過去に訪問した塔婆・ご提供画像(2001/10/20〜2001/12/22)

過去の訪問塔婆履歴

「X」氏は12月8.9日と下総、武蔵を廻られました。その中から私にとってはメジャーでない塔婆関係の画像のご提供をお願いしました。
2001/12/22
(X氏ご提供画像)
下総大報恩寺利生塔跡1
  同           2
鑑真和上の創建と伝えられる。その後真源(叡尊の弟子)が中興。
歴応4年(1341)足利義直が当寺に安国寺利生塔を建立。
利生塔は明治35年(1902)ころまで存在したと言われ、土壇と礎石が14個残されているようです。
また宝物館には利生塔模型が残されているようで、その模型によると塔婆は多宝塔のようです。
下総阿弥陀寺三重塔 1993年建立。千葉東霊園の阿弥陀寺の墓地の近くにあり、やや離れた場所に阿弥陀寺誉田御坊があるそうです。浄土真宗大谷派。木造・本瓦葺きの正規の塔婆のようです。
武蔵金乗院 平成11年、コンクリート製のようです。ご覧のように八角五重塔です。組物等も無くこれは正規の塔婆とは認めがたいので、その他の塔の塔婆に関する参考のページに掲載します。
2001/12/16 山城御香宮塔心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
以下の情報は「X」氏より頂きました。平成5,6年の京都新聞に掲載されたようです。
何度も御香宮には行きましたが、うかつにも、全く知りませんでした。
御香宮南門を入ってすぐ左(西)に「伏見義民碑」がある。この碑の据付石が、塔心礎からの転用であるようです。(古代学研究所<中京区>の江谷寛教授) 石の柱穴の大きさや周囲の出土遺物の年代などから、江谷教授は「紀伊寺の心礎」と推定されている。
据付石は長径2Mの自然石で、「中央に直径約80Cmの柱穴があり、碑が下部を削った上ではめ込まれている」とのことですが、現状は碑がセメントで嵌め込まれていて「柱穴」は分かりません。ただし心柱の湿気を抜いたと見られる溝(一筋、幅3Cm、深さ1Cm)は明瞭に見て取れます。
紀伊寺:「広隆寺来由記」などの古文書に、紀氏の氏寺とみられる紀伊寺が、7世紀に建立されたとの記述があるようです。この寺の跡地は特定できていないようですが、これまでの調査で、碑の周囲をはじめ神社近辺から、飛鳥時代〜平安後期の軒丸瓦や遺構の一部などが出土していることから、このあたりが紀伊寺とも推定できるようです。
なお「伏見義民碑」が建立されたのは、明治19年のようです。
山城教王護国寺五重塔10
  同           11
  同           12
  同           13
  同           14
  同           15
  同           16
  同           17
  同           18

  同        金堂19
  同           20
今回の撮影画像です。
前回の撮影画像に追加します。
なお 前回撮影画像は全部入替をしています。
2001/12/09 近江高木師邸
山城清水寺三重小塔

近江高木師邸
山城教王護国寺五重小塔

近江高木師邸
近江新善光寺塔婆絵図

詳しい情報及び画像は宮大工・棟梁高木敏雄師のページをご覧ください。

2001年12月9日棟梁高木敏雄師邸を訪問させていただきました。
山城清水寺小塔:2001年8月に完工。
実物の三十分の一小塔。高さ約1M。約3000の部材で作成。木造・彩色なし。
山城教王護国寺小塔:1996年5月から3年4ヶ月をかけて完成。
 1.初重柱間 31.6糎(cm)
 2.基壇一辺 60.0
 3.同上高さ 4.1
 4.塔高さ 182.8(基檀高を含まず)
使用木材:尾州桧(最上木曽桧)、屋根:同左材(本瓦葺)、相輪:同左材
なお寛永18年(1641)に高木氏2代目作右衛門光喜氏が東寺の五重塔再興に参加。
近江新善光寺絵図:今は取り壊されてありません。
この塔婆は高木敏雄師の曽祖父光義師が明治26年(1893)に手がけた塔婆です。そのため関係の絵図面が保存されています。今後はこの新善光寺塔婆模型に取りかかられるそうです。

近江園城寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
今回の撮影画像です。
前回の撮影画像と入替をします。

金堂 1  金堂 2  金堂斗栱1  金堂斗栱2

近江常楽寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
今回の撮影画像です。
前回の撮影画像と入替をします。

本堂 1  本堂 2  本堂 3

昨年もそうでしたが、現在も境内地を(おそらく行政が)整備中のようです。整備することによって景観を壊しているようです。お金を使うなら、自然の景観はそのままにして、例えば仁王門を修理するとかに使う方が後世の為と思いますが。

2001/12/08
(X氏ご提供画像)
筑後長円寺1
  同    2
「X」氏より左記の画像を頂きました。通常では考えられない(伝統的ではない)建築で意表を疲れました。五重塔とは認めがたいので、塔婆に関する参考のページに分類します。なお長円寺及びこの建築について詳細は全く把握できていません。
2001/12/03 日本の塔婆→文献上の塔婆のページを参照ください。 文化元年刊 「播磨名所巡覧圖會」秦(村上)石田編著・中江藍江画
貞享2年(1685)刊「有馬山温泉小鑑」 編者・画師不詳。
嘉永4年(1851)述作・明治27年刊「淡路國名所圖會」木村明啓(暁鐘成)編著、画工松川半山
より画像・情報を追加。(文献上んぽ塔婆のペー)
2001/11/18 近江桑実寺

詳細は「近江桑実寺」のページをご覧下さい。
桑実寺には、明治初期まで三重塔が存在しました。
・桑実寺縁起絵巻(桑実寺蔵・重文)に見る三重塔。
桑実寺伽藍図(下巻第2段の部分) 同左桑実寺三重塔部分図 
上巻第1段の伽藍図(部分)  同左三重塔部分図・・・桑実寺の説明では上巻の伽藍は観音正寺ということです。
・木曽路名所図会(もしくは近江名所図会)の桑実寺境内図  桑実寺伽藍図  同部分図
・塔跡想定地:大師堂前付近のブッシュの中  大師堂のある平坦地。大師堂その2
再建予定塔婆の復元図
三重塔の本尊大日如来
・塔柱の一部が保存されています。塔柱1  塔柱2  塔柱3  塔柱4
・本堂(南北朝期・桁行5間梁間5間・桧皮葺き・重文)
 本堂正面  本堂側面  本堂蟇股  本堂扁額
・塔頭正寿院

近江總見寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同    仁王門
今回の撮影画像です。
前回の撮影画像と入替をします。
近江瀬田廃寺塔跡1
  同        2
  同        3
瀬田川の東岸(石山寺の対岸)をやや入った舌状台地上にある。寺域は名神高速道等で破壊されているが、塔跡は原位置で保存されています。奇妙なことに礎石は心礎と4ヶの隅の柱礎石しか発掘されず、きわめて異例な塔跡のようです。5ヶとも枘穴が穿孔されていますが、心礎の枘穴のみ径が小さいようです。発掘調査の結果四天王寺式伽藍配置であったようで、近江国分寺が甲賀寺から移され、延暦5年(785)に焼失するまで、近江国分寺であった可能性が高いと推測されています。焼失後は瀬田川西岸の国昌寺に移される。
2001/11/20
(X氏ご提供画像)
越前真光寺塔址1

  同       2

「X」氏より貴重な画像を頂戴しました。「X」氏は、多分2001年度の塔跡のビッグニュースと判断され、かつ埋め戻されるとの情報によって、即座に訪問され、雨中で撮影された画像のようです。
「X」氏の「愛着」に脱帽すると同時に、私の「お願い」に快く画像を提供をご提供下さった「ご好意」に感謝いたします。
「X」氏より2001年10月26日付け「福井放送記事」を送っていただきました。
以下は上記記事及び2000年10月27日付け朝日新聞(福井版)の要約です。
清水町の真光寺跡から、推定鎌倉時代建立の木造の五重塔の跡が、確認された。塔婆跡は本堂跡から南東に約20M離れた丘陵上にある石造塔跡で、地表の約70センチ下から、5.4M四方の基礎の部分が見つかり、中央からは心礎を発見。
心礎は約2M四方の正方形の石で、さらに心礎の周りには12本の柱を支えていた跡も出土した。
塔跡は、鎌倉時代に木造の五重塔を建て、室町時代に火災後、跡地に高さ約4Mの石造塔を建てたとみられる。通常心礎は三重塔には見られないため、五重塔の跡と判断され、高さは20Mくらいあったものとみられている。
また心礎の周囲からは焦げた土や笏谷石が見つかっており、木造の五重塔が焼けたあとに、高さおよそ4Mの石の塔が建てられたものと推定されている。

なお「X」氏情報(清水町教育委員会)によると、すぐ心礎は埋め戻されるとのことです。
読売ランド多宝塔 桃山期の建立か?と推定されている。この塔婆は元兵庫県鶴林寺の塔婆と伝えられ、五島慶太氏の所有となり、藤原銀次郎氏の手に移り、さらに昭和39年現在地に移建されたとされる。また元鶴林寺塔婆であるかどうかは現在も不明のようです。(日本塔総監)
個人的には今まで訪問は勿論写真も見たことが無く、どのような塔婆か大変気になっていました。そこでご無理をお願いして「X」氏より今般画像を頂戴しました。
読売ランド様からの情報:この多宝堂の現在の安置仏は鎌倉時代初期に桧材一本から彫り上げられ、高野山本願寺の本尊であった十一面観音像(別名苅萱観音)とのことです。これ以外にも「妙見菩薩像」「聖観世音菩薩像」(塔内安置仏かどうかは判然としません)などの重要文化財や、600年前の建築である「聖門」なども所有しているとのことです。
伊賀国分寺塔跡
  同  塔跡(推定)

現在土壇跡を残す。礎石は近世上野城築城他に転用されたとされる。
「X」氏の情報によると、国分寺跡の現状は、野原の中に土壇が認められ、金堂跡とか講堂跡とかは看板で表示されているようです。塔跡の看板は中門の西南方と東北方(こちらは塔跡推定のようです)に2ヶ所あるようです。「X」氏は、「発掘調査の結果、時期の異なる創建塔と再建塔の遺跡ということを期待して」いるとの感想で、この点については、別に根拠があるわけではありませんが、同感です。

2001/11/19 日本の塔婆→文献上の塔婆のページを参照ください。 紀伊國名所圖會(三編:天保9年刊、後編:嘉永4年刊、熊野編:昭和12〜18年刊)
より画像・記事を追加。
2001/11/03 播磨奥山寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同   参道・塔頭
  同    仁王門
宝永6年(1709)建立。本瓦葺。2001年に修理が終わったばかりのようで、丹塗りも鮮やかに当初の姿を取り戻したようです。和様の伝統を踏まえた、標準的な規模の塔です。
内部には禅宗様の須弥壇を置き、五仏を安置する。下層は一辺が4.6mで中央間を14支・両脇間を10支に割り付ける。上層は下層の中央間よりやや大きく、径2.3mとしており、下層に比して上層の立ち上がりが低いため、強い安定感を持つ秀作の塔婆です。平成13年兵庫県県文に指定。なお次のことが判明している。露盤と鬼瓦に宝永6年(1709)の刻銘がある。大工は大工村神田作左衛門である(下層板壁の墨書)。瓦は姫路の河上孫兵衛重次作である(鬼瓦銘)。
当寺は貞享4年(1687)の奥山寺縁起によると、法道仙人の開基で孝徳天皇の時代に伽藍が創建されたと伝える。高野山真言宗。今なお環境抜群の地に立地し、南面する仁王門から参道の両側に塔頭跡及び塔頭が並ぶ。参道の最奥に急な150段の石段が立上り、本堂に至る。多宝塔は、さらに、本堂左の50数段石段上の平坦地に建つ。寛保2年(1742)寺中7、寺中人数23、明治5年寺中3、寺中人数10とされる。
播磨朝光寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同     本堂1
  同        2
  同        3
  同      鐘楼
  同 ツクバネの瀧
慶長6年(1601)建立。宝永7年(1710)改造とされる。山門の正面が本堂で右奥に鐘楼、塔は山門の右に建つ。新材が目立つとはいえ、圧倒的な本堂の存在感の前でこの中型塔は、残念ながら、損な役回りのようです。なんとなく凡庸とした印象です。
鹿野山と号する。高野山真言宗。現在は吉祥院・総持院で維持されているようです。法道上人が白雉2年(651)開創したと伝える。現在地には後の権現山から文治5年(1189)移転したとされる。
本堂(国宝)は室町期(内陣厨子は応永20年の銘がある)の桁行7間梁間7間単層寄棟造本瓦葺の大堂です。和様に唐様を取り入れた折衷様の密教本堂の典型として貴重な遺構とされる。(正面向拝は文政12年の後補)。鐘楼は鎌倉後期の様式を残すとされ重文指定。
なお「ツクバネの滝」は山門前にあり、ほぼ平地にある瀧で、珍しいものと思います。
播磨東光寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同     本堂1
  同        2
室町時代建立。江戸時代大改造。大正初期の大修理で下層の一部・柱・縁廻りを補修、上層の屋根を鉄板で仮葺き。軸部・斗?部・相輪及び建具・須弥壇は創建当時の遺構とされる。塔は本堂右裏手の丘の中腹に建つ。
当寺は行基菩薩の開山とされ、真言宗。かっては東西12町、南北11町の寺域に地蔵院を初め7院・多聞坊をはじめ12坊があり、門前村を有した。地蔵院は現本坊のようです。
なお本堂(室町・重文)は桁行5間・梁間5間の一重・寄棟造・本瓦葺の和様を主体とした折衷様の貴重な遺構とされる。
播磨清水寺大塔跡1
  同        2
  同        3
  同        4
  同     大講堂
大正12年再建。昭和40年の台風で大破・倒壊。再建計画はあるようですが、残念ながら、いまだ再建に至らず。塔址は根本中堂右側奥(北東)に、いささか荒れてはいますが、ニ重基壇と礎石をほぼ残しています。「日本の塔総観」によると、一辺12,82M、高さ36.4Mくらいとされている。
この数字で比較すると、高野山西塔を一回り大きく・高くした規模であったようです。
当寺は御嶽山の山頂(600M位)付近にある。開基は法道上人と伝える。中世には天台の巨刹として武威を振るったこともあったようです。現在も山上に多くの坊舎の跡を認めることが出来ます。
明治以降も仁王門・講堂・根本中堂・大塔・護摩堂・法華堂等多くの伽藍があったようです。不幸にも大正二年(1913)年の火災でほぼ全山焼失したが、主要伽藍は大正年中にすぐに再建される。が、再び昭和40年の台風で大塔と仁王門が倒壊する。(仁王門は場所を替えて昭和55年再建)西国観音札所の25番札所であり、近年山麓から山頂まで登山道が完備し、多くの参拝者があるようです。ただし西国観音霊場中最も難所と言われた面影を味わえずに参拝できることは果たして良い事なのか悪いことなのか。
2001/11/10 日本の塔婆→文献上の塔婆のページを参照ください。 文化年間?「中国名所圖會」、天保7年(1836)序「厳島圖會」等より画像・記事を追加。
2001/11/02 日本の塔婆→文献上の塔婆のページを参照ください。 寛政9年(1797)刊「東海道名所圖會」及び文化2年(1805)刊「木曽路名所圖會」等より画像・記事を追加。
2001/10/28 普賢寺塔心礎1
  同     2
  同     3
  同     4
普賢寺現状
同志社大学の裏手南にあります。塔址は地祇神社の裏の丘の頂上にあります。頂上はかなりの平坦地で、あたりは布目瓦が散乱しています。塔心礎はそのブッシュの中にあります。創建から推測すると、まず平地伽藍を連想するわけですが、なぜ丘の頂上に塔婆が建立されていたのか疑問に思うところです。古代寺院風の伽藍は現在の観音堂中心であって、伽藍北西の丘上にも、五重塔等の諸堂宇があったようです。後世のものなのかどうかは分かりませんが、地祇神社裏の山中は諸堂宇が存在したと推定される平坦地が存在しています。
塔心礎4:心礎はブッシュの中にあります。写真中央のブッシュ中が心礎のあるところです。
2001/10/27 日本の塔婆→文献上の塔婆のページを参照ください。 享和元年刊「河内名所圖會」及び寛政7年刊「和泉名所圖會」等の塔婆図・記事を追加。
2001/10/24 日本の塔婆→文献上の塔婆のページを参照ください。 寛政年間刊「摂津名所圖會」等の塔婆関係図版・記事を追加。
2001/10/21 周防瑠璃光寺五重塔
(X氏ご提供画像)
嘉吉2年(1442)建立塔。大内文化の象徴と言われる五重塔。高さ31,2M。
香積寺の遺構とされる。香積寺は大内義弘の菩提寺で、塔は弟盛見が義弘の菩提と弔うため塔の建立を計画したとされる。慶長9年(1604)毛利輝元は当寺を解体し、萩に四本松邸として搬出し、跡地は瑠璃光寺となった。
瑠璃光寺は陶弘房のの菩提を弔うため仁保氏(弘房の妻)が建立した安養寺(文明3年<1471>)を源とする。後拡大の為寺地を替え、瑠璃光寺と号した。当時は曹洞宗薩摩石屋門派の巨刹として隆盛を誇った。元禄3年(1690)仁保の地から、香積寺跡に移転し、塔婆をj引き継ぐ。
周防閼伽井坊多宝塔
(X氏ご提供画像)
室町後期建立。今も花岡八幡宮の元の位置に建ち、明治維新前の姿を伝える貴重な例です。
花岡八幡宮:社伝によると和銅2年(709)宇佐八幡を勧進したと伝える。
慶長4年(1599)には地蔵院・楊林坊・常福坊・千手院・閼伽井坊・香禅寺・惣持坊・長福寺・関善坊の9坊が確認されている。江戸末期には地蔵院・閼伽井坊の2坊に減じ、地蔵院は明治2年に住僧の還俗により廃院となり、現在は閼伽井坊のみが現存。多宝塔は花岡八幡の楼門から本殿の参道右にあり、坊舎で唯一残った閼伽井坊の管理(所有)とされている。
安芸巌島神社五重塔
(X氏ご提供画像)
応永14年(1407)諸人(ほとんど女性)の勧進によって建立。天文2年(1533)大改修(露盤銘)。高さ27M。唐様を基調とした塔です。巌島神社背後東方の丘上に千畳敷(大経堂)と並んで立つ秀麗なかつ良く目立つ塔婆です。明治維新により安置仏・釈迦如来三尊は大願寺に移された。
安芸厳島神社多宝塔
(X氏ご提供画像)
大永3年(1523)建立。宝永3年九輪を再興。厳島神社社殿西方の丘の中腹・彌山の登山口にある。なお大願寺の現本尊は多宝塔本尊っであったと伝える。
紀伊高野山
竜光院瑜祇塔

(X氏ご提供画像)
2001年7月訪問時には、近づくことは出来ませんでした。今般X氏から10年以上前の訪問時に撮影した画像のご提供をいただきましたので、掲載させていただきます。
2001/10/20 日本の塔婆→文献上の塔婆のページを参照ください。 寛政3年刊大和名所圖會」、延宝3年版「南都名所集」、寛文11年「吉野山独案内」、江戸末期「吉野山名山図誌」、元治元年和州奈良之繪圖の塔婆関係図版・記事を追加。

過去の訪問塔婆履歴