第7回発掘調査(1999年)

金色院トップ

寺域の範囲(南限)を推定・確定するために、白川地区で10ヶ所・上明地区(白川地区の東南部の坊伝承地)3ヶ所の発掘調査を実施。
結果白川地区に展開する寺跡はおおむね南北500m、東西250mの及ぶ想像より広大なもので想定されるに至る。

現在判明している坊跡
惣門を貫く東西の通路の北側は、西から蔵之坊、中之坊、福泉坊と推定される。また福泉坊の北には堅珠坊があったと推定される。
またその東西通路にT字型に交わる通路の南西角には辻之坊があったと推定される。
慶長16年(1611)の「白川村検地帳写」には、尾崎坊・西坊・東坊・北坊・向坊・福泉坊・蔵坊・岡坊・池坊・玄勝坊・浦坊・玄信坊の作人の
名前が見えまだこの頃は多くの坊舎が存在したものと思われる。
享保年間には福泉坊・蔵坊・監珠坊・長円坊・岡坊・中之坊・尾崎坊・向坊・北坊・南坊・東坊・西坊(上林家文書)などが存在する。
東西通路の南方一体は現在は田畑であるが、この階段状の地に坊が展開していたものと想定される。
中之坊は現在服部家があり、明治維新前後に分家して家を構えるまで竹薮であったという。
福泉坊は明治維新に廃寺となるが、その建物は、明治中期まで残ると伝える。
寛延3年(1750)の福泉坊・蔵之坊返答書あるいは明和3年(1766)の訴状によれば、この頃既に多くの坊は転退し、別当・福泉坊(天台宗)、北之坊(天台宗・無住)、蔵之坊(真言宗)のわずか3坊になった様子が覗え る。
また、この頃中之坊の再興が企図されるも、その力も無く頓挫するという文書が残る。

 

◆白川地区10ヶ所のトレンチ配置図(出典:宇治市教育委員会「現地説明会資料」)
調査区Aのトレンチでは自然斜面を削平・埋め立て、坊舎を建立し、また埋め立て土内から炭・焦土ともの平安時代後期瓦や15世紀後半の土器が数多く出土する。
この結果「白川金色院勧進状」に伝える長禄4年(1460年)の焼失の信憑性はかなり高いものと判断されるに至る。
 また調査区Bの調査結果、寺跡の南限地はトレンチ6,7の南、かつトレンチ8.9.10の北とすることが妥当と判断される結果となる。
総門から文殊堂にいたる東西の道路沿いの中心部から、現在棚田となってる田畑の一枚一枚がほぼ金色院の坊舎であったと推定される広大な寺院であった 様子が復原できる。

第7回発掘調査・白川地区10ヶ所のトレンチ配置図

 

◆↓調査区Aのトレンチ2の状況
    2000/3/11撮影
7kai1.jpg (33705 バイト)

◆↓出土した平安時代の軒丸瓦。
平等院で出土する同範の瓦という。
平等院との深い関係が推定される。
      2000/3/11撮影
7kai2.jpg (26511 バイト)

金色院トップ