6 難易度について考える

 「難易度」という概念、とても難しいものである。まず、こんなお話から始めようか。

 クイズにおける「難易度」というものを、そもそも何故クイズプレーヤーは意識し続けてきたのか。

 クイズプレーヤーは、クイズの勉強をすれば、だんだんクイズに強くなると信じている。だから、勉強の指針として「基本的な問題」「難しい問題」という区別をしておけば、何かと便利なのだ。

 しかし、クイズの勉強、ということを意識したとしても、クイズなんていうのは所詮「知っているか知らないか」が重要なわけだから、そこに客観的に設定された「難易度」というものを介在させなくてもいいはずだ。

 オープン大会、と呼ばれるクイズ大会では、予選があって、1回戦・2回戦と、だんだん問題が難しくなっていく。そういう作りにすることで、だんだん「クイズに弱い人」を落としていく、という構成を目指しているようである。

 だから、易しい問題から先に覚えていき、だんだん実力をつけていくことがクイズプレーヤーの「勉強」なのだろう。

 逆にいえば、客観的(実際は共同幻想的)な難易度というものを設定することで、クイズプレーヤーたちは「実力」という概念を生み出し、クイズプレーヤー同士の「強さ」を、共同幻想的に測定する手段を得たのであろう。

 もっとも今述べたことは、「クイズに勝つことを考えて勉強している人」だけに適用できることであって、クイズに関わる大多数のほかの人たちには、全く無縁のことである。そういう人たちは「簡単か難しいか」ではなく、「自分が知っているか知らないか」という基準で、クイズ問題を判断している。そういう意味において、「解答者は客観的に定義された難易度を意識する必要はない」と言えよう。

 

 また、クイズにおける難易度というものは、そもそも簡単に定義できるものではない。おそらくクイズプレーヤーたちが考える難易度とは、「筆記問題として出題された時、集団内でどのくらい正解率があるか」というような要素を基準として設定されるべきものと推測するのだが、この設定のし方はどの「集団」を相手にするかでだいぶゆれが生じる性質のものである。「TQC」では殆ど正解が出なくても、クイズばりばりの人たちなら殆ど全員が正解できる問題、というのも結構ある。

 つまり、彼らの言う意味で「難易度」というものを設定しようとすれば、同じ問題でも対象とする集団毎に「難易度」が変わる、ということを常に意識するべきである。

 「なんだ、こんな問題も分からないのか」ということは、だから口が裂けても言ってはならないのである。あなたが「簡単だ」と思う問題も、ちょっと外の広い世界に出れば「知ってるほうがおかしい」のかもしれないのだから。

 絶対的難易度というものは、存在しないことが分かった。では、「難易度」を意識する必要はないのだろうか。いや、そんなことはない。

 

 この辺で、ちょっと話を変えよう。もう一昨年のことになってしまうのだが、「今世紀最後!史上最大アメリカ横断ウルトラクイズ」について、「問題が易しかった」という反応があったと聞いている。ほんとうにあのときの問題は易しかったと言えるのか? 実はこのことを考えていくことが、すなわち「クイズにおける難易度とは?」というテーマに迫る、一番の方法である。そこで、ウルトラクイズの問題の難易度について、はじめに考えてみよう。わたしが1998年、復活ウルトラ放送直後にしたためた文章を紹介する。

 「ウルトラクイズの難易度について」 1998年12月ごろの文章

 ウルトラの問題は、回によって難易度にムラがあります。今「難易度」という言葉を簡単に使いましたが、「難易度」というもの自体が、本来とても定義しづらいものなのです。結論から言えば、ある問題の難易度を決定するパラメーターはひとつではなく、幾つか存在します。今までのクイズ研究者(と呼べるほどのひとはほとんどいないが)は、問題そのものに難易度が内在している、という構造を想定して来ましたが、それは実に単純化しすぎで、本当のクイズの実情を研究し尽くしておりません。問題そのものが持つ難易度(ジャンル、ジャンル内の深さ、答えの単語の知名度などを総合したもの)は、確かに問題の難易度を決定するひとつの要因ではあるけれども、それ以外にも、次のような要素がからんでくると考えられます。

  1. 出題者の読み方
  2. 出題されるときのクイズのルールなど
  3. 直前の問題、及びその企画(大会など)における他の問題
  4. 解答者の雰囲気など
  5. 解答する人の精神状態や体調

 他にもありそうですが、まずはこの辺で。

 1については、福澤朗アナがパラレルの問題(注1)を読むときのことを考えればいいでしょう。彼は「AといえばBですが」という構造の問題を読むとき、「といえば」を強く読んでしまう(福留さんはその部分を早口にするか、弱めの発音で読みます)。そうすると、「B」が答えだな、と思ってしまい「Aといえば」の直後に押してしまう(特にクイズ経験のない高校生は)。答えやすさと押しやすさがはるかに違ってくるこの要素を、「難易度を変える要因」と呼ぶことには何の抵抗もないと思います。ただし、この要素が絡んでくるのは早押しのときに限られます。

 2について、例えば「ルート2×ルート3×ルート2×ルート3はいくつ?」という問題があったとき、バラマキで出るか早押しで出るか、同じバラマキでも疲れないうちに出るか疲れ切ってから出るか、答えやすさは全然違います。実際この問題は第12回ウルトラで、バラマキ問題として出題されています。そのとき解答された方は、もはや疲れの絶頂だったようで、よく考えもせず(というか、考えられる状態でもなかったろうが)適当な答えを口走って間違ってしまっています。

 3について、ベタばっかり出題されてきた大会では、前フリでガンガン押していく。ベタっぽい前フリの引っかけ問題ばかり出題されてきた大会では、押すのがなんとなくためらわれたり、そういうことを考えてみてください。サークル単位では、出題者によっても変わってくるでしょう。

 4について、指の早い人やせっかちな人が早押しのときに加わっていれば、全体的に押すペースが早くなってしまう。押されるポイントが早くなれば、答えるのが難しくなる、ということで「難易度」があがったとみなせるのではないか。

 5については、疲れ、緊張感などの要因によって、解答者の個人的な難易度が変わってくるでしょう。これが要素としてある以上、難易度というものはどうしても個人的なものになります。

 さて、このように見てきたとき、「いや、1〜5の要素は、クイズ問題そのものの難易度を決定付ける要素とは呼べない。」という反論があるかもしれません。これはまったくその通りなのですが、実際にクイズの企画をする立場で考えると、解答者にとって解答しやすいかしにくいか、という1〜5の要素を注意深く意識することが、とても重要になってくるはずです。

 だから、わたしとしては1〜5の要素を新しく取り入れた「幅広い難易度の概念」を常に頭に入れて「難易度」を論じてみたいと思います。

 以上のように、難易度の幅を広げて行くと、今回のウルトラの問題が、決して易しい問題だったとはいいづらいと思われます。特にハワイの問題の難易度は結構高い。自分があの場にいたら、果たしてあれほどポンポン正解できたかどうか。はたから見ている人間には、本来そのクイズの難易度について、語る資格はないのです。もっと言えば、クイズ問題は、クイズ問題が使われた状況すべてを併せて考えないと正確な理解ができなくなるのです。何故この場面でこの問題が使われたのか、この問題にはどのようなおもしろさがあるのか、など、解答者の立場でしかクイズを見ることができない人には思いもよらない観点でクイズを見直すことが、本当は必要なのだと思います。

 (注1)パラレル問題とは、「AといえばBですが、Cといえば何?」の形をしている問題を言う。

 偉そうなことをつづっておるのう。もう少しこの文章は続く。

 とまあ、一応考察をし始めてみましたが、ここでひとつの壁にぶつかります。このようにして難易度を設定した所で、いったいクイズ解答者にとってどのような意味があるというのでしょうか。要は正解できるかできないか。それだけであります。難易度によって戦法を変えるという場面も、あるにはあるのですが、分かる問題に答えるのがクイズ戦略の基本ですから、難易度がどうのと言っている意味はないのです。であったとしても、難易度を考慮せざるを得ない場合はあります。企画者としてクイズ問題を構成する場合、以上述べたような難易度について敏感になり、勝負のアヤや迫力、効果的なスルーなどを構成して行かなければならないはずです。問題そのものに含まれる難易度ではなく、想定される解答者、企画に使われたその他の問題、文法などまで考慮して問題並べをすることは、企画者の醍醐味だと思います。これからのクイズの企画は、今まで以上にバランスを重視することが求められてくると思いますので、ぜひ「難易度」という言葉にこだわらず、問題について新しい観点で考えてみてください。

 言葉にすると、えらいたいそうなことを要求しているようにも見えるが、実際はどうってことない。ちょっと気の利いたクイズの企画者なら、自然と意識していることを言葉にしただけなのだ。

本日の結論
 
従来のような考え方で「難易度」を考えるのではなく、もうすこし広い観点で考えることが「企画者」にとって重要である。

 

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