過去の訪問塔婆・ご提供画像(2002/07/14〜2002/08/17 )

過去の訪問塔婆履歴

2002/08/17 備後松寿寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
元は明治20年建立という多宝塔模造経堂(二重)があったが、昭和53年全焼し、その後寺・檀家一体となり、昭和63年に三重塔として再建したようです。本格的な木造塔婆です。彩色。本瓦葺。急斜面の狭い敷地に建立のため、かなり無理があるようです。逓減がほとんどなく、また相輪が短すぎる印象です。釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩、聖観音の四仏と四天王を安置。心柱は最上層から吊り下げた懸垂構造とされる。曹洞宗。
備後耕三寺全景
  同    五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
昭和31年竣工塔。室生寺の塔の様式と規模を模す。ただし心柱は円筒状の鋼鉄製という。また垂木および屋根は銅板製のようです。耕三氏が母堂の納骨塔として発願し、「大慈母塔」として建立されたという。
耕三寺は、大阪で鋼管製造で成功した金本耕三氏が独力で故郷である生口島に昭和10年に開山した。現在では十数棟にのぼる堂塔が建立され、また国指定の重文だけで十数にのぼる仏像彫刻などを収集し、耕三寺博物館として「繁盛」しているようです。収集品には大和興福寺講堂本尊をはじめ、神仏分離で放出されたと思われる什宝が主流のようです。堂塔は山城平等院鳳凰堂、下野日光山陽明門、山城法界寺阿弥陀堂などの国宝建造物を模して造営された。それらは赤・青・緑・黄金色で装飾され、その過剰さゆえに眉を顰める向きもあるようです。その評価は訪れた人それぞれがすべきでしょうが、ここまで徹底されると一種凄みがあり、初期仏教寺院もこれに似た装飾を持っていたのであろうと思われ、ある種の寺院は世俗の権勢の象徴でもあったようです。瀬戸田港から耕三寺まで現代の門前町が形成され、それくらい耕三寺のインパクトは大きいと妙に感心させられました。
備後耕三寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
昭和16年建立。石山寺多宝塔を模すという。現在もその装飾は良く維持されています。耕三寺のほかの堂塔と同じくとにかく装飾過剰な塔婆です。
備後向上寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
永享4年(1432)建立塔。藤原朝臣の作で、大檀越井口守平、檀越信元、信昌であったと伝える。総高19.52M。和様を基軸に長押を用いず、木鼻・初層扇垂木、花頭窓、組物などかなり唐様を取り入れた塔婆です。昭和38年に解体修理が行われ、建立当初の用材が使われていることが確認されたようです。禅宗寺院の室町期の三重塔の遺構をよく伝えるとされ国宝に指定。塔は島與の独立丘の頂上近くにあり、数百年間雨風を凌ぎ、よく今日まで伝えられたものと感動を覚えます。
向上寺は応永10年(1403)大本山仏通寺開山仏徳大通禅師の開基という。塔婆下に本堂があったが、現在も再建に至らず、塔のみが孤立している現状です。伽藍は明治6年に焼失し、本堂は三原付近の古寺院の廃材で再興したが、この本堂は老朽化のため取壊したようです。
備後明王院五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同    本堂・塔
  同     本堂1
  同        2
再訪です。
貞和4年(1348)一文勧進の小資を積んで造立されたという。本堂(元応3年=1311)と並んで立つ様は圧巻です。塔は純和様で構成され、その姿は雄大で、南北朝期の代表建築です。高さ29M強。
なお門前の芦田川下の草戸千軒遺跡は明王院(常福寺)の門前町として発達した町の遺跡のようです。
本堂(鎌倉期・国宝)は典型的な折衷様を採用した密教本堂建築として有名です。
備中遍照寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
再訪です。
慶長11年(1606)建立。一辺4M弱、高さ15Mほど。
遍照寺そのものは(市街地再開発と思われる)駅南の埋立地に移転し、塔のみ現在も旧市街(寺町)に取り残されたままです。国指定の重文で現状変更がままならないようです。こういう情景とは一体何なのであろうかと考えさせられます。この貴重な遺構を放置したままの寺院とか行政とかあるいは時代とは一体どのような「傲慢」さなのであろうかと。
備中遍照院三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
再訪です。
応永23年(1416)再興。創建は寛和元年(985)という。一辺4M強、高さ約21M。
塔は遍照院の土塀の外、熊野神社参道の傍らに立つ。元は熊野神社の神宮寺であった。しばしばの火災で古建築としては、塔のみが伝わる。なお沖笹の足高神社の神宮寺が天正年中に移ったという伝承もあるようです。
「中国名所圖會」巻之2より:神遊山神宮寺遍照院・・・挿絵はありません。記事のみです。
記事:「人皇65代寛和元年乙酉、備中国浅口郡神宮寺に三重の塔を建つ。また曰く、一乗院永延元年丁亥、多田満仲公、十二所権現御再建云々。
三重塔婆(十二所権現の北の方にあり。方3間、高さ17間5尺云々。)今の塔は宝永年中の造営、本尊金剛界大日如来、作不詳と云々。瓦は古瓦残りし有りしと見えて、三重の屋根に百枚余古瓦有り。古瓦に古歌を鐫す。九輪に経文を鋳附て有れど、文字定かならず。
十二所大権現:明王院と号す。」
寺坊(金剛院・普門院・善照院・医王院・禅園院)も当時はまだ存在したようです。
2002/08/16 周防瑠璃光寺五重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同        10
  同        11
  同        12
  同        13
  同        14
  同     正面図

  同   1層平面図
嘉吉2年(1442)建立塔。一辺5.11M、高さ31,2M。全般に和様の手法で統一されているようです。中世の塔としては珍しく心柱は1階から立ち上がっているようです。
図14:塔床下で心柱が見えます。
塔は大内義弘の菩提寺である香積寺の遺構とされ、弟大内盛見が義弘の菩提を弔うため塔の建立を計画したという。塔は嘉吉2年(1442)の建立とされる。関ヶ原の後、慶長9年(1604)毛利輝元は当寺を解体し、萩に四本松邸として搬出したが、五重塔は反対運動もあり、残置される。
瑠璃光寺は陶弘房の菩提を弔うため仁保氏(弘房の妻)が建立した安養寺(文明3年<1471>)を前身とする。後拡大の為寺地を替え、瑠璃光寺と号した。当時は曹洞宗薩摩石屋門派の巨刹として隆盛を誇った。元禄3年(1690)仁保の地から、香積寺跡に移転し、五重塔を引き継ぎ、現在は瑠璃光寺塔婆と称される。
正面図:国宝瑠璃光寺構造図の表紙より
1階平面図:同上より。四天王柱を囲み、須弥壇が円形のようです。これはこの塔婆だけのようです。
周防瑠璃光寺資料館
 同 瑠璃光寺塔婆模型
 同 法隆寺塔婆模型
 同 興福寺塔婆模型
全国各地の五重塔模型が直近の建立塔婆も含めて、おそらく67基陳列されています。北九州の江口義博氏の製作・寄贈のようです。木造ではなくて、新建材?の模型であることが惜しまれます。
瑠璃光寺の明治以降の写真や各地の塔の写真などと、木製の塔模型として、瑠璃光寺、大和法隆寺、興福寺の五重塔模型も展示されています。
周防防府天満宮五重塔雛型1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
現在は岩間山(地蔵院)にあり、霊光院と扁額のかかる鞘堂に安置されている。総高約2.8M。
防府天満宮が五重塔建築を計画、文政5年(1822)建立許可。大工松屋嘉右衛門に建立が命ぜられ、松屋嘉右衛門は塔建立に先立ち、塔の20分の一の模型を製作。とこらが天保改革で藩の財政改革も実施され、この塔の建立は中止された、嘉右衛門は山口常栄寺諦州和尚にこの模型を送り、諦州和尚の隠居所である霊光院に伝えられたという。霊光院は地蔵院の南方700Mくらいにあったが、近年伽藍維持が難しくなり、地蔵院に移転したようです。山口市文。近年修理が行われたようです。
周防防府天満宮
  春 風 楼
  五重塔組物1
   同     2
   同     3
   同     4
文政5年(1822)10代藩主毛利斎煕は、五重塔の建立を発願し、大専坊にて釿始めの儀・地鎮供養の祈祷を修した。ところが、天保の改革の藩財政改革のあおりで、天保2年(1831)工事を中止。天保10年(1839)工事を再開するも、その後の幕末の政情の変転で工事は進展せず、塔は未完のまま明治の廃藩に至った。天満宮は設計を楼閣様式重層の通夜堂に変更し、文政着工時に造作した塔の一層部組物をそのまま床下に組み入れた春風楼として、明治6年に、完成させた。春風楼自体の建築は時代の流れで貧弱なのはやむ終えませんが、周囲を圧する大建築です。塔が完成していれば一辺8M弱、高さ48.1Mの巨塔となったようです。奇抜な発想のお蔭で、今に堂々たる組物が伝えられ、一種不思議な光景を目のあたりにすることが出来ます。
明治維新前の防府天満宮の性格は、全国各地の大神社と同じく、社僧が実権を握る神仏の混交した状態であったようです。表参道西側には天満宮の創建と同時の創建という別當大専坊、西林坊、東林坊、蜜蔵坊、会所坊、東側には執行(造営・営繕を管掌)円楽坊、東覚坊、乗林坊、千蔵坊の9社坊があったようです。一山は酒垂山満福寺と称したという。これら社坊は明治維新の神仏分離例で取り壊されたという。
周防防府天満宮
  観音堂
  本殿(拝殿?)
  別當大専坊跡
  三重塔1

   同  2
ざっと目につく、現在残されている佛教的なものを拾うと、まず本殿(拝殿かも)そのものの外形式は仏堂そのものです。社殿向かって右(東)に本地観音堂が残されています。さらに右(東)におそらく近年建立された粗末な三重塔(紅梅の塔と称する小塔、木造のようです。高さ約3Mくらい?)もあります。そのほか鎌倉期の銅鐘、別當大専坊本尊毘盧舎那仏坐像等があるようです。
なおこの三重塔は摂津網敷天満宮の三重塔とほぼ同型・同一規模の模型です。
周防国分寺伽藍図
  同  塔跡推定地
創建当初の境内に今も伽藍を残す。国の史跡。天明8年(1788)萩藩7代当主毛利重就により再建されたと伝える金堂(重文・桁行7間、梁間4間・重層)を残す。<但し現在解体修理中で全く何もみることは出来ません>また金堂内には、藤原時代初期の木造日光・月光菩薩立像、四天王立像をはじめ多くの仏像を残すようです。
塔は現仁王門を入ってすぐ右奥に存在したとされるが、発掘調査で確認されたのみで、現地には何も見るべきものはありません。
周防花岡八幡宮多宝塔1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
  同          6
  同          7
  同          8
  同          9
  同         10
  同         11
  同       鐘楼
  同     閼伽井坊
室町後期建立と推定。今も花岡八幡宮の社頭に建ち、神仏分離前の姿を伝える。
花岡八幡宮:社伝によると和銅2年(709)宇佐八幡を勧進したと伝える。
慶長4年(1599)には地蔵院・楊林坊・常福坊・千手院・閼伽井坊・香禅寺・惣持坊・長福寺・関善坊の9坊が確認されている。江戸末期には地蔵院・閼伽井坊の2坊に減じ、地蔵院は明治2年に住僧の還俗により廃院となり、現在は閼伽井坊のみが現存。 多宝塔は花岡八幡の楼門から本殿の参道右にあり、坊舎で唯一残った閼伽井坊の管理(所有)とされている。
2002/08/12 美濃真禅院三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同 本地堂蟇股1
  同        2
  同      鐘楼
再訪。寛永19年(1642)建立。総高25.38M。本尊大日如来。昭和60年解体修理完工。
南宮神社西方400Mのところにあり。三重塔・本地堂など諸伽藍は、南宮大社向かって左手奥(南)にあったようです。
朝倉山(天台宗)と号する。天平11年(739)行基の開基と伝え、宮処寺と号した。延暦年間勅令により、伝教大師が南宮大社と両部習合させ、大神宮寺と称した。その後多くの霊験で隆盛を極める。元亀元年(1501)全山炎上。永正8年(1511)竣工。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で諸堂宇の大半が焼失。寛永16年(1639)再建・造営が許可され、同19年ほとんどの普請を終了した。
維新前には南宮神社を取り巻く多くの院坊があり、真禅院もその一つであった。明治の神仏分離に際し、真禅院秀覚が中心となり、村人の絶大な奉仕のもと、本地堂・三重塔・鐘楼等22棟の堂宇を統廃合して明治4年までに移設したのが現真禅院であるとする。神仏分離の一つの形として、趣旨(神仏判然)から言えば、棄却の対象であったものが、見事に現在まで伝えられているという意味で、非常に稀有の例であり、先人の努力に多いに敬意を払うべきものと感慨深いものがあります。
三重塔、本地堂(重文・本尊南宮大社本尊阿弥陀如来)、鐘楼(梵鐘は重文)、観音堂(元宝珠院)、薬師堂、護摩堂、弁財天堂、十王堂などが残され、おそらくこの堂宇は神仏分離で引き継いだものと思われます。
なお本地堂は三重塔左にあった棟入の本地堂ではなくて、本殿左前にあった妻入の本地堂のようです。
「木曾路名所圖會」巻之2
南宮金山彦神社 南宮山(部分図)
美濃南宮大社1
  同     2
大社向かって左奥(南)に本地堂、三重塔があったようです。現地は更地あるいは民家になり、全く痕跡、面影はありません。ただし、さらに奥に若干の灰探知をもつ社叢があり、今回は足を踏み入れていませんが、あるいはこの場所が現地であった可能性もあります。
二層門あるいは舞台などの殿舎は仏堂そのものの形式のようです。
美濃宮代廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
南宮大社西方500Mばかりの所に塔跡があり、心礎が残されている。花崗岩製。1.5M×2,1Mで径約82Cm、深さ13Cmの孔を持つ。但し後世に荒れたのかかなり不整形のようです。
金堂は現地の藤樹寺本堂の場所(現在は更地)といい、法起寺式であったようです。白鳳から平安前期の瓦が出土し、創建は白鳳期とされる。
飛騨国分寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同      本堂
天平年間七重塔創建。斉衡元年(854)五重塔再建、元和元年(1615)金森氏が五重塔再興。天和年中(1681-3)三重塔に改装、寛政3年(1791)烈風で倒壊。文政3年(1820)三重塔として再興。
一辺4.32M、高さ22,4M。おそらく素木造りであったと推測される。
本堂(室町・重文)が残されている。
飛騨国分寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
現三重塔のすぐ北に天平創建心礎が残されている。
2M×2×1M。径133Cm・高さ1Cmの円柱座を持ち、中央に径58Cm・深さ29Cmの孔を穿つ。流紋岩製。
2002/08/03 旧白毫寺多宝塔1
  同     2
  同     3
  同     4
  同     5
  同     6
  同     7
  同     8
  同     9
  同     10
  同     12
  同     13
1984年の旧白豪寺多宝塔写真を入手。当然焼失前の写真です。
株式会社関西寺社建築様よりご提供頂きました。
2002/07/31 井植山荘塔跡1
 同      2
 同  部品1
 同  部品2
 同  部品3
 同  部品4
2002/07/31の井植山荘塔跡の近況です。
2002/07/28 大和白揮寺多宝塔図1
  同         2
  同         3
  同 多宝塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
1.旧白豪寺多宝塔の売却前の姿を描いた「絵画」が白豪寺に収納されました。
 今般その「絵画」を撮影させていただきました。
2.白豪寺には今も多宝塔跡がほぼ完全に整備・保存されています。

詳しくは「旧白豪寺多宝塔・井植山荘多宝塔」のページを参照ください。

大和興福寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
再訪。ここ数年来、金堂周りで発掘調査が行われていて、五重塔の撮影は難しいです。
大和元興寺塔跡1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
再訪。
日本の木造塔跡:塔跡は後世の壇上積基壇と心礎と四天柱礎の1ヶを除く全礎石が完存している。心礎は2.0M×1,88M、径1,14Mの柱座があり、径30Cmの出枘を持つ。塔の一辺は9.85Mとされる。
大和大安寺西塔跡1
  同        2
  同        3
  同        4
  同    東塔跡1
  同        2
元の南大門・中門付近の近年の小伽藍以外には全く廃絶した伽藍地の南方、八幡宮の社叢のすぐ南に東西両塔の土壇を残す。西塔跡には心礎を残す。日本の木造塔跡:2.5M×2,2Mで、径約1,5Mの柱座の造り出しを持つ。出枘式であったと推定されるが、痕跡はなし。心礎を割ろうとした楔孔が直径上にある。付近の大和郡山城(石垣には多数の石仏などが転用去れている)への転用を試みた跡か?。訪問時の東塔跡は夏場でブッシュがひどく、通常の装備では足を踏み入れることは不可能な現状です。両塔とも七重塔であったと伝える。
大安寺は飛鳥の百済大寺、高市大寺、大官大寺を前身とし、平城京に移って大安寺と称した。天平神護2年の東塔に落雷。天暦3年(949)西塔が雷火で焼失。寛仁元年(1017)主要堂宇焼失、再建が続けられたが、長久2年(1041)に焼失。寛治4年(1090)には七重宝塔1基を再興。しかしこの東塔も慶長元年の地震で倒壊したという。
2002/07/14 大和吉田寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
再訪です。
大和法隆寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
再訪です。遠望。
旧富貴寺塔初層1
  同      2
  同      3
  同      4
  同      5
  同      6
基本的に素人には非公開のようです。
情報については「現存する塔婆」→「塔婆残欠」のページ、「大和の塔跡」→「大和・富貴寺塔堂」の項を参照下さい。
大和法輪寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
再訪です。
大和法起寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
再訪です。遠望。
大和長林寺心礎1
  同      2
  同      3
  同   塔礎石
  同  金堂土壇
  同  金堂礎石
  同  塔想定地
穴闇寺ともいう。聖徳太子建立で松永弾正の兵火で焼失したという。現在は黄檗宗。飛鳥期の心礎を残す。元の心礎位置および金堂跡の配置から法起寺式伽藍と考えられる。鎮守素盞鳴神社の境内に金堂土壇・礎石(自然石・16個)を残す。飛鳥・白鳳期の瓦を出土するという。
心礎は粗末な本堂向拝前にあり、おそらく元位置(写真:塔想定地は金堂土壇から東を撮影したもので、住宅の玄関付近に心礎はあったと云う)からおよそ北へ数十M移動させたようです。また向拝の柱礎石(柱座造出し付き)として塔礎石が1ヶ転用されているようです。(写真:塔礎石)
日本の木造塔跡:心礎は径約1.3M、径46Cm、深さ7〜4Cmの円孔が穿たれている。
大和百済寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
再訪です。
大和西安寺跡 久度寺とも云う。聖徳太子建立の一院とされる。寺跡は船戸神社境内(写真は神社社叢)とされ、付近から白鳳・天平〜鎌倉の瓦・塔心礎が出土したといわれる。また「日本の木造塔跡」によれば、心礎(長林寺式)と断定は出来ないとの記述があり、心礎?は存在したようです。しかしながら現地にはそれらしきものは何も見当たりません。近所の人のお話によると、随分昔、現地から北東の方向数百Mの真宗大谷派西光寺(船戸神社を管理している)に礎石は移したとのことでした。住職不在のため不明な部分がありますが、西光寺境内地を拝見しましたが、礎石らしきものは発見できませんでした。
大和信貴山多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
朝護孫子寺。寛政3年(1791)刊「大和名所圖會」には現在の多宝塔位置に信貴山三重塔(部分図)が描かれています。従って、多宝塔は寛政以降の江戸後期(文政頃か)の建立と推定される。
三重塔の喪失および多宝塔の建立時期ははっきりしないようです。近年おそらく彩色が変更されたようです。以前の写真によると、組物などは江戸風な極彩色であったようですが、ごく一部を除き単に朱色に彩色されただけに変更?されたようです。(その理由は分かりませんが。)
一辺約4.2M、高さ25Mくらいのようです。印象的にはやや重い感じを受ける塔婆です。
大和信貴山三重塔1
  同        2
  同        3
塔頭玉蔵院の持仏堂の再建として建立されたようです。昭和46年完成。鉄筋コンクリート製。木造風彩色。一辺6.2Mという。仏堂を兼ねているため、塔婆としては少々お粗末なようです。
大和信貴山二層塔1
  同        2
塔頭成福院の融通堂として近年建立されたようです。流行仏閣の習いで、やや品格がないのは仕方のない事と思われます。
大和信貴山三重小塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同 奉納額(参考)
信貴山宝物館入口正面にガラスケースに入って、三重小塔が展示されています。江戸初期の作と説明があります。初期かどうかは別にして、極めて江戸関東風な趣味の小塔です。高さは目測でおそらく1M余と思われます。寛政ころまでは存在した三重塔との関係ははっきりしません。
なお宝物館では「信貴山縁起絵巻」の複製の展示を拝見することが出来ます。
奉納額(参考)は、信貴山のさる堂中に掲げられた、銅銭で塔婆を形作った額です。各地で時折見かけますが、塔婆関係の素朴な願懸けとして掲載します。時代は文字が判読できないため不明。

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