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インド編 2013年2月27日から3月3日(3泊5日)旅行。目的は世界遺産「タージ・マハル」青空の下に・水路と浮かぶ白大理石の霊廟は、まさに美しいの一言。さらに、造営した第5代皇帝シャー・ジャハーンの最期と王妃を想う霊廟への逸話が何とも言えない。一方、「BRICs」で代表される新興国。IT産業・医学技術などめざましい発展を作り上げようとしている。ガイドさんの話しを聞くと、日本円で年収200万円以上が金持ちで、また、日々200円以下で生活する人が約8億人もいる。街並みを見ると、日本の戦後、まもない生活ぶりを感じる。良きムガル帝国時代(アクバル第3代皇帝)はあらゆる宗教の融和政策していた。特に、世界三大宗教に言って可笑しくない人口を持つヒンズー教はインド人口12 億人の内、約9億人(80%)を占める。ちなみに、世界人口の32%がキリスト教・23%がイスラム教・15%がヒンズー教・7%が仏教の順になっているが、インド亜大陸を中心したヒンズー宗教とカースト制度の身分制度で世界宗教と見做さないのであろう。しかし、インドという国はあらゆる宗教を受けいれ、継がれた結果が現在に至っている。ムガル帝国の全盛期はあらゆる宗教を融和したのに、末期・崩壊後は人々の宗教心を利用した宗教戦争が起こり、特にイギリスは植民地化をするために画策した。その後、独立運動の中で、ヒンズー教とイスラム教の対立が深まり、分離独立としてイスラム教の国家としてパキスタンが誕生したインドの歴史がある。日本の面積約9倍・人口は約10倍とこれからの世界を担う国となるのは間違い。そういう意味では、インフラ整備と貧困格差の社会制度(さらなる民主主義)の改革がカギと思われる。 |
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←フマユーン廟(ムガル帝国第2代皇帝フマユーンの霊廟) 初代バーブル皇帝の息子フマユーンは1530年に帝位を継いだが、あまり有能な統治者でなく、1540年には東インドのビハール地方を支配した総督が反乱を興し(スール朝)、ペルシャに落ち延びる。15年後にペルシャの大軍の援助のもとで、スール朝を打ち破り、1555年にムガル朝を再建した。その1年後、1556年に宮廷の図書館の階段から落ち、死んでしまう。フマユーン帝のお妃ハージ・ベグムは亡き皇帝の思い出のために、9年の歳月をかけて建てた。(世界遺産 1993年登録) |
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→レッド・フォート(1648年完成) 赤砂岩で造られた要塞はレッド・フォート(赤い城)。1947年8月15日、インドがイギリスの植民地支配から独立したとき、インド初代首相ジャワハルラール・ネールが独立宣言の演説をしたのは、ムガル第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628年ー1658年)の居城だったレッド・フォード城だった。 そして、毎年8月15日のインド独立記念日には、この城で首相演説が行われている(世界遺産 2007年登録) |
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←クトゥプ・ミナール ムガル帝国のインド侵入以前にデリーを中心に北インドを支配する奴隷王朝を創始する。将軍アイバクはその勝利の記念に1200年頃、クッワト・アルイスラーム・モスクを建設した。インド最古のモスクである。建設にあたっては、アイバクは取り壊した27ヒンズー寺院やジャイナ寺院の部材を用いた。次いで、クトゥプ・ミナールと呼ばれる「勝利の搭」を建造する。これも、インドで最も高い石造の搭(72.5m)である。(世界遺産1993年登録) |
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←インド門 インド門 は、インドのデリーにある慰霊碑。パリのエトワール凱旋門を基にエドウィン・ラッチェンスによって設計された門型のモニュメントで、第一次世界大戦で戦死したイギリス領インド帝国の兵士(約8万5千人)を追悼するために造られた。 高さ42mのアーチには、第一次大戦で戦死したインド人兵士の名が刻まれている。東西に伸びるラージパト通りにより東端のインド門と西端の大統領官邸が結ばれている。 |
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←風の宮殿 ハワー・マハル別名「風の宮殿」)は、インド・ラージャスターン州の州都ジャイプルにある宮殿。1799年に、ジャイプル5代当主プラタプ・スィンにより建てられたジャイプルのシンボル的な建物です。当時、イスラムの影響を受け、外を歩くことができなかった宮廷の貴婦人達が、宮殿から続く細いトンネルを通って風の宮殿に来ては、世間の目に触れることなく街路で繰り広げられる祭やパレードを眺めていたと伝えられている。 |
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←アンベール城 アンベール城はジャイプール郊外、北東11kmに丘の上の城塞。元々あった砦を1592年、ムガル帝国アクバル軍の司令官であったラージプート族のラージャー・マン・スィンによる大規模な築城が始められた。その後150年間にわたり改築が続けられた。現在は象に観光客が乗って城のある丘まで登ることができる。私は乗合ジプーで行った。いずれにしても、アンベール城からのまわり景観は素晴らしいかった。 |
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←ジャンタル・マンタル ジャンタル・マンタルは、インド・ジャイプルにある天文台。天文学者でもあったムガル帝国のマハラジャ(地方領主)、ジャイ・スイン2世によって1728〜1734年に建てられた。マハラジャの居城「シティ・パレス」の一角にある。これら300年前のすべての装置が、建築時の測定誤差や地軸の偏差などでズレは若干あるものの、ほぼ正確に動作することが確認されているというから驚きだ。地球の現在位置から季節ごとの星座を観測できる機器や曜日を知ることができる機器など、その目的によって異なる機器が必要ということらしい。世界でも例は少ないらしい。(世界遺産 2010年登録) |
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←ファテープル・シクリ アグラから南西40キロのところに、世界遺産「ファテープル・シクリ」(勝利の都)がある。 ムガル帝国第三皇帝アクバルが、聖者の予言どおり、王子(第4代皇帝ジャハーンギール)が誕生したことを喜び、聖者にあやかって宮殿をアグラからシクリに移すことを決め、アクバル帝が1571年〜1585年にかけて築かれた都です。(世界遺産 1986年登録) |
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←タージ・マハル タージ・マハルは、インド北部アーグラにある、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628-1658)が、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟。インド=イスラーム文化の代表的建築である。ヒンドゥー教徒は墓を持たず、遺体は火葬され遺骨や灰は川に流される。霊魂は永遠と考えるイスラム教徒が持つ墓は簡素なものに過ぎない。ムガル王朝の皇帝は大きな霊廟を備えたが、これは専制君主の権勢を示す目的があった。権力を握っていたわけでもないただの王妃に対し壮大な墓廟が建設された例は、他にはほとんど無い。(世界遺産 1983年登録) |
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←アグラ城 第3代皇帝アクバルによって着工されたアグラ城は、赤砂岩でできた重厚な城壁で囲まれ「赤い城」と呼ばれる。対照的に、城内にある多くの建物は純白。第5代皇帝シャー・ジャハーンが自分の好みに合わせて、白大理石を使った華麗な宮殿に仕上げた。しかしシャー・ジャハーンは晩年、皇帝の座を狙った三男によって城内に幽閉され、皮肉なことにその場所は白大理石に宝石を散りばめた皇帝好みの部屋で死ぬまでの7年間、幽閉された皇帝が部屋から見えるのが、川向こうにあるタージ・マハル、白亜の妃の霊廟。 |
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