善光寺道名所圖會 および 甲斐叢記

「善光寺道名所圖會」:天保14年刊 豊田庸園著                        .
「甲斐叢記」:嘉永4年刊(前半)、明治26年刊(後半) 大森快庵著

善光寺道名所圖會」:天保14年刊 豊田庸園著

巻之1
大宝山正行寺
挿絵中に五重塔らしきものが見える。本文には佐々木塔とあるのみで詳細はなし。
はたして木造塔なのか不明、参考あるいは不明として掲載。
 正行寺全図     同部分図
2012/09/22追加:
○「元禄期松本城下絵図」では享和3年(1718)の火災前の様子を描く。
左が横田町の通りで、そこに西向に大門を開き、本堂は南面する。寺家は5軒描かれる。
 元禄期松本城下絵図
○上の掲載の「「善光寺道名所圖會」の図では、本堂・太子堂が並び東には玄関・庫裏があり、玄関庫裏の廻廊の北に太鼓堂、本堂前庭には経堂・鐘楼・佐々木塔、池を配する。これ等の伽藍前は土塀があり、その外には寺中、浄信寺・妙勝寺・玄正寺・芳仙寺が描かれる。
佐々木塔については、上記の「元禄期松本城下絵図」 には描かれない。木造五重塔があったと云う情報には邂逅せず、おそらくは石製五重塔と推定される。佐々木塔と云う名称から、開基佐々木高綱の供養塔の類なのであろうか。
○浄土真宗大谷派大宝山専修院正行寺と号する。
文祿元年(1592)石川数正(松本城主)が島立の栗林から六九に移し(後に現在の裏町に再度移転)自らの菩提寺とする。
栗林での開基は佐々木高綱、開山は了智上人と伝える。。
享和3年(1718)本堂など焼失、復興は天保13年(1842)に着手、安政5年(1858)竣工。
明治の神仏分離(廃仏)の処置で松本藩は廃寺を命ずるも、時の住職佐々木了綱は拒絶し、廃寺を免れる。
○石田茂作「佛教考古学論攷」は「正行寺五重塔、長野松本、真宗本派、今無し」と記載するが、この五重塔は佐々木塔のことを指すと推定される。

巻之3
定額山善光寺(2009/09/29画像入替)
 定額山善光寺: 塔婆に関する記事はなし。
 定額山善光寺寺中の図:三門 (図の中央付近)を入って、すぐ右(本堂手前右・鐘楼の手前)に「塔の跡」が描かれる。
  ※江戸末期にも塔址が存在したと思われる。

巻之5
(別所):記事の要約
聖武天皇の代、行基菩薩が瑠璃殿を造立し、長楽・安楽・常楽の三楽寺を建立。
天長2年火山活動があったようです。天長3年円仁大師・明福が北面大悲閣を建立。長楽・安楽・常楽の三楽寺を再建して、
台・密・禅三宗に表す。・・・二尊(薬師・観音)の火坑の上に宝塔を造営し、・・・一切経を宝塔に収納する。
清和天皇、諸堂を再興。「新たに観土院・蓮華院・明星院を造り、三楽寺の別院となし、九重・五重・八角四重の塔を経営・・・。平惟茂別に六十坊を建立し、七堂伽藍・三楽・四院六十坊となる。
木曾義仲平氏を討たんと放火し、灰燼に帰す。大悲閣、八角四重塔は残る。(ただし残るとするのは誤りと思われる。)
別所細見惣図(右下隅は安楽寺)  別所細見図の内安楽寺部分図(安楽寺塔婆が見えます。)
木曾の軍勢、北向山を焼討ちにす
上記(北向山)の図  上記(北向山)の部分図(かっては三重塔?があった と思われる。)

崇福山護国院安楽寺(本尊釈迦如来。今は曹洞宗)祖師堂、八角四重塔(惟茂将軍の再建)・・

巻之5
浄瑠璃山国分寺::記事
聖武帝勅願。「・・右大将頼朝卿・・再建・・その後慶長年間、上田乱に伽藍また灰燼となり、ただ薬師の像と三重の塔のみ残りて荒敗の地となりしなり。」
信濃国分寺塔の図
以下は塔婆部分の説明記事:
「九輪以下かな物みな銕、屋根三層ともこけら葺き、角がな物朽どれて所々残れり
この所、火矢を射かけし跡焦げて身ゆる。(三層部)
昔らんかんありし所。(二層部)
縁板まばらなり。(一層部)」


「甲斐叢記」:嘉永4年刊(前半)、明治26年刊(後半) 大森快庵著

巻之4
身延山妙法華院久遠寺
身延山:層塔が描かれる。

身延会式:多宝塔が描かれる。
身延会式  同多宝塔部分図  同層塔部分図

 

身延山全圖:時期不詳(江戸期と思われる。)
身延山全圖の中央の部分図です。
かっては本堂手前左(図左下)に多宝塔、奥の院に至る途中(図の右上)に五重塔が存在していた。

 →身延山

巻之5
国分寺址:記事
「・・・この寺の域に、古昔のおほてらの址なりとて礎石在り。古き瓦の欠けたる、多く出ず。・・・(今の国分寺は臨済宗にて、・・寺領七石あり。その境内は古の護摩堂の跡なりと言ふ。)」
挿絵はなし。

巻の8
松本山弥勒実相院大蔵寺
智積院末。行基開山。感道上人中興。「・・寺号は古昔聖武天皇大蔵経を寄附したまふによれり。山上に三重の宝塔を建てて、経巻を納むとあり、その塔、元禄元年に焼け失せぬ。・・・」
挿絵はなし。大蔵経寺。宝塔跡は現境内から5町余の所にあると云う。

 →甲斐大蔵経寺
 


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