過去に訪問した塔婆・ご提供画像(2001/12/24〜2001/12/31)

過去の訪問塔婆履歴

2001/12/31 讃岐大窪寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
昭和29年建立。上層部は本格的な大型の木造建築のようです。本堂の真後に建立され、本尊は多宝塔内部に安置されているようで、ちょうど本堂が拝殿のような形式です。許可を得れば、近づけるのでしょうが、残念ながら、一般には塔婆には近づくことは出来ないようになっています。
四国霊場第88番(結願所)札所。真言宗大覚寺派。
行基菩薩の開創され、元正天皇の勅願寺という。唐から帰朝した弘法大師は奥院の岩窟で求間持の法を修め、 大きな窪の側に堂宇を建て薬師如 来を刻んで本尊とした。これが大窪寺の始まりとされる。大師は 四国巡行中の三国伝来の錫杖を納めて第88番結願の霊場と定めた。天正年間(1571-92)長曽我部氏の兵火でほとんど焼失。近世高松藩主松平氏が再建。再び明治33年、火災で焼失。現在の堂塔は その後の再建による。鐘楼門、本堂・多宝塔、大師堂、阿弥陀堂その他の伽藍が有ります。
阿波霊山寺多宝塔1
  同        2
  同        3
明治15年建立。一辺5.92M。きわめて近世風の塔婆で、印象的には「ずんぐり」といった感じです。近年修理が行われたようで、すっきりとした姿になっています。五智如来を安置するようです。
四国霊場第1番札所。当寺は聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開基したという。
弘仁6年(815)、弘法大師は、人間の88の煩悩の消滅のため、四国に88ヶ所の霊場を開こうと祈願。四国の地を胎蔵界大日如来の四重円壇の曼荼羅とみなし、四国各国を発心、修行、菩薩、涅槃の地とみなした。弘法大師が霊場開設の為、当寺を訪れた時、弘法大師は中宙に光明輝く諸菩薩を感得したという。その情景は、あたかも釈迦が霊鷲山で説法している情景であり、これをもって日本の天竺の霊山という意味で「竺和山霊山寺」と命名し、当寺を第1番札所と定た、とされる。天正年間長曽我部の兵火で焼亡。明治24年に本堂と塔を残し焼失。
阿波金泉寺多宝塔1
  同        2
  同        3
平成5年完成の新造塔です。残念ながら鉄筋コンクリート製です。形はそう悪くはないようですが、装飾は趣味が悪いようです。
四国霊場第3番札所。当寺は聖武天皇の勅願により、行基菩薩が、開基したという。
のち、弘法大師が当地を訪れたとき、黄金の泉が湧き出、そこに堂宇を建立し、寺号を金泉寺と命名したという。
阿波安楽寺多宝塔 おそらく平成になって建立された鉄筋コンクリート製です。小型です。阿弥陀堂の扁額が懸っている。本堂裏手にあり、残念ながら、塔婆としては上品であると評価は出来ません。
四国霊場第6番札所。現在ある場所の北西の山中に安楽寺谷があり、ここは温泉が湧き出でていたようです。弘法大師がこの地を訪れたとき、薬師如来を刻み、堂宇を建立し、温泉山安楽寺と命名したという。天正年間長曽我部の兵火で焼亡。万治年間に、瑞運寺を併合して現在の地に移転再興されたと伝える。た。戦後、お遍路の火の不始末から再び焼失。
阿波熊谷寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
安永3年(1774)建立。剛意上人が建立したとされる。一辺5.99Mの大型塔です。一層は扇垂木を用い組み物も唐様です。ニ層は板垂木を用い、昭和56年の修理のより、文様に彩色が復活されたようです。饅頭は銅板ばりのようです。全体的に江戸時代の関東風の印象の塔婆です。塔婆は楼門から仁王門(この奥に本堂)に至る参道の左に建つ。
四国霊場第8番札所。弘仁6年(815)霊場開設のため、弘法大師がこの地を訪れ修行中に、熊野権現が出現し、一寸八分の金の観音菩薩像を大師に授けたとされる。そこで弘法大師は、自ら等身大の千手観音を刻み、胎内に金の観音菩薩を納め、堂塔を建立したという。これが当寺であるとされる。ただしこの本尊は昭和2年本堂とともに焼失。現本堂は昭和47年の再建。
阿波切幡寺大塔1
  同       2
  同       3
  同       4

荒唐無稽 その1
  同      2

大塔は元和4年(1618)、徳川秀忠が摂津住吉大社神宮寺に寄進した塔婆。神仏分離で当寺が買受、明治6〜15年に移築。同型の東西両塔のうちどちらなのかは現在情報がありません。
初重は方5間一辺9.98M・出組・中備撥束・2重繁垂木、ニ重は方3間一辺4.8M・四手先・中備蓑束・2重繁垂木。初重正面の中3間は板唐戸。両端間は連子窓、背面と側面の中央間のみ板唐戸であとの間は連子窓とする。訪問時は大塔の周辺が整備中のため、立入り禁止で、かつ塀で目隠しをされていたため、残念ながら、近づくことができませんでした。
なお「文献上の塔婆」→「摂津名所図会および摂津関連の文献に表れた塔婆情報」を参照
四国霊場第10番札所。弘仁年間弘法大師が巡行の折、この山麓で幡を織る音を耳にした。大師は自身の衣服の破れを繕う布切れを所望した。幡織りの女は織りかけの布を惜しげもなく切り、差し出した。大師は「千手観音を刻んで衆生を救いたい」という女の願いを聞き、その場で観音像を刻んで女を得度させた。すると女はたちまち千手観音に即身成仏したとされる。大師はこの地の山腹に堂塔を建立、得度山切幡寺と命名したのが始まりとされる。天正年間長曽我部の兵火で本堂を除き24坊を含む堂塔が焼亡。観音山の中腹に南面して建つ。
なお阿波の国の利生塔は安国寺(当寺近くに安国寺は法脈が受け継がれているようです。)ではなくて当寺に置かれ、暦応5年(1342)に阿州切幡寺塔婆の落慶供養が行われた。その建立は諸国で一番早く、供養は二番目であったという。導師は讃岐善通寺の宥範と伝える。
時間的に余裕が無かったので、利生塔跡の確認はしていません。
ですから、以下は全くの荒唐無稽な私の夢想です。現状では仁王門を入ってすぐ右に平坦地があります。何かの粗末な社殿がありますが、この平坦地が近世・近代のものでなければここにあった可能性はあります。位置的には山麓近くで不自然かも?。また手水石のようなものが放置されています。この時代に心礎は不必要でありまた心礎としては小さすぎるようですが、心礎が小さく加工されて手水石?に転用されたと夢想しています。・・・以上全くの見当外れでしょう。
2002/2/1追加:「X」氏情報:切幡寺の見解では、利生塔跡とされている場所に大塔が移建されているとのことです。もっとも可能性のあることと思います。
2001/12/30 備前金山寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同     本堂1
  同        2
金山寺は金山の山頂近くに位置し、塔婆は本堂からさらに相当石段をあがった場所に独立して立つ。天明8年(1788)建立。一辺5.1M、高さ26.3M。2001年12月現在解体修理中ですが、全部組み上がり、あとは足場を外すばかりのようです。
本堂(桁行5間、梁間6間、入母屋造り、本瓦葺き、桃山、重文)、仁王門、護摩堂、潅堂、客殿等を残すが現在は相当荒れています。当寺は報恩大師開基と伝え、大師備前48ヶ寺の筆頭とされ、天台の大寺として多くの院坊があったようです。松田元成の日蓮宗改宗を拒み、全山焼失。大山寺豪円が再興。現在は本坊(遍照院)のみが維持しているようです。
解体修理中のため、残念ながら、塔婆全容は撮れていません。
備中国分寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同      本堂
2000/12/25日撮影画像入替
2001/12/30日撮影画像追加
2001/12/29 備前蓮台寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同      客殿
  同     門前町
瑜伽山。天保14年(1843)建立。一辺6M、高さ21Mの大型塔婆です。本尊は五智如来。
行基の開基で、坂上田村麻呂の再興、あるいは報恩大師開基ともいう。寺院と神社は分離したとはいえ、現在も神仏混交時代の姿をほぼ完全に残しています。社殿と仏堂とが渾然一体となって宥和している、明治維新前の多くの大社の形を残しています。
備前弘法寺多宝塔跡1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
昭和42年本堂・普賢堂・鐘楼・坊舎等の主要伽藍とともに焼失。宝永8年(1777)の再建塔であった。主要伽藍は未だに再建に至らず。多宝塔は一辺4.9M。本瓦葺き。木部は丹塗り。下層は四天柱を立て、内外陣を区別し内陣は唐様の須弥壇を置き、天井は折上格天井、外陣は格天井。五智如来を本尊とする。中心柱は珍しく床下礎石から立ち、相隣に達しているとされる。
当寺は報恩大師開基で中世には30数院があったと伝える。
現在は仁王門と本堂跡上段の常行堂・山王社と遍明院・東寿院の2坊を残すのみ。
多宝塔跡は院坊(跡)を抜けた石段上の平地(千手山の上段)にある。現状は薮の中に本堂跡・塔婆跡の基壇を残す。本堂は東面し、塔婆は本堂北東にあり、南面していたようです。
坊舎の高い石垣は組み直され、建物も立派に新築され(つつある)たようですが、主要伽藍跡は放置されたままです。もっとも焼失後40年近くになりますが、定期的には薮の刈り込みは行われているようで、林に帰るということは無いようです。
写真:1=正面が本堂跡・右が塔跡、2=塔跡、3=塔石段、4=塔南東隅礎石、5=左に同じ、8=塔西側基壇、7=本堂等跡に続く石段(本堂跡から見下ろし)、8=本堂等上段の焼失を免れた諸堂、9=仁王門
備前本蓮寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同      本堂
  同   番神堂(覆屋)
  同     番神堂1
  同         2
  同         3
牛窓の最初の法華宗の道場は大覚大僧正が法華堂を建てたことに始まる。のち永享年間(1429-40)に本能寺日隆上人が西国に布教し、日暁上人を備前に派遣した。牛窓の豪族石原道高が帰依し本蓮寺の開基檀越になり、法華堂を本蓮寺(日隆上人が第1世)と改名し、成立した。道高は第2子を出家(日澄上人)させ、第2世となり、兄石原伊俊と共に本蓮寺本堂(明応元年<1492>、桁行5間・梁間5間、寄棟、本瓦葺、重文)を造立した。この本堂とともに同時代に建立されたと推定される番神堂(重文)、中門(ニ脚門、重文)が今日に伝えられている。さらに江戸時代になって祖師堂・三重塔・客殿(朝鮮通信使の宿舎)等も建立され八品派の拠点の一つであった。
三重塔は元禄3年(1690)建立。一辺3,2M、高さ18.1Mのやや小型塔です。手法としては花頭窓等唐様の影響が見られるようです。町並みが迫る丘上の下段に伽藍が造成され、本堂・祖師堂・三重塔が密集して建てられています。
備前静円寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
元禄3年(1690)建立。天文年間(1532-55)に上層が倒壊、下層も寛永16年(1639)破損、光明院の清養が長押から下を寛永年間にそれ以外を元禄3年(1690)に再興したと伝える。一辺3.3M、高さ12Mの小型塔です。以前の写真では相当痛んでいたようですが、平成2年に大修理が行われ今はすっきりした姿で佇んでいます。本堂等諸堂が南面する東側にあり東面して立つ。
当寺は報恩大師開基と伝え、伽藍は現在地の南西の山上にあり33坊が谷を埋めたとされる。元禄年中に今に地に伽藍は引きおろされ、現在は付近に残る光明院・地蔵院・安楽院で維持されているようです。
備前西大寺三重塔1
  同        2
  同      本堂
2000/12/25日撮影画像入替
2001/12/28日撮影画像追加
2001/12/28 備後浄土寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6

  同        7
  同     本堂1
  同        2
2000/12/26日撮影画像入替
2001/12/28日撮影画像追加
備後西国寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同     本堂1
  同        2
  同        3
2000/12/26日撮影画像入替
2001/12/28日撮影画像追加
備後天寧寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
2000/12/26日撮影画像入替
2001/12/28日撮影画像追加
備後松寿寺三重塔 平成元年完成。木造。三原城天主台跡から撮影。現地には時間の関係で行っていません。曹洞宗。
2001/12/27 伊予興願寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
貞亨元年(1684)建立(棟札)。塔は本寺の東の保育園の運動場中に立ち、園の中に溶け込んでいる。元は阿波太竜寺塔婆で、老朽化のため荒廃していた。住職が同窓で親友とのことで、太竜寺から譲渡(昭和28年解体〜34年移築復元)。本尊金剛界大日如来。一層のみ扇垂木を用いる。当寺は承応元年(1652)高野山快順上人の開基とされる。
讃岐本山寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同      本尊
  同     塔堂1
  同        2
  同     本堂1
  同        2
  同        3
  同     仁王門
明治43年再建塔。当初は大同年間に遡るという。本尊は五智如来(中央は大日如来)。一辺4.26Mで極端に塔身の細い塔である。
当寺は大同2年(807)弘法大師の創建とされ、四国88ヶ所第70番札所。今なお多くの堂宇を有する巨刹である。
本堂(鎌倉期・桁行5間、梁間5間、寄棟造本瓦葺・国宝)と仁王門(八脚門・鎌倉期・桁行3間、梁間2間、切妻・重文)を有する。
なお塔脇に「金毘羅参詣名所圖會」に描かれていた「塔堂」が(おそらくそのまま)残されている。
これは再建前の塔の廃材で建立された堂のようです。
讃岐海岸寺二重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
海岸寺奥の院に二重塔がある。写真の丹塗りの部分のみが現在は鉄筋コンクリート製に変更されたようです。その上の構造は正規の木造です。もともと三重塔として建造が始まったようですが、故あって二重のままのようです。海岸近くの丘上にあり、とにかく目につく建築物です。
讃岐道隆寺多宝塔1
  同        2
四国88ヶ所第77番札所。本堂横に多宝塔が建立されている。木造の特に特徴のない昭和50年代以降?建立の新造塔です。相輪がやや短い、小型塔です。
讃岐少林寺 多度津駅の陸橋から撮影したものです。現地には行っていません。中国大慈恩寺塔を写したとされる六重塔のようです。一応参考として掲載します。ただし正規の塔としては疑問ですので塔婆の参考のページに掲載します。なお「拳士でなければ、境内には入れない」ようです。(X氏情報)
讃岐金倉寺推定塔心礎
  同  塔跡の現状
  同  塔跡の石柱
  同 元の塔跡推定地
四国88ヶ所第76番札所。智証大師円珍の生誕地という。智証大師が三層塔を建立し、法華経を一字一石に刻み寺門の鎮護とする。塔婆は天正年間に兵火で焼亡したとされる。讃岐国名所圖會には塔跡として礎石が完存しているように描かれている。
以下は推測(未確認)です。現状の礎石は無造作に置かれ、おそらく元の位置ではないと思われる。讃岐国名所圖會の図から判断して、西よりに動かされ、礎石も若干失われているようです。元の位置は「元の塔跡推定地」であるように思われます。善通寺市文化財保護課の「三層塔真柱礎址」(昭和37年)の石柱が立てられていますが、その台石は別の例えば石灯篭の台石の転用のようです。なお「文献上の塔婆」→「讃岐国名所圖會」の金倉寺の項を参照ください。
讃岐善通寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
塔は仁孝天皇の御願という。数度の焼失復興を経て、文化元年(1804)再興、この塔も天保11年(1840)焼失。現存塔は明治17年復興塔。一辺6.20M、高さ45.5Mの屈指の巨大塔婆です。
当寺は弘法大師生誕地とされ、東院・西院に今なお多くの伽藍を抱えています。また四国88ヶ所第75番札所で多くの参詣者があるようです。
讃岐金毘羅宮旧金堂
 同 多宝塔跡推定地?
かっては金毘羅大権現として栄え、明治維新まで金堂(現旭社)に至る石段右手に多宝塔が存在していました。多宝塔跡推定地は夕暮れと雨とで未確認です。
2001/12/26 美作長福寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
鎌倉期弘安8年(1285)建立(棟札)。昭和26年解体修理の際、真木山上から現在地の真木山山麓に移転。天平宝宇年間に開基、弘安年間に天台僧円源上人が中興。明徳年間65坊を数える。享保年間22坊に合併。明治元年4院、明治9年1坊に減ずる。大正14年それも焼失し、昭和3年現在地に移転し、最後に残った塔婆も昭和26年現在地へ移転。往時の伽藍跡は現在も山上で確認できるそうです。
美作本山寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同      本堂
  同     長屋門
承応元年(1652)津山藩主森氏によって、再建。高さ26.3M、一辺4.9M。塔婆は南面する本堂の正面に立つ。本山寺は金毘羅山上にあり、多くの伽藍・・本堂(南北朝期・桁行5間・梁間5間、重文)ほか仁王門、霊廟、長屋、山王堂、常行堂、鐘楼、本坊等を今に伝える。
美作弓削廃寺心礎1
  同        2
  同        3
現在は日蓮宗蓮久寺門脇にひっそりと置かれている。この付近の廃寺(弓削廃寺)の心礎とされる。1.3M×1.2M×0.9Mの四角形で、中央に径38Cm、深さ15Cmの柱孔が穿孔されている。孔は半分が円、半分は六角形とされるが、それほど明瞭ではありません。
美作仏教寺三重塔跡1
  同         2
  同       礎石?
  同 塔婆への石段
寺伝では和銅6年の開基とする。陽成天皇によって49院と三重塔が建立。兵火により焼失。津山藩主森氏の帰依を受ける。寛永14年(1637)三重塔、本堂(天保9年焼失、現在は文殊堂を移建して本堂となす)が再建。三重塔は元文5年(1740)修理、昭和に雨漏りがひどくなり、昭和9年の台風で倒壊。仁王門のみが往時の面影を伝える。塔婆は旧参道が、仁王門に至る前の石段上にあり、現在は何かの小社殿が置かれている。なおこの地の奥隅に塔婆の礎石と推定できる石が放置されている。
備前成就寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
文化5年(1808)再建塔。高さ19.7M、一辺3.4M。桟瓦葺き。二層の軒のみ扇垂木を用いる。
寺伝によると報恩大師が開基備前48ヶ寺の最後の寺であるとする(故に成就寺と号する)。現在は日蓮宗であり、大覚大僧正開基(延文3年<1358>改宗)とする。明和3年(1766)仁王門を残し全山焼失。
2001/12/24 紀伊根来寺大塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
  同       9
  同  大傳法堂
  同   大師堂
  同    大門
現存塔婆は文明12年(1480)〜天文16年(1547)にかけての再建塔。高さ約40M、一辺約15M。中世大塔の現存する唯一の遺構である。根来寺は覚鑁上人の創建で、保延6年(1140)上人は高野山衆徒との確執から、この地に移住した。正応元年(1288)頼瑜僧正が高野山からこの地に大伝法院を移し、新義真言(覚鑁派)の拠点として高野山と対峙した。かっては堂塔2000余寺領70万石と称されたが、秀吉の根来征伐(天正13年<1585>)により大塔等の一郭を除き灰燼に帰した。大師堂(室町初期・方3間・重文)
大和巨勢寺跡心礎1
  同        2
  同        3
  同   大日堂礎石
  同    塔婆土壇
史蹟:この地は巨勢氏の本貫地とされ、巨勢寺が建立された。現状は塔跡の土壇と心礎と多くの礎石のみが残されている。円柱座を持つ礎石は塔跡に建つ大日堂礎石として、あるいは。かっての子院とされる正福寺・阿叫寺の建物・庭石となって残されている。土壇は大人の背丈ほどあり、その中央に心礎が原位置(とされる)で残されている。心礎は1.2M×1,3Mの花崗岩で、90Cmの円柱穴があり、その中心に舎利孔がある。水抜きとして舎利孔の外に2つの円周溝と円柱穴の外周溝が彫られ、その3つの溝は1つの直線の溝が彫られ、その直線の溝は穿孔された穴によって心礎の外に誘導される精巧なつくりになっている。なお塔跡の北東にもかっては土壇が存在したが、鉄道工事で削平され、多くの礎石が掘り出されれたとされる。
紀伊長田観音寺塔跡1
  同         2
  同 再建予定塔婆図
三重塔は昭和39年の第2室戸台風で倒壊した。現地で聞いた話では、初層が倒壊して2,3層は無事であったとのことです。現在は何も残されていない、また礎石も掘り出したとのことです。
現状は全く塔跡を偲ばせるものは何もありません。塔跡1の中央の砂利地、塔跡2の参道が塔婆の正面であったとのことです。塔婆正面は西向きであったようです。
塔婆復興の計画があり、2〜3百万円、数十万円の大口の寄附もあるようですが、勧進がなかなか進行せず、メドはたたないようです。
紀伊国分寺跡塔心礎
  同     塔礎石
  同      塔跡
  同      伽藍跡
現在主要伽藍跡の整備が終わり、周辺の整備の工事中です。伽藍は一直線に南門、中門(瓦積基壇、6×3)、金堂(瓦積基壇、8×5)、講堂(瓦積基壇、8×5)、僧房?(掘建式)が並び、中門東北に塔(瓦積基壇、16の柱礎石と心礎)、金堂前方左に鐘楼(3×4)、右に経蔵(3×4)が復元されています。回廊は中門から経蔵・鐘楼に取り付いていたようです。<×の数字は桁行×梁間の礎石数>
塔の一辺は9M余の大塔です。心礎は長径2,4M・短径1,6Mで中央に大枘を掘り出す。なお講堂上には多分再建国分寺のものであるのであろう堂宇が移建?されている。
紀伊西国分塔心礎1
  同        2
  同        3
史蹟:紀伊国分寺跡の整備に比べて、こちらはひどい状態です。かっては「塔の芝」と呼ばれた面影は全くなく、周辺は開発が進み、道路脇に心礎のみが放置され、ほとんどゴミ捨て場の状態です。心礎は長辺1.7M、短辺1M余で中央に88.4Cmの円柱孔がある。また中央に舎利孔があり、1筋の水抜き溝が彫られている。
紀伊上野廃寺跡
  同   東塔心礎1
  同         2
  同         3
  同   東塔土壇
  同   西塔心礎1
  同         2
  同   西塔土壇
史蹟:覚鑁上人開基の新義真言宗の巨刹・薬師寺跡とされ、秀吉の根来攻めで焼亡したとされる。しかし、出土瓦等から、創建は奈良前期とされる。
現在東西両塔あとはブッシュに覆われ、全くの未整備です。ブッシュの中に分け入ると東西両塔の土壇が認められます。その土壇の中央付近に窪みがあり、若干の堆積物や草木を取り除くと、心礎の一部分を観察することは可能です。全容が見えないので大きさは分かりませんが、両心礎とも見事な舎利孔が穿孔されています。東塔跡には2ヶの、また西塔跡には15ヶの側柱礎石があるとされますが、これは東塔を除いて、素人では見つけることはできません。また金堂跡も素人では特定は難しいようです。なお西塔跡では布目瓦の散乱も観察されます。また時代は分かりませんが、両塔の土壇を廻って2辺の築地の跡がかなり明瞭に残っています。

過去の訪問塔婆履歴