16 「FNS」とは何だったか
今更「FNS」について論じてどうしようというのか、という意見もあろう。だが、この番組が後に与えた影響を、整理しておくことは必要だろう。
「FNS」とは「FNS1億2000万人のクイズ王決定戦」の略である。第1回は1990年10月に放送された。番組についての詳しい情報は本項で説明する余白が無いが、基本的には「全国で予選を行ない、上位100人がフジテレビに集合、幾多のクイズを経て優勝を決める」というものである。半年に1回放送され、1993年10月の第7回を持って、基本的には終了した。
A 「FNS」の「クイズ問題」による影響
コンセプトとして「?のつくすべてのことがクイズになる」ということを掲げていた。第1回はそうでもなかったが、第2回くらいから「クイズには絶対出ない」とそれまで思われていた事柄、具体的には「今までクイズに出にくかったジャンル」「今までクイズに出ないほど難しい問題」「重箱の隅をつつくような時事問題・数字問題」をふんだんに出題するようになる。予選問題について言えば、「時事問題をかなり頭に詰めなければ通過できない状況」が、第4回くらいからあったようである。
「FNS」は、目先の新しい問題と時事問題、対策をしていなければ絶対答えられないような(普通に生活しても絶対頭に入らないような)問題などを出題し、「史上最強」との差別化を測った。地味なクイズショーである「史上最強」に対し、「よーそんなこと答えられるのぅ」という要素の強い「FNS」は、第1回こそ地味だったものの、フジテレビの持つ独特の雰囲気とあいまって、だんだん明るい派手なクイズショーとなっていった。
クイズプレーヤーはクイズ番組で勝つことが、一番大きい名誉のことであるようだから、「FNS」「史上最強」それぞれについて対策をたてだした。とりわけ「FNS」は「時事問題が多く出る」などの対策がはっきりしているから、「対策問題」を作りまくってじゃんじゃん覚えまくっていくことになる。「能勢一幸のクイズ全書」によると、この時事問題の覚えまくりはさながら「受験勉強」のようだったという(受験勉強が詰め込みだとはあまり思わないが)。で、時事問題は既に述べたように「問題としての普遍性が無い」。だから二度と使わない知識を「付け焼刃」で必死に覚えこむ。
FNSの予選を通過するためだけにみんなで時事問題を必死こいて覚えまくった。このことが後のクイズに与えている影響は、かなり多くあると思う。
1つには、既に述べた「時事問題を忌避する雰囲気」である。「時事問題」は、クイズ番組という一種の「情報番組」の中には、無くてはならないものである。今でも「アタック25」「高校生クイズ」では夥しい量が出題される。それなのに、クイズプレーヤーたちはそれを排除しようとした。クイズ番組が無くなった1994年以降、「強豪」たちは自分たちでクイズ番組もどきのイベントを構成するに当たり、時事問題を徹底して排除し、露骨に嫌っていった。それまで時事問題を覚えていたのは、テレビのクイズ番組に出題されるから「仕方なく」していたことであるのだ、と主張するかのように。
2つめとして、「極めて対策の立てやすい問題」という概念をクイズプレーヤーに植え付けたことが挙げられる。既成のクイズ番組の問題集を覚えることから、「自分で対策問題を作って覚えること」へと、クイズの勉強法が変わったこと、これはFNSと「史上最強」の影響であろう。さらに「対策問題のたてやすい問題を出し合う」というところまで話が進んでしまったのがその後の状況であった。漢字検定一級の問題がそうであるように、「難しい問題をすらすら答えていくクイズプレーヤー」の存在のウラには、「対策のたてやすい難問」の存在がある。みんなが同じ方向性の難問を志向する事で、それまで漠然としか存在してこなかった「対策を立てまくる」という考え方が、完全に浸透しきった。少なくとも大勢の前でクイズに勝つためには「対策をしないと駄目でしょ」という状況が生まれきった。「対策の量」が「クイズの実力」に擦りかえられたのだ。
この2つをまとめると「クイズは、いつかきっと役立つような努力をしまくった人が勝つべきだ」というパラダイムが浮かび上がってくる。FNSがこのパラダイムの増幅装置であったことは、疑いようが無い。様々な面白い魅力的な(決して誇張でも嫌味でもない)クイズ問題を提供してくれて、わたしのクイズ問題の幅を大きく広げてくれたFNSが、一方でクイズを狭めていた事実がある。
B テレビ番組としての「FNS」
何処かで誰かが「FNSはまともなクイズ番組だとは思っていなかった」と発言していたと思う(誰だか忘れたが)。だったら出なきゃ良いのに、と思った。確かに、「FNS」には間違い問題が結構出題された。テレビで出題された分でも「ハードルの数(解答者は正しい答えを言ったのに、不正解にされた)」や「平泉市(という自治体は存在しない)」という答えなどがある(後者は番組中訂正された)。ウラとりがいいかげんだったことは否み様が無い。
でも、それがイヤなら出なければいいのである。みんなでボイコットすれば、番組は成立しないんだから。なのに何で出るの?ということだ。
今でこそ「アタック25で時事を出題するのを止めろ」みたいなことを発言するプレーヤーも出てきている(クイズ屋のために番組を作っているわけではないだろう。だいいちクイズは「情報番組」でもあるのだ。的外れな批判と言わざるを得ない)が、当時はちょっとくらい番組にいちゃもんがあっても、それはそれとして出場していたプレーヤーが多い。
もう一度確認しておきたいのだが、クイズ王決定戦的番組(ウルトラは別として)は、クイズ屋的な人が出場しなければ、成立しないのである。クイズの為に努力を惜しまないクイズ屋がいなければ、FNSのあの問題を誰が答えると言うのか。だから、そういう意味においてクイズ屋は、番組成立のためのキャスティングボードを握っているのである。
キャスティングボードを行使してこなかったのは、「クイズ番組に出たい」という前提がクイズ屋の中にあり、そのためにはちょっとくらい不快な状況があっても、我慢しましょう、という意識が働いたからではないか。時事問題を覚えまくるのもその意識の表れだ。
しかし、今は違う。クイズ屋はクイズ番組が自分の志向する「クイズ」と違う場合、ネットなどで批判的意見を述べたりする。そういう状況の中では、クイズ屋は出場するクイズ番組やクイズ大会を選べるように思える。つまり、アタック25は下らない時事問題が出題されるから、オレは出ないよ、などのように。
現に、クイズ大会では、大会の志向するところを吟味し、出場するかしないかを決めるクイズ屋が多いようである。が、クイズ番組において、この種の選択が為されているかと言うと、甚だ疑問と言わざるを得ない(もっともタイムショックやミリオネアは出場しにくいので諦めている人は多いだろうが)。やはり「クイズ屋はクイズ番組に出たい」というのが前提、というより公理として存在しているのであろう。
クイズ番組に出るためなら、面白くも無い勉強も必死でやるし、ちょっとぐらい不快なことがあっても我慢しておこう、というクイズプレーヤーの意識の、増幅装置としてもFNSが働いていた、と今になって思う。
本当はこの後、「クイズ番組におけるリアクションの写し方」という話を付加すべきなのだが、今回は省略する。