9 今更ながら「実力」について
今後発表予定の文章は、何本かずつ並行して書かれている。「時事問題について」「高校生クイズの『問題』について」などが予定稿であるが、これら考察の途中、「実力」という言葉を相手にしなければならない状況に立ち至った。今までわたしはここんところをひどく曖昧にしてきた感がある。曖昧にしてきた理由は簡単で、「わたしの中のクイズ世界に、実力という考え方が必要無いから」だ。しかし、この辺ではっきりさせておきたい。「実力」って何だ?
まず、歴史的に見て「クイズの実力」とは、彼らが定義していたように「知識量」そのものだった。そのことを示す用例として、
などがある。いずれもペーパークイズのような形式に対する対応力を指して「実力」と呼んでいる好例であろう。
ところが、「知識量」=「クイズの力がある」という等式が、必ずしも成り立つわけではない。運や体力を別にして考えると、例えば、前に「難易度について」という項で紹介した「ルート2×ルート3×ルート2×ルート3はいくつ?」という問題に対応できる力は、「知識量」によっては定まらない。それはある種の「情報処理能力」である。また、かつて「東大クイズイノベーションU」という大会で「OHPで映し出された画像が、ぼんやりした状態からだんだんはっきりと映る中で、その画像が何なのか当てる」というクイズをしたことがある。この企画に対応する力は、ある程度の一般常識と、多分なる「想像力」であった。
また、早押し対策ということでいえば、「助詞によって問題の先を読む力」というのもある。これは長戸本にも紹介されているが、わたし自身そういう感覚で早押し問題を考えていたことが無いので、よく分からない。
いずれにせよ、「クイズの力」っつーのは、単に問題に答えることだけ考えても、かように複雑なものである。
が、今クイズ屋さんの間でよく行なわれている「前フリうじゃうじゃ問題」に対応する力、ということになれば、少し単純になる。「計算問題を解く」式の「情報処理能力」が問われることはないし、「想像力」もあてにならない。「助詞によって問題の先を読む力」もぜんぜんあてにならない。だって日本語として不自然な助詞の使われ方や接続の仕方を多用しているんだもん。
とすると、「前フリうじゃうじゃクイズ」が主流として行なわれている集団の中では、「クイズの実力」=「知識量」と定義できることになるのだろうか。うーん、そこまで単純ではない。
「前フリうじゃうじゃ問題」には、どうしても出題しにくい、つまり前フリを付けた形では問いにくい知識が存在する。例えばわたしの作った問題で例を挙げれば、
既に「隔週クイズ」で発表した問題だが、これらの知識を「前フリうじゃうじゃ問題」にするとすれば、どうなるか。わたしには想像もつかない。というか、無理に前フリをつけることでつまんなくなる可能性の方が高い。まあ「問題の面白さ」についての話は置いておこう。
とすれば、「前フリうじゃうじゃクイズ」で問える知識は限られている。だから「前フリうじゃうじゃ問題」に対応する力は、「純粋な知識量(というのがあるか分からんが)」ではなく、「前フリうじゃうじゃ問題で問われやすい知識の量」に依拠するものだ、と言えよう。まあ「ある種の知識量」を「前フリうじゃうじゃ問題を主流とする集団」における「実力」と見なせるのは間違いないし、この集団内で「実力」という概念が、大変分かりやすいものであることも間違いない。
人間というのは、分かりにくいものに接した時、2つの態度を取る。「分かりやすく単純化して分かったつもりになる」か「全く無視する」かである。「前フリうじゃうじゃ問題を主流とする集団」の態度は、明らかに前者であろう。「実力」という、何だか良く分からないものを、なるたけ分かりやすく単純化しようとする意識が「前フリ問題」を生み出した、と考えられる。何故単純化してまで「実力」というものを理解しようとする意識が働いたか、といえば、それは「クイズに勝つための努力の方向性」を一本化するためであったろう。どう努力すればクイズに勝てるか、ということを単純なかたちではっきりさせることが、クイズプレーヤーの時代的要請であったと思う。
クイズプレーヤーがクイズ番組という求心力を失った時、それに代わる求心力が必要であったろう。クイズ番組からの流れで言えば「努力したものは報われる」という言葉が実に分かりやすく、クイズ番組で勤勉さを身につけたクイズプレーヤーの琴線に触れたことは、容易に想像できる。
「長戸本」にあるように「ウルトラ」の問題には傾向が存在する。史上最強も同様。FNSは傾向が無いように思われているが、時事と肥大したベタ問題で対応していくことができた(らしい)。つまり、クイズ番組には一定の「傾向」が存在し、クイズプレーヤーが勝つための努力をしてきた。この「傾向」をさらにはっきりした形で提示したものが「前フリ問題」である。
ここまでの流れで言うと、「ウルトラ」には「ウルトラ」の実力が存在する。史上最強には史上最強に対応するための、FNSにはFNSに対応する実力がある、ということが言える。ただし、それらは「細かい傾向」の積み重ねに対応する力であるため、いささか複雑で分かりにくい。それに対して「前フリ問題」に対応するための努力の方向性は、かなり分かりやすくなっている。
と、この辺ですこし考えておこう。「前フリ問題」に対応するための努力の方向性は、どうすればいいのか。ここでわたしはひとつの大会のことを思い出す。
それは1996年の「マンオブザイヤー」という大会である。もう4年も前になるが、わたしは準々決勝「クイズ一問多答スナイパー」というクイズに参加した。ルールなどは割愛するが、早押し問題が29問出題され、そのうち3問が高校野球の問題だった。「明らかにジャンルが偏っているなぁ」「最近高校野球がはやっているのかなぁ」という、何かしら不可解な思いがわたしには残ったクイズだった。
で、久しぶりにこの大会の冊子を見なおして、数えてみたら、早押し問題全353問のうち、高校野球の問題は4問。何だ、意外に少ないな、とも思えるが、一つの大会で高校野球が4問、つーのは、やはり多いような気がする。ちなみに当時「多いなあ」と思ったジャンルについて調べてみると、相撲問題が4問、映画問題が19問。映画の19問(どっちつかずの問題が2問あるが、それは入れていない)は異常に多い。何でまたこんなに映画が多いの?
これに対する答えは、先に述べた吉屋さんの「天衣無縫」という冊子において示唆されている。78ページの記述によると、
時事を毛嫌いする輩が多い理由はまた別項に譲るが、これに象徴されるように「前フリ問題」に対応するための努力の方向性としては、「よく出そうなジャンル」「よく出そうな前フリ」をしっかり覚えていくことになる。いつも「本名」のことを槍玉にしているが、このときのマンオブでは「父は○○」というフリが多かった。ちなみにこの大会の問題や演出については、概ね評判が良かったと聞く。わたしの言う「実力」を求心力に、クイズプレーヤーが完全に集まりきった時期であった。
「よく出そうなジャンル」「よく出そうな形式(上の例では「前フリ」だが)」というのは、特に意図せずとも、クイズ集団の中でできていってしまうものである。わが東大クイズ研究会では、ジャンルとして「CM」がよく出題された。テレビ好きが多かったからである。また、「よく出そうな形式」というのも「○○、△△、××の前に共通して付く言葉は何?」的なものがよく出題された。作りやすいし、比較的簡単に面白い(もしくは笑える)ものが作れるから。
あるクイズ番組や、クイズ集団があれば、それを特徴付けるようなクイズの傾向が存在してしまう。これは免れないことなのだろう。その傾向に対応する力をその集団内の「実力」と呼ぶのなら、それでもいい。どっちにしろ、「実力」なんてその程度のもんだ。クイズ集団によって変わってくる、こっちのクイズでの実力があっちのクイズでは通用しない、そういうことが往々にして存在するような、その程度の危うい概念なのだ。
だが、ある集団が自ら定義する「実力」を絶対視し、それ以外の価値観を排除したとしたらどうだろう。狭い集団の話なら別にどうだっていい。が、「オープン」と呼ばれるクイズ大会がその「実力」だけを相手にし、それ以外の「実力」を意識しなくなってしまうと、いろいろな問題が生まれてきてしまう。問題点については別項に譲る。
とにかく、分かってもらいたかったのは「実力」という考え方はクイズ集団の持つ特殊な傾向に依拠する、きわめて危うい概念である、ということだ。
さて、冒頭で「わたしのクイズに実力という考え方は必要ない」と述べた。その理由を述べてこの稿はいったんおしまいにする。
「実力」という考え方は、歴史的用語法として「知識」という面を強調する要素を強く持つ。わたしは「クイズに対応する力」というのが、もっと複雑なもんだと思っているから、単に知識が深い・広いかどうかだけを問うクイズにしたくないと思っている。「押そうか押すまいか」という気持ちを起こさせるような問題、論理的思考を要する問題、ひねくれた考え方を持った奴が気てる問題など、そういうところをもっとクイズにいれたいと思っている。一番重視するのが「事前に特別な方法で対応することができないような問題」という考え方である。「傾向」に対応した人間を勝たせたくないから、無色透明な問題を作ったり、新しいクイズ問題形式を考え出したり、ごく易しい問題を作ったりする。そういうわたしの心情と、「実力」という概念は相容れない。
でも、それでもわたしのクイズ問題を得意とする人は、頑として存在する。そう言う人のことを、実は「実力のある人」と言いたい気持ちもある。言いたいけれど、「実力」という言葉が、今特別な意味を持ってしまっているから、言わないことにする。