15 「能勢一幸のクイズ全書」を疑う
1990年ころから発売された「クイズ本」。俗に「長戸本」と呼ばれる『クイズは創造力』をその濫觴とし、主に情報センター出版局から出版されまくった一連のクイズ本の中で、『能勢一幸のクイズ全書』がクイズプレーヤーに与えた影響は極めて大きい。「長戸本」は「クイズ本のバイブル」的存在となっているが、「能勢本」は「クイズ本の毛沢東語録」という気がする。
「毛沢東語録」という譬えは過激だったかもしれない。これは「能勢本で主張されていることは今に至るまで殆ど批判されず、クイズ界(つーものがあるとして)で受け入れられている」という意味である。「能勢本」には「コラム」がたんまりついていて、その内容を信奉した若いクイズプレーヤーや仲間のクイズプレーヤーたちがそれを実践することで、コラムの内容が「クイズ界」の「常識」となっていく。このクイズ界の「常識」が、もしかしたらクイズというものの持つ可能性を狭めているのではないか、そんな気が最近特にしている。
わたしは比較的猜疑的な人間であり、簡単に他人の意見を信用することはない。後輩は「世間を見る目が曲がっている」と表現したが、そんなわたしの目には、またクイズ的身体感覚からすれば、「コラム」に描かれていた内容はすべてを首肯できる性質のものではなかった。これは決して個人的好き嫌いで言っているわけではない。氏とわたしとのクイズ的なバックボーンの違いによるものが大きいとおもわれる。
「能勢本」に始まる「クイズ界」の「常識」「現象」のうち、わたしが「いまいち首肯できないこと」には、例えば次のようなものがある。
他にもあると思うのだが、今回は以上4項目をわたしの目で「疑って」みたい。
まず1から。クイズでは正誤判定が微妙な場合がままある。そんなとき、その場の状況やら正誤判定者の考え方やらで、必ずしもすべての解答者に納得の行く正誤判定が下されない場合がある。解答者が正誤判定について不満があるとき、往々にしてその場の雰囲気が悪くなったり、流れがストップすることがある。だから「出題者(正誤判定者)は神」という原則を決めておき、その場の正誤判定に対し、解答者は素直に従おう、という趣旨のコラムが発端であった。
そもそも、クイズはゲームであるから、正誤判定は厳密・客観的に行なわれなければならず、また参加者はジャッジに従わなければならない。たとえジャッジに不満があっても、審判が少なくとも自分の判断基準に照らし合わせて客観的に判定している以上、守らなければならないのは言うまでも無い。それはそうだ。遍くゲームに共通する真理である。
しかし、ごく稀に、明らかに間違った問題が出題されることがある。例えばわたしかかつて参加した一橋オープンという大会で、次のような問題が出題された。
当時わたしは早押し席にいたが、必死で人数を数えたことを覚えている。答えは「2人」となっている。明らかにおかしい。出題者は「紫の上」「葵の上」のことを差しているのだろうけれど、少なくとも「女三の宮」は正妻扱いで結婚している。「明石の女御」との関係も、結婚としか言いようが無い。「花散里」も絶対妻だ。「三日通ったら結婚」という当時の常識からすれば、もう少し増えるはずだ。つまり、あまりといえばあまりにひどい(少なくとも源氏の「げ」の字も知らないような人が作った)問題である。こんな問題に対しても「出題者は神」と言えるだろうか? そう言えるほど、信用できる出題者ばかりなのだろうか?
わたしは、基本的に「正誤判定に納得がいかない場合は、文句を言ってもいい」と思っている。ただしそれは、明らかに間違った問題が出題された時に限る。微妙な時は判定に従ったほうがいい。おそらく能勢氏は、以上わたしが述べたようなことを踏まえた上で、「正解にするか誤答にするか曖昧な時は、正誤判定者に従う」ということをコラムで述べたかったのだろう。
しかし、氏の言葉だけが一人歩きし、明らかに納得の行かない判定の場合も「出題者は神だから」の言葉でごまかしてしまおうとする輩が、わたしの現役時代にもいたような気がする。氏の言葉は何故か影響力が強く、言葉が一人歩きしてしまって、それを盲信するクイズプレーヤーによって、曲解されまくった観がある。これは氏にとって不幸なことだろうし、クイズにとっても決して幸せなことではない。出題者が自らの立場に安住し、安易な判定を下したり、安易な問題を出題する端緒にもなりかねない。
次。2の「時事問題を忌避する」と3の「クイズ本の問題は「いつになってもすべての問題がそのまま使える」ことが理想である」は、微妙にシンクロしている。氏の主張としてはまず「3」があって、しかるゆえに「いつでも使えるためには、クイズ本に時事問題が掲載される必要はない」と結論付けられる。
クイズ本の問題は、何故いつになってもすべての問題がそのまま使えなければならないのか。そこには「クイズの勉強としてクイズ本を覚える」という思想がある。高校生ごろの氏のクイズの勉強法が「クイズ本を覚えまくる」だったことは、この本の至るところで説明されていることだが、クイズ本にはもう絶対出題されないような時事問題まで含まれていて、それも同等に一生懸命覚えてしまった、でもそういう問題は「覚える価値が無い」。だからクイズ問題集にはいらない、とまあ、こんな論法になる。
現今のクイズで時事問題が忌避されている理由については既に述べたが、能勢氏のこの発想を押し広げていくと「普遍性のある(=いつでも出題され得る)問題だけを、問題集に掲載すべきだ」という発想になっていく。その底に流れるのは「問題をすべて覚えるに値するクイズ本」という発想である。
ところが、わたしは「クイズ問題集とは何か」ということに対して、全く違った意見を持っている。後に出題されるかどうかなど、クイズ問題集にとってどうでもいいことだ。わたしにとってのクイズ問題集の理想は「作品集」。或る人が作ったクイズ問題群からは、その人の個性や性格、雰囲気、人柄などがにじみ出ているものだ。それを楽しむためのもの。それが「作品集」である。個性的な問題、その人にしか作れない問題を目指したわれわれの発想には、こっちの方が合っている。
そういう発想の中では「時事問題」にも一定の意味が生まれる。後輩の問題でこんな問題があったが、今でも笑って思い出す。
彼らしい問題だ、と思った。同時に「やられた〜」とも思った。個性がにじみ出る大変良い問題である。
こう言う問題を「気を抜いた問題」「手抜きだ」と評する連中は、基本的にクイズというものが分かっていないのである。時事問題を「手抜きだ」と考える輩は、今まで手抜きの時事問題にしか触れてこなかったのだろう。確かに、明らかに手抜きの時事問題も存在する(TQCにも存在したし、FNS・高校生クイズあたりだと顕著である)。だが、アタック25の時事問題などは「人々の気持ちの焦点が何処に向いているか」をきちんと考えて、微妙なところを出題する様に心がけているように見えるし、先の問題のように、時事問題の「何処に焦点を当てるか」によって、その人なりの個性を問題に表出することも出来る。(この辺のことは「問題作成講座」「時事問題を作る」で述べる予定)
「問題の普遍性」という部分にばかりこだわると、こう言う種類の楽しみ方が出来なくなる気がする。もっとも、氏は「時事問題は嫌いだ」と言っているわけではなく、「クイズ本に時事問題を載せる必要が無い」と言っているに過ぎない。だが、例の如く氏の言葉は一人歩きする。
最後、4の「自己紹介に自らのクイズ歴を事細かに披瀝する」。これは様々なクイズプレーヤーのホームページを見ると顕著である。別に悪いことでも無いし、このことの是非はどうでもいい。ただ、このことの底流には2つの発想が流れていると思う。
ひとつめ。何故かクイズ参加歴の記載は多くても、クイズ企画歴を披瀝する人は少ない。クイズ歴とはすなわち「クイズプレーヤーとしてのクイズ歴」であり、そこに「企画者」としての要素は入り込まない。これは「有名クイズ大会」という共通認識され得る判断基準の中に自らを置くことによって、比較的客観的に自らを誇示することができる、という気持ちの現れであろう。クイズプレーヤーは、どうも「クイズ界」という幻想的世界の中に、確固とした自らの存在を置いておきたい、という気持ちがあるらしく、「クイズ歴」によってクイズ界における自らを位置付けておくことが、心情的に必要なのだろう。
「有名クイズ大会」という共通認識要素は、「クイズ界」という幻想的枠組みが「テレビ」という大枠を外される事で、どんどん範囲が狭くなり、プレーヤーにとってはものすごくマイナーな大会の出場歴まで披瀝しまくることが必要となっていった。このことが、「オープン大会の権威化」に拍車をかけたことは間違い無いし、新しいクイズプレーヤーを仲間に引き込むことが難しい現状を助長していることも言えるだろう。
またクイズ企画歴を披瀝する人が少ない、ということは、「企画者としての自分」より「解答者としての自分」を強調したい、という気持ちの表れでもあろう。企画者としての自分を重視している人もいるにはいるが、概ねクイズプレーヤーは自らの「解答者としての能力」こそを重視している傾向がある。わたしは「クイズが強い人」には別に魅力を感じないし、強いだけで企画をしたがらない人は逆に軽蔑する部分がある。一般にクイズが弱いとされている人でも、「企画力」「問題作成能力」に恵まれた人は尊敬するし、好きである。ともあれ、「企画者としての自分」を軽視し、「解答者としての自分」の能力ばかりを磨くクイズプレーヤーの心象は、「クイズ番組で活躍したい」「クイズ番組で活躍した人にあこがれた」というきっかけでクイズを始めた彼らの理想像を、よく表している。しかし、もうすこし「企画者としての自分」を意識してもらって、「問題作成能力」とともに磨いていってもらいたいものだと思う。特に若い人には。
ふたつめ。これはわたしの偏見かもしれないが、どうも能勢氏は、自らの「ファン」というものを強く意識して文章をつづっている様に見える。クイズ歴の披瀝はそのひとつの現れであろう。氏にファンが数多くいたことは事実だし、わたしの周りにも「能勢さんに憧れてクイズを」という人が、いたような気がする(そういう人はたいてい94年ごろクイズから離れていったが)。だから、ちょっとばかり鼻につく文章表現があったにしても、当時の彼の情況からすればこれは相応しい文体だと結論付けられる。今読み返してちょっと気恥ずかしい気がしたとしても。
この「ファンを意識する」という気持ちは、「クイズワールド」などのトップ記事が、ある種のカリスマ性を持つ(クイズにどえらく勝っている、とか)クイズプレーヤーのインタビューを取り上げる状況などに、顕著に表れている。「クイズワールド」という本が、どういう人を対象に書かれているものなのか、わたしには皆目見当がつかないが、新しくクイズを始めようとする人向けではないことは絶対に間違い無い。そういう意味での「宣伝活動」と、あの書の内容は全く相容れない。
全く相容れない、というのは、「有名プレーヤーの作った問題」「有名プレーヤーのインタビュー」「オープン大会の紹介」など、クイズ界という幻想的世界に身を置いている、と思っている人々の中の狭い共通認識の中でしか理解され得ない内容ばかりが、この書の内容であることを指している。「ファン」というものは、どの世界においても存在し、またどの世界においてもマニアックな狭い世界であることが多いのだが、ことクイズに関して言えば、「有名プレーヤー」と「そのとりまき」というクイズ界の構造を「ファン」という概念が加速していることは間違い無い。「クイズワールド」という本は、そういう構造をはっきりと浮かび上がらせてくれる。
何か能勢氏の本とはだいぶ離れたことを綴りまくったような気がするが、ここまで来て大切なことが浮かび上がったような気がする。能勢氏の本の内容は、氏の本当の気持ちを離れて、言葉だけが一人歩きしていった。その一人歩きの方向は「クイズ界を狭いものにしてしまう」という、クイズにとって不幸な方向性であった。殆どのプレーヤーが「クイズファン」「クイズプレーヤーファン」というところからクイズを始めてきたため、能勢氏というカリスマ性のあるプレーヤーの言葉を(真意をあまり斟酌せぬまま)盲信し、実行し、クイズ界が狭くなり、狭くなることでカリスマ性のあるプレーヤーが生まれ、その言葉を盲信し、実行し、……、この繰り返しがずっと行なわれている。