13 「スルー」ということばについて
かつて、こういう問題を出題したことがある。
即答できる人は、ウルトラクイズをかなり見ている人だろう。東大クイズ研究会で出題した時は「キャンセル」になった。つまり正解は「キャンセル」である。
「スルー」ということばがいつから使われ出したかは分からない。長戸勇人著「クイズは創造力」に登場しているところを見ると、10年以上前から存在したことになる。とは言え、「ウルトラクイズ」「高校生クイズ」では「キャンセル」と呼びつづけていたものを、クイズプレーヤーたちが何故違う名で呼んだのか、その理由は分からない(同じようなことばに「ウラとり」がある。福留さんは「あとどり」と呼んでいた)。
だが、わたしには、この用語の使用法の違いが、「クイズの企画の中におけるスルー(キャンセル)とは何か」ということを、如実に教えてくれるような気がしてならない。ウルトラの「キャンセル」と、現在のオープン大会における「スルー」とでは、どう違うのだろうか。
語感で考えるとき、「スルー」には「通りすぎる」とか「通過する」というような意味があるように思われる。それに対し「キャンセル」には「今のこと、無かったことにしようぜ」という意味がこもっている。これでもう答えは出たようなもんだ。
具体的に見てみよう。ウルトラクイズのように無尽蔵に問題を使い、「3ポイント先取勝ちぬけ」などという企画の場合、「誰も答えなかったこと」と「その問題をはじめから出題しなかったこと」は、同一視できる。つまり「今の問題はなかったことにしよう」という感じ。こういう企画では「キャンセル」という言葉がよく似合う。
ところが、現在のオープンでおこなわれているクイズ企画は、何らかの形で「30問限定」のような「問題数限定」をしている。だから、誰も答えなかったことは、クイズ企画を着実に終了に近づける。その時点で負けている人にとっては逆転のチャンスが減る。つまり「正解は出なかったけど企画は進行したよ」という感じ。こういうクイズには「スルー」という言葉がよく似合う。
このように考えていくと、「キャンセル」と「スルー」という言葉には、クイズ企画を貫く発想が「問題数無限定」か「問題数限定」かという違いが顕著に表れていると思えてくる。
では、「問題数限定企画」と「問題数無限定企画」とには、企画者の発想の上でどのような違いがあるのだろうか。
オープン大会には時間的制約があるため、ひとつひとつのクイズ企画がどのくらいの時間かかるか、事前に読めていなければならない。そのため、ウルトラクイズの「通せんぼクイズ」のような、いつ終わるかわからない、もしかしたらすぐ終わるし、延々と続くこともあるし、というような企画は馴染みにくい。
となれば、一番手っ取り早いのは一つ一つの企画で「問題数限定」してしまうことである。こうすることで、企画が延々と続くことを抑えることができるし、何より大会で使用する問題数を事前に決めてしまうことができるから、企画者側として準備がしやすい。
このように「問題数限定企画」が増えてくることで、クイズプレーヤーの問題に対する意識は少しずつ変わっていった。
「問題数限定企画」は、限定された数の問題が、解答者にある程度答えてもらえるようなものでなければならない。何故なら、正解が出ないまま限定数の問題を使いきってしまうと、クイズが成立しないからだ。「問題数限定企画」は、このように「正解が出ると十分に期待できる問題」だけを出題せざるを得なくなる。
「正解が出ると十分に期待できる」と書いたが、アタック25のように、出場者の得意分野の問題を入れておく、という芸当がオープン大会では基本的に無理なので、例えば「予選を通過した人なら正解が出ると十分に期待できる」というような発想で、問題を作成しなければならない。
問題を作成した時、「正解が出るように」という発想はとても大事だ。正解が出なければクイズは成立しない。ところが、それにあまりに忠実になりすぎるとどうなるか。作成者はクイズプレーヤーの「勉強法」に忠実な問題作成を心がけるようになる。
「勉強法」については「14 時事問題について」で既に述べた。あの項での内容とこの項を絡めて、クイズプレーヤーの思考の流れを追いかけると、こうなる。
クイズによく出る「基本問題」が存在する→「基本問題」を覚えよう→今度は新しい問題を作りたい!→手っ取り早いのは「基本問題」をいじくることだ→「基本問題」をひねったり、傾向が一緒の新しい前振りで作っていこう→大会ではその傾向で作った問題を出題しとこう!
このような流れで無尽蔵に作成される問題群が、オープン大会では出題されていくことになる。このことがクイズの世界をいささか狭いものにしている様に、わたしは思っている。
例えば、ウルトラクイズのように「ときたまとんでもなく難しい問題を出題する(この理由いずれ分析する)」とか、「正解が出るかは別として、問題として面白そうだからいれてみた」というような試みが排除される。こういう発想は「問題数無限定企画」だからこそできるワザである。
また「問題作成者と解答者との知恵比べ」という発想もなくなる。「分かる問題をじっくり待つ」という発想も減る。
「正解が出ると十分に期待できる」問題以外は、ヘタだと思われる状況もできかねない。そうすると、クイズを始めたばかりの若い人たちが、萎縮して問題を作れなくなってしまうこともありうる。若い人が個性を発揮した問題を作れない状況は、わたしの最も忌避するところである。
確かに、問題数限定という枠組みは、オープン大会の経営をしやすくする上で、大変貢献したものといえる。だが、それに依拠しすぎてクイズの楽しみが狭まっているかもしれないから、ちょっと考え直すべきこともあるのかもしれない。
「スルー」という言葉とはだいぶ離れたところまで話が進んでしまった。ここまで来たらあとは「基本問題=ベタはなぜ生まれるか」を述べるしかない。もうすぐです。今日はこの辺で。