ムガル皇帝名 在位 備考
 バーブル(初代)  1526年〜1530年

 初代皇帝バーブルは中央アジアのフェルガサ出身の文人皇帝でモンゴル帝国のティムールの血を引いていた。ムガルとはモンゴルの意味である

 フマユーン(第2代)
 1530年〜1556年  フマユーン皇帝は宮廷の図書館の階段から落ち、亡くなる。その死を悼み、お妃ハージ・ベグムが9年かけてフマユーン廟を建てた。
 アクバル(第3代)
 1556年〜1605年

 13歳で皇帝になったアクバルは、デリー・アーグラに地歩を固めて基礎をつくたバブール王朝をさらに大帝国まで発展させた。首都ファテーブル・シクリのようにイスラム教・ヒンズー教・キリスト教の様々な宗教を融和をはかり、建築にも独特の「アクバル式」の石文化を築いた。

 ジャハーンギール(第4代)  1605年〜1627年  
 シャー・ジャハーン(第5代)  1628年〜1658年

 国威が最盛期にあったムガル帝国は1630年に軍隊を率いて、デカン高原へ向かった。このとき、愛する王妃ムムターズ・マハルは身ごもっていたが、遠征につき従っていた。14番目の子供を出産したのち、その産褥熱(さんじょくねつ)がもとで、38歳にして世を去った。

 その王妃に先立たれると皇帝は国中が2年間の喪に服すことを命じ、みずからも深い悲しみ、彼女の記憶を永遠に留めるためにタージ・マハル廟の建設に没頭した。

 アウラングゼーブ・アーラムギル(第6代)  1658年〜1707年

 兄弟を殺害して第6代皇帝に就くが、父シャー・ジャハーンをアーグラ城に亡くなるまでの7年間、幽霊する。

 1707年に遠征先のデカン高原で倒れると、後継者たちは帝国の手綱をさばききれなくなる。各地の藩王国は独立性を高め、弱体化する 以降、17代まで続くが、地方長官の帝国からの離反などで徴税が出来なくなり、衰退していく。

 バハードゥル・シャー1世(第7代)  1707年〜1712年  
 ジャハーンダール・シャー (第8代)  1712年〜1713年  
 ファッルフシヤル(第9代)  1713年〜1719年  
 ラフィー・ウッダラジャート(第10代)  1719年〜1719年  
 ラフィー・ウッダウラ(第11代)  1719年〜1719年  
 ムハンマド・シャー(第12代)  1719年〜1748年  
 アフマド・シャー (第13代)  1748年〜1754年  
 アーラムギール2世(第14代)  1754年〜1759年  プラッシーの戦い(1757年)イギリス東インド会社とベンガル太守(ムガル帝国)+フランス東インド会社の戦い。イギリスが勝つ。
 シャー・アーラム2世(第15代)  1759年〜1806年  イギリスの支配に抵抗した唯一の君主であり、帝権の回復を狙い、アワド太守とペンガル太守結んで1764年、イギリスと戦い敗北する。1765年、東インド会社はムガル帝国から租税徴収権を獲得、これを次第に拡大していった。ムガル皇帝は単なる年金受領者になり、インドはイギリスの植民地となっていった。
 アクバル・シャー2世(第16代)  1806年〜1837年  
 バハードゥル・シャー2世(17代)  1837年〜1858年  1857年には、イギリスに対する反感が頂点に達し、大きな反乱が起きます(セボイ乱)。
この時、反乱の象徴としてムガル帝国の第17代皇帝バハードゥル・シャー2世が担ぎ出されますが、 反乱が鎮圧されるとともにその地位を追われてしまう。
 こうして300年以上続いたムガル帝国の歴史に、幕が引かれ英国により退位させられた。その後、イギリスは東インド会社を解散して、直接統治に乗り出す。
1877年、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任することとなり、イギリス領インド帝国が成立。

   
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