14 時事問題について
クイズ屋さんの世界では、どうも「時事問題」についてあまりいいイメージが無いように思われる。「時事問題」を評するのに使われる言葉は「片手間に作った問題」「思いつきで作った問題」「時間が無いからやっつけで作った問題」など。これらはともにマイナスイメージを伴った「問題についての評」である。
時事問題がオープン大会で露骨に出題されなくなったのが1995〜1996年ころからである。この時期はいわゆる「前フリ問題」が出題されまくり始めた時期とぴったり一致する。
1995年ころまでのクイズプレーヤーの「問題」に対する努力の方向性は、主に次の3つであったと思う。わたし自身も、大学1年の12月くらいまでは、このような「クイズの勉強」をしていた。
これらは長戸勇人氏の著書『クイズは創造力』にも紹介されている「クイズの勉強法」であり、例えば「ウルトラクイズ」「アタック25」などの番組の早押し対策としては効果覿面であった。なんつってもウルトラ終了後「FNS」「史上最強」対策に重きを置いたクイズ研究会の勉強法としては、これ以上のものはない。
ところが、これら3つの努力のうち、最後の「時事問題」については現在かなりのクイズプレーヤーが忌避する状況に有る。何故なのだろうか。
歴史的に見て、クイズプレーヤーの努力の方向性は「クイズ番組に如何に対応するか」により決まってきた。昭和50年代のクイズ番組がたくさんあったころ(クイズブームではない)には北川・道蔦両氏によるクイズ番組対策本が出版され、それらクイズ番組が終焉した頃には「ウルトラ」を目指すための長戸本が出版され、ウルトラが終わった1993年には「史上最強」「FNS」対策に気持ちが移っていく。いささか単純では有るが、まあそういう感じでクイズプレーヤーの気持ちがあった。
クイズ番組に依拠した努力であるから、はじめはどうしても「広く浅く」知識を身に付けていく姿勢になる。クイズ番組には「視聴者に疑似体験をさせる」という性質があるため(前述)、問題の難易度にどうしても制限を加えなければならないからだ。ところが、「史上最強」の「カプセルクイズ」や、「FNS」の問題は、そういう難易度の制限をかなりゆるめた。ありていに言ってしまえば「視聴者がついてこれない」ところまで問題の難易度を持っていった。
そういう中で、クイズプレーヤーたちは「クイズ番組に出ること」を目標とするのではなく、「身内でクイズをすること」そのものに楽しみを感じるようになっていった。テレビの力を借りなくとも、気軽にクイズを楽しめる状況ができてきた。それと前後して、テレビのクイズ番組はほとんど終了した。
身内でクイズをすることによって、それまでテレビ局が持っていた「問題に対する制約」が完全に払拭され、その集団内における「新しい問題傾向」がじわじわ生まれていく。「史上最強」や「FNS」が難易度のたがをゆるめたことも、新しい問題傾向を生み出す一助となっていることは確かだろう。
それまで「クイズ番組」というお題目のもとに何となく全国統一されていた努力の方向性が、ここに来て「集団内の特殊なもの」に変化していった。今までの「クイズの常識(が正しい、っつーわけではないが)」とは一味違う「新しいクイズの常識」が生まれた。もっとも、それは「常識」と呼ぶにはあまりに狭い世界のものである。例として一番分かりやすいのは「この問題はベタだ」とか「この前フリは一度出たことがある」と言ったようなネタ選別上の意識であろう。この意識は強豪(と呼ばれるor自分たちで思っている人々)の間ではさらに「一度出た問題は覚えていて当たり前」というところまで進んでいく。新しい問題を作ろうとすれば、既に出た問題を覚えていなければならないから。
と同時に「一度出たことがある問題」は、またいつか出題される可能性がある、と考えられている。詳しくは別項「ベタは何故生まれるか」で述べる予定だが、結論だけ述べると「どうしてもクイズには『よく出題される問題』が生まれてしまう」という傾向がある。だから、「一度出たことがある問題」を覚えていこうとする意識はさらに増幅する。
この意識と「スルーを避けたい(前項に記す予定)」という意識とがくっつき、クイズプレーヤーの努力の方向性が、次のように固定化していった。
「基本問題」という考え方も、クイズに勝つための努力の方向性を分かりやすくするために貢献した。現在オープン大会とかでおこなわれている問題は、概ね「基本問題」を少しずつずらした結果生まれたものだと考えれば良い。つまり「基本問題」はクイズプレーヤーがクイズを作ったり勉強したりする際に、前提とする「普遍的な(と思われかねない)共有概念」と言える。
ここまでくれば、「時事問題」を忌避する意識と、「一度出た問題は覚えていて当たり前」という意識の繋がりは、容易に見て取れる。「時事問題」は概ね初めて出題される問題であることが多い。また、「ネタの新鮮さ」が命である「時事問題」、再び同じ問題が出題される可能性がきわめて薄い。そういった問題は、「普遍的な共有概念」たりえない、とされる。
かくして、クイズ問題として「普遍性」がないとされてしまう「時事問題」は、忌避されていってしまうのである。
なお、「普遍性がない」として忌避されていった問題群としては「FNS1億2000万人のクイズ王決定戦」の問題がある。FNSの傾向に合うような問題は一度聞いたら面白みが無くなる(ってクイズってそういうもんだと思うんだが)という理由から、どんどん出題されなくなっていった。これも「再び同じ(傾向の)問題が出ることが無い」というFNSの持つ性質が、クイズプレーヤーの「普遍性」という考え方と、全く一致しなかったからだろう。
ここまで記して、あるクイズ本の存在を思い出した。今度、そのクイズ本を論じてみたい。