5 クイズ番組論2 疑似体験の視点

 前回の文章では、視聴者参加クイズ番組がなくなっていったことについて、主に作り手の視点から分析してみた。

 今回は、「視聴者はどう見るか」について考えてみたい。なお、この稿において「参加する視聴者の視点」は考慮していない。

 

 昔昔のお話。日本にニュークリアーファミリーがあまりいなかった頃、テレビは「団欒の中心」にあった。子供も親もお年よりも、みんなが楽しめるテレビ番組。時代の流れの中で、価値観が強烈に違ってしまった人々が、同時に楽しめる番組を作ることは、かなり難しいのかもしれない。

 本当はここで「クイズ番組こそ、そうした条件を満たす番組である」と言いきりたいところなのだが、話はそう単純ではない。日本初のクイズ番組(ラジオ)「話の泉」は、放送当初「最近の学問は『話の泉』的な知識の切り売りでいかん」というような意見を学者の人たちからよく言われたそうだ。つまり、「知識人」「学者」と呼ばれている層にはあまり受けが良くなかった。

 ところが、時代が下って放送されたラジオのクイズ番組「十六万円の質問」(昭和30年より)、「ぴよぴよ大学」(はじめラジオで昭和27年から、のちテレビへ)などになると、学者先生の中から「クイズ番組は上品な、教養番組だ」という形でお褒めの言葉をいただくようになったようだ。それでも「賞金により射倖心をあおるのはいかん」「内容がくだらない」などの批判は多かった。そういう批判も、テレビのクイズ番組全盛の昭和40年代になると減っていったようである。出題者に大学教授を選んで権威付けしたり、日本人の娯楽の形態が変わっていったことが、その原因であろう。

 さらに昭和50年代、視聴者参加クイズ番組乱立。一家で見ていて楽しめる番組、楽しみながら知識がつく番組として、広くクイズ番組は受容されていった。またこのころになると、「射倖心そのもの」を楽しむ余裕が日本人にも出てきた。

 なぜどんな世代にもクイズ番組は受け入れられたのか。理由は次のようなことが挙げられれる。

  1. クイズ番組は「クイズ」というより「クイズショー」としての側面が主に描き出される。それを楽しむ。
  2. 他のゲーム的バラエティー番組(底抜け脱線ゲームなど)と違って、視聴者もクイズに答えることで「疑似体験」ができる。「疑似体験」することで「知的好奇心」が満たされる。
  3. そもそもクイズ番組が多かった。

 1と2とをまとめると「楽しみながら知識がつく番組」ということになろうが、3の観点も見逃せない。つまり、日本人の生活習慣の中に「団欒」というものが確実に存在し、その雰囲気に合ったテレビ番組を人々がチョイスする。具体的には「大人から子供まで楽しめる笑いを提供するような番組を歓迎」「子供に見せたくないような品の無い番組は敬遠」といった選び方。その中でチャンネルをひねればクイズ番組が乱立。自動的にそれらが団欒の中でチョイスされていく。現在は「団欒」というものが無くなり、「団欒の中のテレビ文化」というものも無くなった。テレビ番組はもはや「子供向け」といえるような「なるたけ分かりやすい作り」にすることが是とされ、また子供が見られないような(見ても面白みが分からないような)番組は深夜番組に移行。分かりやすさと分かりにくさの二極分化が進んだことによって、その狭間に在ったクイズ番組は、自然淘汰されていく。

 また、今と違って「知的好奇心を満たすもの」に対して人々が敏感だったという事情もあるような気がする。今の情報番組で扱われる情報の主流は「役に立つ情報かどうか」というものである。「体に良い」「経済的な生活の手助け」など。「役に立たないけれど知的好奇心を満たしてくれる」という種類の情報に対して、人々の視線が冷たくなってしまった。「クイズなんてやって、なんにも役に立たないじゃないか」と言われることが多いのも、その表れだろう。そういう意味で「クイズ日本人の質問」は、日本人の知的好奇心を満たすという、歴史的なクイズ番組制作の態度に、最も忠実な番組といえる。

 少し話が逸れた。かくしてクイズ番組は減っていったわけだが、ではこういう状況の中で放送されているクイズ番組の特徴とはどのようなものだろうか。

 クイズ番組の歴史を変えた「カルトQ」は、深夜番組だった。あの番組についてよく言われるような「ある分野について傑出した知識を持つ人を集めた至高のクイズショーなのだ」という言い方では一面しか語れていない。「視聴者にも何らかの知的反応を感じさせることができるジャンル」から「視聴者にそのジャンルについて知ってもらえるような」「視聴者にも問題の意図や面白さが分かるような」問題を出題している。そういう意味であの番組は「知的好奇心を満たすための、新しい形を呈示した」といえると思う。それまではごく日常的な部分において知的好奇心を満たさせていたのが、ここにきて「掘り下げる方向でも知的好奇心は刺激できる」「疑似体験ができなくても知的好奇心は満たされる」ことを証明したのである。

 ところが、「知的好奇心」を抜きにして「至高のクイズショー」だけを演出しようとするとどうなるか。クイズ番組の楽しみ方の中心にあった「疑似体験」を無視し、問題から「知的好奇心」を満たす要素が減っていった「史上最強」「FNS」がどうなったかは、ご承知のとおりである。ただ、わたしは「史上最強」なる番組を視聴したことが無い。だからここで論じることは避けたい。

 「FNS」の問題は、回によって傾向が全然違うのだが、晩年の問題、特に第7回の問題に関して言えば、何ら知的好奇心を満たしてくれない、「面白くない難問」ということができると思う。「俳人・高浜虚子の本名は何?」「出歯亀の由来となった人物の名前は?」など、面白みが分かりにくい。というか、何ら面白くない。「意図のわかりやすい難問」を捨てたことは、視聴者の目を引き離すのに充分だったろう。

 確かに、晩年の「FNS」の問題は「至高のクイズショー」を演出する点で優れていたといえるかもしれない。しかしそれはクイズ的な展開を想定しての問題であり、「一般の人が見て面白みを感じられるかを全く無視している問題」であった。これでは新しい視聴者を開拓できないし、全く閉じた世界のお話として人々の忘却の彼方へ行ってしまう運命もうなずける。

 そんな中で脈々と生き永らえている「アタック25」は、唯一「伝統的なクイズ番組の楽しみ方」を引き継いでいる番組といえよう。「疑似体験」もできる。「知的好奇心を満たす」ことができるような問題作り、テンポのよさ(無駄な喋りも編集も少ない)、ゲーム性の追求など。一時期クイズ研究会を必要以上に重視して(その流れでわたしも出演してしまったが)存続が危うくなったことも在るが(ベタばかり出してクイズ研究会に必要以上の早押し勝負をさせていた)、最近は問題も良質となり、クイズの勉強しかしていない人はころっと負けてしまう、あくまでも一般の人の中で「博学な」人が勝っていく。「日曜昼」という特殊な時間帯のなせる技、とも言えるが、その辺のところはもっと「テレビ業界」を研究している人に論じてもらいたい。

 今も実は「伝統的なクイズ番組の楽しみ方」が求められているのだと思う。ただ、他のバラエティー番組に比べると、その楽しみはいささか分かりにくい。現代風にアレンジすればいいじゃん、と言うのも当たっていない。はしゃげばはしゃぐほどつまらなくなるからである。そういう意味ではNHKさんにがんばってもらいたいのだが、なぜかNHKは早押し問題を作るのが、もっと言うと視聴者参加クイズ番組を作るのが、恐ろしく下手である。うーん、やっぱり無理なのか。

 この稿は大変尻切蜻蛉であるが、いったんこれで終わりにする。ウルトラクイズが終わった原因についてはまた今度。

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