。その理由が登場する。

 

 

第3章 難問と悪問

 

さ:難問ですか…。わたしは大好きなんですがねえ。とはいっても、やっぱり物によりますかねえ。

い:どういう問題が好きなの?

さ:やっぱり、教養があふれる問題かね。問題を作った人の教養が見え隠れするというか、別に教養でなくても、詳しい人が作った問題ね。これは気持ちいい。分からなくても。

い:うーん、変わった意見だな。

さ:世の中に難問は山ほどあるけど、面白いのは少ないね。これはしょうがないんだけど。だって、問題があって、それを面白いと思うかつまんないと思うかは、その人のそれまでの生き方に関わってるからね。

い:相変わらずおおげさな言い方だけど。

さ:たとえば、「俳句の季語の名付け親は誰?(1)」という問題があったとして、わたしは面白いと思うんだけど、普通の人はたいていつまんないと思う。逆に、サッカーの難問なんかは、わたしにとってはたいていつまんない。だって知らないんだから。というより、興味が無いんだから。

い:クイズの問題は、興味がなけりゃあ、全然つまんないもんね。だから、それでいいんじゃない?

さ:そう考えると、専門的じゃない難問こそが、最大公約数的な難問なのかもね。

い:たとえば?

さ:うーん、「中島みゆきは何教徒?」(2)とか。

い:それはどうかな? まあ、専門的じゃあないけどね。

さ:あとは、「デビュー曲を『扉を開けて』というタレントは?」(3)とか。

い:本当に超難問だな。どっちかというとマニアックでもあるけど、まあ、いいかも。

さ:やっぱり答えもメジャー、問題もメジャー、という難問がテレビ番組とかでは好かれるよね。でも、大学生のクイズなんだから、多少は教養問題があってもいいんじゃないか、と思うんだよね。

い:テレビ番組のクイズと、大学のクイズは厳然と分けて考えないと。

さ:そう。でないと、何のためのサークルか、と思うね。

い:ただ、難問とそうでない問題を分けようとするのは、どうかと思うんだけど(4)。

さ:本当はね。最初の早押しに超難問が出ても、全然不思議じゃない。

い:そもそも「基本問題」という言い方はどうかと思うね(5)。

さ:知識の持ち方なんて、人それぞれだからね。

い:とはいえ、「悪問」と言われる問題は、難問の方が多いけどね。

さ:そりゃあそうだ。「難問」なんて、けっきょくは自分勝手なんだからね。

い:でも、自分勝手の中に自己主張があるって言うか。

さ:自己主張がない問題なんて、出題する意味がない。

い:好き嫌いもそうだけど、少しは自己主張をしやがれ、っていう感じもするね。

さ:今のクイズは、自己主張に欠けてるからな。

い:そう、その通り。何か訴えてくる問題を作りやがれ、っていう。

さ:自分らしさを求めてないからな。××氏(6)の作る問題なんか、自分の好みっていうよりは、クイズに出そうなことだけだからな。

い:まあ、それはともかく、クイズを広げるのに一番いいのは、自分の好きな問題を作って他人に出すことかもねえ。でないと、いい問題はできないし。

さ:うーん、どうなんだろう?とりあえず、百科事典とか、なんとか事典みたいなものから作りまくってるのなんて、論外だね。まあ、クイズは何でもありなんだから、そういうのが少しはあってもいいと思うけど、そればっかりだとねえ、百科事典クイズのすべてを否定はしないけど、ちょっと安易って言うか…。

い:確かに、安易な問題作りが多い、ってゆうのはあるね。まあ、知識、というより、情報がひとつあれば、問題にできる、っていうのは間違いないんだけど、で、そういう安易なところからいい問題ができたりもするんだけど、オープン全体としてのバランスも考えないといけないし、そうするとかなりの苦労が強いられる、っていうか、だけどそういうところにもっと苦労するべきだ、っていうか、部外者のわたしがいうのもなんなんだけど、全部が「はじめて物語」の問題(7)じゃあ飽きちゃうし、ベタだらけっていうのもちょっと…。だから、何らかの方針に沿って少人数で問題を作るんじゃなくて、少なくとも10人以上の人が好き勝手な問題を作ってそれをまとめる、という感じの方がいいと思うんだけど。

さ:たしかに、問題作りは少人数じゃないほうがいいね。ひとりの人がちゃんと作れる問題なんて、100問が限界なんじゃないかな(8)。

 

(1)答えは大須賀乙字。俳句界若しくは文学界では知られているが、一般には知名度0。

(2)答えは「天理教徒」。祖父母の代かららしい。とはいえ、あまりこだわっているようには見えない。

(3)答えは大東めぐみ。第4回の決勝で出題。正解者は秋元氏ひとり。どうでもいい、っちゃあどうでもいい。

(4)彼の「どうかと思うんだけど」は、「まずいよねー」「いやだよねえ」くらいの意味。

(5)長戸本などの「基本問題」という言葉を意識している表現。たとえば、水津本の「基本問題」を、「基本問題」と認識できるまでには、クイズを初めてからだと数年かかるはずだ。

(6)削除。

(7)第2回K1を意識した発言。

(8)そんなこと言って、早押しチャンピオンシップはどうするつもりなのだろう?

 

 

第4章 クイズ好きとクイズ番組

 

さ:こないだクイズ作りのバイト(1)に行ったときに、他大学(2)の問題を見たんだけど、人によっては文法がめちゃくちゃだったりしてさ、ほとんど直しで、ディレクター(3)の人が怒っちゃって、「連盟があるんなら、各研究会に問題を提出させて、ひどいところは脱退させろ」、って言ってたんだけど、そういう意味でいうと、文章を無視した問題が増えてるんじゃないかな。

い:自分が覚えるために何でもくっつけちゃったりとか、ベタ落ちするものとか、文章の流れを考えてないのが多いね(4)。

さ:わたしのは比較的短いのが多いんだけど、理由はわからない。クイズ的な文法を壊す努力はしてるけどね。

い:クイズ的な文法ね、確かにあるね。

さ:例えば、「〇〇〇なのは何故」なんて問題は、今までクイズ研究会では無かったよね。ビジュアルとか音声とか、形式をどんどん広げていくと、クイズが広がって行く、って言うか、何を見てもクイズになる、という状態に頭がなる、っていうか。「映像の世紀」を見ているとき、ホー=チ=ミンが写った瞬間「この映像はクイズに使える」って瞬間思ったもんね。そのとき自分のことを、クイズ好きだと思ったね。

い:水谷さんがギターを買ったとき「コードクイズ」を思いついたのなんか美談だね。

さ:あの人が本当にクイズ好きだという所以は、ああいうところだね。何でもクイズにできる。何の先入観も持ってないし、名簿があると「名簿クイズ」を始めたり、そういうとにかく楽しもうとする遊び心っていうか、だから彼はクイズの神様に好かれる(5)のかもしれない。

い:「すべてのものがクイズになる」って、みんな口では言うけど、本当に実行できるか、っていうと、なかなか難しい。技術的な事でできないのはしょうがないけど、自分が知り得たことは、なるべくクイズにしようと思わなきゃ。そうすれば、ベタがどうの、とかいう議論はどっか飛んじゃうね。

さ:技術的なことだと、テレビに任せるしかないか。。。

い:テレビももっと金かけなきゃ。映像クイズなんかは結構金かけてるけどね。アタックみたいに普通の問題を出すだけのクイズは、もう飽きられてるんだよね。

さ:確かに、クイズには「わび・さび」を味わう楽しみもあるから、そういう番組があってもいいとは思うんだけど、それはもう視聴率は取れない。「シンク」みたいに夜中の地味な番組ならいいかもしれないけど、かつてのようにゴールデンは無理だね。

い:評論家の立場で言わせてもらうと、ああいうクイズ番組は、やっぱり「家族の団欒」のときに見るべきなんじゃないかな。だけど、小さい子供がいる家庭だと見られないし、そもそも団欒自体減ってるよね。小さい子供に受けている「マジカル」が生き残るのは当然だね。あの番組は頭を使う要素を減らして生き残ってきたからね。

さ:だって、最初は小さい子供向けの問題なんてなかったもんね。

い:俵孝太郎から北野大にしたのなんて、象徴的だね。千堂あきほから加藤紀子への変化もそう。

さ:パソコンのCMみたいにさ、いかにもパソコンを使えない長嶋とかを使う手法と同じだな。

い:それはちょっと違うけど。ともかく、マジカルは少なくともあと1年はもつね。視聴率が高いんだから。

さ:でもさ、最近つまんなくなったよね。マジカルチェンジなんて、全然おもしろくない。明らかに小さい子供向けの単なるバラエティーという気しかしない。

い:結局、あの番組も疑似体験(6)できない番組なんだよね。シャウト以外は。

さ:昔はわたしも所さんと対決しまくってたのになあ。たまに千堂にすら負けたりして、そういうのも面白かったんだよね。今は、はっきり言って、疑似体験ができない以上、クイズ番組とは言えないね。単なるバラエティー番組でしかない。

い:確かに、今までの観点から見るとクイズ番組とはいえない。ただワーキャー言ってるだけの番組のような気もする。知的な見方は要求されないし、言わば「芸能人水泳大会」と変わらん。

さ:そういう番組が受けるんだから、それでいい、っちゃいいんだけど。

い:だから、やっぱりかつてのクイズブームのころみたいなクイズは、もう現れないかもね。

さ:そういうクイズを面白い、と思う下地が無くなったからね。しょうがないね。

い:クイズ番組を無理して作るより、普通のバラエティーの方が広がりがあるし、視聴率も取れる。

さ:でも、考えようによっちゃ、クイズ番組なんて、単なるバラエティーでしかないのかもしれない。例えば、ウルトラクイズはドキュメンタリーだ、って、わたしは思うけど、それは何十回もビデオでみたからそう思うのであって、普通にお茶の間で見てる分には単なるバラエティーでしかない。高校生クイズもまた然り。その裏にあるドキュメンタリー性は、それ程感じられない、っていうか。

い:ついに禁断のウルトラに話が及んだな。。。

さ:だから、ウルトラクイズが終わったのは、しょうがないことだと思うね。スタッフにしてみれば、こんなに素晴らしい番組なのに、視聴者からすると、他の凡百のバラエティーと変わらない。でもスタッフとか、ウルトラ好きの人達は、ウルトラの面白さを信じ続けてる。それだけにすがりついてウルトラを行うのは、単なる惰性でしかないし、テレビ局としては許されないことなんだな。バブルもはじけたし、視聴率が悪いんだもの。裏番組のドラマの方が視聴率取ったりする。そうなると、巨額の金をかけて、たかがクイズ番組を作ってられない。勿論、日本テレビがスペシャル物自体から撤退しちゃった、っていうのも原因としてあるんだけど。

い:高校生クイズも似たような状況でしょ。

さ:でも、あっちは「高校生」というブランドがある。日本人は「高校球児」とか、そういうの好きだからな。高校野球だってさ、面白さだけだとプロ野球の方がはるかに面白いのに、視聴率を取りまくる。あれに似てるね。で、ノリはいかにも今時の高校生、っていう。色んな高校生が出てるからね。それを見るだけでも面白い。クイズなんか二の次って感じだね。

い:そういえば、俺が高校のころ、高校生クイズが放送された次の日に、教師が授業中「昨日の高校生クイズは凄かったね。あれに出るほど頭のいい奴はこの高校にはいないのか?」とか抜かしやがるんだな。高校生クイズに出てる人が、「頭がいい」と思われてることに吃驚したね。こっちはYES・NOで落ちて悔しがってるのに(7)。

さ:だから、高校生クイズってのは、もしかしたら大人が見る番組なのかもしれない。子どもたちが必死こいてる姿を見てる、っていう。

い:それで、今の高校生も捨てたものじゃない、とか抜かしやがる。

さ:たかがクイズなのにねえ。

 

(1)「マイエンジェル」問題作成のバイトのこと。詳細は後に譲るが、ナムコのゲーム機用に東大と他大学に作成を依頼したクイズ問題で、つまんないものとかどうしょうもないものを除き、代わりの問題を作る作業を1か月くらいしていた。なお、このクイズゲーム機は7月頃全国に出回る。

(2)法政と早稲田普段我々が接しているリバティや研究会ではなく、法政の研究会と早稲田の何とかという団体(布川派だろうか?詳細は不明)の方。

(3)一応名前は伏せておくが、クイズゲーム機の問題を数回仕切った人らしい。「信長の野望」や「クイズ塔」なども手掛けたらしい。本業はライター。

(4)詳しくは、後の原稿を参照。

(5)クイズの神様に好かれる佐々木がしばしば使う表現。黙っていてもクイズ的に運が回ってくる状態を言う。佐々木は、それをプレーヤーの精進やクイズ界への貢献の賜であるとする。

(6)疑似体験クイズ番組が、他のバラエティー番組と決定的に違うのは、視聴者がテレビを見ながら参加者になれる、という点である。いわばある程度「能動的な楽しみ」なのである。

(7)池岸氏は佐々木氏と同じ秋田県立横手高校出身という設定であるため、8月下旬になると2学期は始まっている。ただ、彼にこう言った教師の心には、進学校が多く登場していたなあ、という考えがあったかも。ただ、クイズやってます、って言うと、頭いいねえ、と図らずも言われることが多いに違いない。

 

 

第5章 クイズ番組とクイズブーム

 

い:かつてのクイズ番組ブームのころ、あそこまでクイズ番組が流行したのは、今みたいなタレントが、あまりいなかったからっていうのがあるね。

さ:「今みたいなタレント」?

い:うん、つまり、そうだねえ、加藤紀子とか、早坂好恵とか(1)、とりたてて技能を持ってる訳じゃない、っていう、いわばバラエティーに出て、とりあえず何らかの反応を示すっていう。

さ:単なるテレビタレント。

い:そう。そういう人達が、素人よりも使いやすい。昔のクイズブームの頃だって、そういうタレントがいたら、素人の変わりに使ってたんじゃないかな。

さ:でも、逆に素人が変にテレビ慣れして、使いにくくなった、っていう状況もあるね。テレビに出ても大して緊張しないって言うか。

い:求められてもいないのに、テレビ慣れしているせいか下らんコメントを言うクイズプレーヤーは多いね。

さ:とりあえず、求められているのはどんなコメントなのか、ってことを理解しろ、といいたいね。喋り過ぎるクイズプレーヤー(3)の多すぎること!

い:そうなると、面白い素人の定義が変わってくるね。変に落ち着いた人じゃなくて、ちょっと何処か変わってる、っていう。

さ:逆に言うと、面白ければ何でもいい。

い:でも、面白い素人なんて、本当にいるのか、っていうと、結構疑わしい。

さ:だからこそ、保険の意味でもタレントに力を入れる、っていうか。「ねる様の踏み絵」(4)に出てる素人なんて、自分じゃ面白い積もりだろうけど、結局「とんねるず」っていう猿回しがいないと何にもできない。でも、あれは象徴的だよね。

い:クイズの場合も、素人を使う意味が薄れてきたんだろうね。きっと。

さ:昔から意味があったのか、っていうと、疑問だけどね。

い:そう考えて行くと、もしかしたら、クイズブームなんて、どの時代にも存在しなかったんじゃないか?

さ:また、急に話が飛ぶねえ。少し聞こうか。

い:昔のいわゆるクイズブーム(5)は、クイズ番組が山ほどあった、ってだけのことであって、それなら参加してみるか、っていう素人がごく一部いた、ってだけのことであって、、、

さ:確かに、クイズに参加しない人の方が遥かに多かった訳だしね。でも、視聴者の目から見ると。。

い:視聴者だって、番組が多かったから見てただけじゃん(6)。あとは団欒の雰囲気に合ってただけで。

さ:過激だなあ。ということは、あのブームは、マスコミが作った、ってことになるのか?

い:だから、一般から起こったものじゃない限り、ブームとは呼びたくないっていうか。

さ:うーん、いささか観念的な話になって来たな。ブーム、っていう言葉の捕らえ方だね。

い:うん。これ以上は言葉の問題になるから止めるけど。でも「クイズブーム」っていう言い方は、やっぱり変だね。マスコミか、それに躍らされるクイズプレーヤーだけが使ってる。

さ:わたしもやっぱり、クイズブームは無かった、と考えたい。そうしないと、ブームに乗っかって努力しない輩が増える、っていうか。

い:そうすると、自然にクイズ研究会衰退の話に行くよね。

さ:TQCにいると、実際のところどうなのか、よくわからないでいるね。元々クイズばっかりやるような研究会じゃないし、そもそも「研究」なんかしてないしね。だから、「今年は1年生が少なかった」くらいの認識しかない。みんなそこそこ面白がって活動してるし。

い:クイズ研究会だからクイズばっかりやれ、っていうのは、時代に逆行してるね。

さ:確かに、基本はクイズでなくちゃまずいと思うけど、とりあえず、クイズの名の元に集まってきた人々が、適当に何か面白いことをすればいい、っていうか。水谷さんじゃないけど、クイズ研究会、っていうサークルを楽しめばいいんだから、クイズにこだわる必要は無い。

い:でも、クイズを全くしなくなったら、クイズ研究会じゃなくなる。

さ:だから、楽しいクイズをすればいいんだな。クイズの楽しみを分かってもらう、とか、そういう高飛車な態度じゃなくて、とりあえず、遊びとしてクイズに誘う、っていうか。

 

(1)必ずしもバラドルである必要はない。森末や池谷、渡嘉敷などのスポーツ流入組や、お笑い崩れなどもいる。

(3)テレビに出て「プロ」っぽく振る舞う人を指す。テレビ局がああいう人々を求めているので別に非難する気はない。

(4)とんねるず司会の番組。カップルが毎週数組登場して、お互いの愚痴を言い、他の気に入った異性と話をしたりして、他の異性に乗り換えたりすることを見せる番組。登場するのは主にバカなコギャルとチーマー系の粋がったバカ男のカップルであることが多い。

(5)1980年台に山ほどクイズ番組があったころの状況を指している。特徴としては、大阪のクイズ番組が多かったことがあげられる。関東に住む我々では、関西の状況は分からないのだが、そもそも視聴者参加のクイズ番組は、関東に向かないのかもしれない。

(6)クイズグランプリやスーパーダイスQは毎日のように放送されていたし、日曜はアップダウンクイズ・世界一周双六ゲーム・ピタゴラスが午後7時台に犇めいていた。

 

 

第6章  クイズというゲーム

 

い:クイズの面白いところとして、勝ち負けは別として、「この1問が答えられたから嬉しい」、とか、「何でこの問題が分からなかったか、悔しい」とか、そういうところがあるよね。

さ:わたしもマンオブの予選で、結果は全然駄目(1)だったんだけど、「草上の昼食」が答えられたからいいや、ってのがあったね。そういうのは個人個人の基準で楽しめる部分だよね。大局的に見ると勝ち負けがあるんだけど、そこに至る過程では、ものすごい心の動きがある訳でしょ。

い:それを如実に表しているのは「責任押し」っていう言葉だね。

さ:別に責任があるわけじゃないんだけど、自分の中で押さなきゃ、ってのがあるんだろうね。

い:確かに「答えたい問題」とか「押したい問題」ってのはあるね。

さ:問題だけに関して言うと、そういう楽しみ方が一番フツーだと思う。あとは、そこにルールが絡んできて、その応用型を楽しむ、、、

い:ルール自体を楽しむクイズの場合はまた別だけどね。

さ:いや、ほとんど変わらないと思う。所詮心理戦だしね。

い:うーん、やっぱりクイズは「メンタルなゲーム」なのか。

さ:クイズは、結果に至る過程を楽しむゲームなのに、結果だけを求めようとするから技術論に走りだす。負けたら死ぬ、っていうんなら別だけど、勝ち負けなんてそんなに重要じゃないでしょ。

い:でも、負けるよりは勝ったほうがいいでしょ。

さ:そりゃあ、勝負事だからね。勝つに越したことはないし、遊びだからこそ勝ち負けにこだわった方が面白いと思うよ。でも、負けてもいいじゃん、と思わないと、分からない楽しみもあるんじゃないか、っていうか。別に、勝ちたいと思わない、って言ってる訳じゃない。ただ、勝つときは向こうから勝利が転がってくるし、負けるときは何をやっても負ける。だからこそ、勝ち負けにこだわり過ぎない、っていうか。勝ちが最終目標じゃない、っていうか。まあ、これはわたしの考えで、他の人はわからないけど。

い:過程を大事にする、っていうのは、羽生みたいだな。

さ:でも、あっちは最善手を打てば、まあ勝てる、っていうのがある。クイズは、知ってることを全部答えても、勝ちにつながるとは限らないし。負けても責任はないよ、っていう。

い:知識を得る、っていう部分については?

さ:知識を得るのは、クイズの楽しみ、というより、人生の楽しみ、って感じかな。クイズの為に、っていう気持ちは、基本的には無い。

い:でも、時事問題作ってるでしょ?

さ:あれは、企画で出題するから、っていうのと、芸能は好きだから、っていうのと、いざというとき急に問題が必要になったら楽だ、っていう位の意味しかないんだけど。っていうか、あれをやったからクイズで役に立ったっていうことは、あんまりないね。

い:もしかしたら、「知識を得ること」と「クイズをすること」は、同じなようで、同じじゃないのかも。

さ:少なくとも、同一視しちゃいけないのかもね。

い:クイズの為の知識が、普通の知識と分離しつつあるのは、その象徴かもね。

さ:その点にたいして危惧してる奴がどれくらいいるのか、って言いたいね。

い:いないだろう。きっと。

さ:でも、クイズだけにしか必要ない知識だとしても、クイズに勝ちたいと思えばそれでいいんだからね。

い:ちょっと程度は低いけどね。

さ:うーん、でも、そういう知識を「程度が低い」って言っていいのかな?知識なんて、優劣は付けられないんじゃないの?

い:うん、知識自体には優劣は無いと思うんだけど、その仕入れ方(2)に問題がある、っていうか。

さ:でも、知識の本質は「知っていること」にあるんだから、仕入れ方にも優劣は無いんじゃない?

い:確かにそうだな。ううーん、まあ、いいか。知識のことに言及するとよく分からなくなっちゃう。

さ:だから、きっとクイズは単なる知識比べじゃないんだな。知識を比べるだけならもっと他の方法を取ればいいんだから。知識比べに、何かを混ぜた、っていうか、考えられるすべてのものを混ぜた、っていうか。真剣勝負の要素もあるし、遊びの要素もあるし、運だめしの要素もあるし、そう考えると、知識は二の次にしても、まあ、いいか、って感じだね。

い:深く考えるのは嫌だ、っつー訳だ。

さ:うーん、昔は結構考えまくってたけど、最近は別にいいか、って思う。ただ、わたし自身は知識比べの要素が結構好きなんだな、これが。

い:知識比べねえ。確かに、前提にあるのはそれだからね。それだけは忘れちゃいけない。

さ:逆に言うと、誰が勝ってもいい遊びなんだな。知識量を測ることはできないんだから。

い:ということは、知識比べ以外の要素を面白くしないと駄目ってわけかな。

さ:そう。知識を比べよう、と思ってクイズやる奴なんか、ひとりもいないんだから。禅問答をしよう、ってんじゃないんだからね。だから、根底にあるとはいえ、あんまり拘泥せずともいいと思う。とりあえず、クイズの最もいいところは、「何でもあり」的な所でしょ。もちろん、人道的に問題のあることは別としてだけど、それ以外なら、大抵のことはしてもいいと思うし、大抵の知識は問題にしていいと思う。

い:それだけエラソーな事を言うんだから、何か新しいこと考えてるんだろうね。

さ:全然。元々あたしゃ、アイディアマンじゃないからね。こうありたい、っていうだけの事で。ただ、問題作りに関しては、結構常識を破って行きたいな、という気持ちはあるね。自分の問題が、今のクイズでどれだけの位置にあるのかわからないけど。クイズ界の常識的な問題(3)ばっかり出題するクイズは、気持ち的に嫌いだね。嫌い、というだけで、別に否定はしないけど(4)。

 

(1)予選通過点数は24点。佐々木の点数はおそらく16〜7くらい。話にならない。本人は「二択を外しまくった」とか言っているが、「難問が好き」とか言ってる割には大したことない。

(2)クイズの為の知識をクイズ自体から得ること。もっとひどくなると、クイズ自体からクイズを作るようになる。現在のクイズ研究会では当たり前のように行われていることで、他人が作った問題を集めまくって、覚えまくろうとすることで、ペーパー対策などにすることが多い。なお、他人の問題の使い方としては、この他に、夜中の流しに使う、などがある。どっちにしろ、クイズプレーヤーは(わたしも含めて)他人の問題を大事にしないかもしれない。確かにクイズ問題は「消費財」なのだが、1問1問を大事にしないと、問題作成の際の粗製乱造につながるかもしれない。作るときにはきめ細かに、出すときには大胆に出題する、という心掛けでいたい(とまたエラソーに)。

(3)決して「ベタ」と同義ではない。クイズによくあるパターン、というのとも、多少違う(クイズによくあるパターン(クイズ王への道のジャンル分けのような)でもいい問題はある)。どっちかというと、クイズによく出るジャンル・単語を取り巻いた問題、という位の意味。

(4)佐々木氏は、嫌いだ、という理由だけでその事柄全てを否定する場合が多いのだが、ここではクイズについての真剣な話なので、感情論に走ってはおらず、直接否定はしていない。

 

 

社説集

 

COLUMN1 クイズ問題について

 かつて、こういう問題を作った。

問 週刊少年ジャンプの「ジャンプ放送局」で、チャンピオンレースの初代チャンピオンは誰?

 わたしが言うのもなんだが、これは結構いい問題だと思う。まず素材が新しい(素材が新しければいいのか、という疑問もあるが)。ありがちな「初代」を問うていながら無理がない。読んでる人は絶対知っている。

 こういった問題を出題することは、クイズの可能性を広げることになるかもしれない。少なくとも狭めはしない。というのは、クイズプレーヤーで答えを知っている人の割合と、一般人(特に20代男性)で答えを知っている人の割合があまり変わらないと思われるからである。つまりクイズプレーヤー特有の知識じゃない。

 誤解しないでもらいたいのは、わたしはクイズプレーヤーと一般人が同じ土俵でクイズをするべきだと言っているのではない。むしろそれはしてはいけない。何故ならクイズをする目的が違うのだから。

 

 わたしなりのクイズ問題への結論は、「何となく面白ければそれでいいかな」ってことですかね。わたしの問題集の問題が、全部面白い、って訳じゃ無いけど、自分から見るとそこそこの面白さは感じているんですね、これが。ある程度自己満足っぽい問題を作って出題すると、面白さを共有し得る人が出てくると思うし、もちろん自己満の問題ばっかりだとつまんないけど、個人企画に数問混ぜる位なら許されるんじゃないっすかね。

 

COLUMN2 クイズは情報戦か?

 現在、オープンとかのクイズで本気に勝とうとすると、自分で問題をたくさん作っても間に合わないと思う。クイズでは(時事を除き)、1度出題された問題は、何処かでまた出題される、と考えていい。だから、様々なところから問題を集めたり、他人の問題に目を通したりしておかないと勝てない、という状況なのかもしれない。クイズは問題をこなせば強くなる、とよく言われるが、それは現在のクイズがそういう「システム」だからである。それをよく物語っているのが関西のパソコンでクイズを送れるシステムである。そんなのクイズといえるのだろうか? 問題をコミュニケーションの道具に使っているとはわたしには思えない。ただ情報を交換する道具としかいえない。つまり、彼らにとってクイズは一種の「情報」なのではないか。

 

COLUMN3 クイズ研究会について

 東京大学クイズ研究会は、略してTQCという。「Tokyo University Quiz Club」の略らしい。日本語に直すと「東大クイズ倶楽部」(クイズ、という言葉は日本語と考えてよかろう)と、そのままにしかならない。

 「昭和六一年一〇月、RUQSのめざす方向をめぐってサークルが二つに割れるかという騒ぎが起きる。これは、クイズ番組を公式戦と位置付けて実力アップを図ろうとする「実力派」と、サークルとしては特にクイズ番組をめざさずにただ楽しければよいとする「楽しむ派」との対立であったが、(中略)。ところが問題解決のために開かれた全体会議では議論が実力派の一方的な展開となり、結局はクイズの可能性を追求することが実力アップにつながるのだという実力派の主張が全員の了解を得た。」(『RUQSのクイズ全書』)

 この記述を含め、この本を読むと、RUQSの基本精神は会員が協力してクイズに強くなっていこう、ということであることが分かる。はっきりいって実力アップに拘っている。

 TQCで同じような議論が出てきたら、多分「楽しむ」という結論が出るだろう。それは自然だ。

 普通サークルには2種類有る。1つは体育会系のもの。もう1つは楽しむもの。この分類はテニスサークルをみると如実に現れている(勿論、普通は多少折衷されている)。クイズはどっちか。TQCは後者であろう。RUQSは前者なのだろうか?

 

COLUMN4 百科事典クイズ

 意味の無い難しさを誇る問題を「百科事典の隅っこから作った問題」と呼ぶ。勿論これは、ある問題を作った後に百科事典でウラとりすることは含まない。では、意味のある難しさの問題とはどんな問題なのか。

 「難しい」とは多数の人々が知らない問題を形容する言葉である。次に難問の例を挙げて考えてみたい。

 1 俳句で、それまで「季題」などと呼ばれていた概念を考え直し、「季語」という言葉を作ったのは誰?(答えは大須賀乙字)

 これは「正岡子規集」を見て作った問題である。俳句界で大須賀乙字が「季語」という言葉を作るに至る過程は重要であり、この問題にはある程度の妥当性はある。だから、わたしとしてはこの問題を単なる「難問」と片付けられたくはない。一般に難問を出すとすれば、それは誰かにとっては意味のある問題でなければならない。誰にも意味をなさないような難問は出しても意味がない。そういう考え方からすると、この問題は不都合がないかも知れない。ところが、である。上の1番の問題は水谷氏の言葉を借りれば「浮世離れした問題」である。確かに俳句関係者にはおなじみのことであっても、一般に知られていない以上出すことは憚られる(ボイスバロット系統)。世間一般に知られていないことを出してしまうと、一般との乖離が起きる。つまり、この問題をいい問題だと思うのはわたしを含めた一部の文学関係に係わる人々だけであって、その他の人々にとっては「何だそりゃ」で終わる。より多くの人が楽しめるのが面白いんだ、という条件をつけると、この問題は「ダメ」ということになる。だが、全員が楽しめる問題ばっかりだと、クイズの持つ「知識比べ」という要素が薄れてくる。勿論、全員が楽しめるイコール全員が知っていること、という訳では決して無いのだが。そこら辺が難しい所だ。

 この問題が難しい理由のひとつは、答えの人物がマイナーなことである。現在のクイズを難しくしている理由のひとつとして、答えが難しいことを挙げることができる。で、

 1´ 中島みゆきは何教徒?(答えは天理教徒)

なんて問題は、どうだろう。この問題に難しい言葉はひとつも登場しないし、答え自体も難しい言葉ではない。それなのにやはり難しいのである。こういう問題をここでは「何択かになる問題」と呼んでおく(そうでないのもあるけど)。こうした問題は答えが知れたあと「へえー、そうなんだ」という納得や理解が得られることが多く、そういった行為後の楽しみが付随する。しかも出題されたことに精通した人は考える楽しみも得る。だから、結構楽しめる種類の問題になる。わたしが見たところ、こういう難問は比較的最近のクイズには少ない。難問というと答えが難しい問題か、難しい言葉で構成された問題を意味しているように思える。

 1´´歯医者で使われる、持ち手のついた歯の裏側を見るための鏡を何という?(答えはデンタルミラー)

 これも難問である。なぜ難問なのかを分析してみると、やはり答えが聞き馴れない言葉だからである。最近増えている「よく目にするものの名前を聞く問題」は、一般的にいい問題とされている。東大(中略)オープンでもピアノにかかわるもの(キャスター)の名前を聞いていた。あれはいい問題だと思う。

 

 とりあえずこれらの難問は、われわれのように山ほどクイズをやっている人間を対象に出題するのは別にかまわないと思う。大学生なんだから多少深い教養問題を出題してもいいに決まっている。

 わたしは、百科事典系統を初めとした難問を出すことがクイズを衰退させるとは思わない。ただ、一般からクイズ研究会を乖離させる要素ではあると思う。では「一般」とは何か。わたしなりの結論としては「常に意識しておいて、ある程度の距離を保ち続けて行くと面白いもの」。「保ち続かなくてはならない」とは思わない。保った方が面白いからそうするまでさ。百科事典から作った問題は、つまんない、というだけのことで、いい悪いを論じる程のもんでもないんじゃないかね、ってこと。面白い難問もあれば、つまんない難問もある、ってこと。そういう意味で1の問題はつまんないから「やだ」ということ。ただそれだけ。

 とはいえクイズは知識比べなんだから、ちゃんとした問題なら大抵面白さはある。また全員が面白いと思わなくとも、数人が面白いと思えば出題する価値はあるだろうし、「面白さ」にもいろいろあるわけで、水津本にある「クイズは大人の遊び」ということも妥当性があるので、「大人の面白さ」ってのもあるだろうし、そうかんがえると百科事典の難問にも少しは面白さもあるかもしれないし、、、

 もちろん、多くの人がつまんないと思っても、出しちゃいけない問題、ってのは存在しないと思うし、急に訳の分からん問題を差し挟むことも、面白いこともある。

 

 2 テレビ東京の「ザスターボウリング」の現在の司会は井上真美、都木涼子と誰?(答えは水島新太郎)

 見てれば分かる、という類いの問題。単に見たら分かる問題と、注意深く見れば分かる問題のどっちがいいのかは決められないし、どちらにもいいところはある。一般に「注意深く見れば分かる」問題は対策が立てられやすいが、「単に見ればわかる」問題は対策が立てられにくい。また「単に見れば分かる」問題は「経験してれば分かる」問題に近いものがあり、その意味では対象となる人が限られてくる欠点がある。知らない人は全く知らん、ということになる。

 3 鈴木蘭々の歌「なんでなんでナンデ」、カタカナなのはいくつめの「なんで」?

 これなどは注意力が無いと答えられない。いかにも(いい意味で)クイズ的である。本来クイズとは注意深い人のためのもの、という側面があるのかもしれない。福留功男著「私情最大アメリカ横断ウルトラクイズ」にウルトラクイズの必勝法として「むしろ日常生活に目を向けて欲しいのです。どんなに小さなことでもちょっと注意して見ておく必要があります。(中略)タバコを吸う人はタバコの箱を見て、箱には一体何が書いてあるのかよく見ておく。(中略)ウルトラクイズの高校生クイズも基本的には重箱の隅をほじくりだすような問題は出さないようにしています。私自身そういう問題は大嫌いです。日頃の生活の中から作られる問題が圧倒的に多いことを知っておいてください。」とある。答える側が「クイズに出そうだから覚えた」としても、それはそれでいい。要は作る側の意識の問題である。


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