過去に訪問した塔婆・ご提供画像(2001/2/22〜2001/5/25)

過去の訪問塔婆履歴

2001/05/25 山城本法寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
寛政年間(1789-1801)年代再建塔。京都旧市街で唯一現存する多宝塔。
本法寺は久遠成院日親上人が永享8年(1436)に創建。その後不受不施・折伏伝道の中心寺院として法華宗京洛21ヶ本山・法華宗京洛16ヶ本山(天文法華の乱後)の一つとして隆盛を極めた。幾多の変遷ののち、江戸期には受不施の立場に転じ、また伽藍は天明8年(1788)の大火で類焼した。本堂は寛政9年(1796)の再建と伝え、塔婆もその頃の再建と推定されている。
本法寺の詳細です。(「日蓮上人の正系」→「付録」→「京洛諸本山の現況」→「本法寺})
2001/05/20 河内金剛寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同      金堂1
  同      金堂2
  同      食堂
  同      楼門
平安期基承安3年(1173)頃建立され、慶長11年(1606)大改造されたとされる。大ぶりな塔婆で、軽快・洗練という印象はなく、重い感じを受けます。一層は一手先、上層は四手先。両層とも二重繁垂。桧皮葺き。きわめて太い相隣を上げる。
当寺は行基が創建と伝え、永万元年(1165)僧阿観が再興。承安年間八条女院(後白河上皇妹)の保護・寄進を受け隆盛に向かう。その後南北朝と深い関係を持ち、疲弊・焼亡する。後醍醐天皇の行宮所、後村上天皇行宮(摩尼院として現存)、北朝3上皇住居(観蔵院)。幾多の変遷ののち、その他多くの伽藍・什宝を今に伝える。
近世には豊臣秀頼が金堂・多宝塔・食堂・楼門等について原型を変えるような大修理及び現在みらるれるその他伽藍の大改造・新築を行う。寺一帯はかっては多数の院坊が建立されていたようです。建造物では金堂(鎌倉原型)、食堂(室町原型)、楼門(鎌倉原型)・鐘楼・御影堂その他が重文指定を受けています。
河内岩湧寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
江戸時代建立と推定されている。銅板葺き。近世風で小型塔であるが、自然条件的に不利な山中で頽転せず、良く保存されたものと感慨を覚えます。他に江戸初期本堂と本坊があります。文化庁「国宝・重要文化財大全」では建立を室町後期としている。
もとは天台宗であったが、現在はこの地方に多い融通念仏宗(明治22年改宗)。寺伝では役小角の創建と伝え、文武天皇の勅願寺であったとされる。紀伊と河内の国堺の岩湧山(897M)の北東中腹にあり、要するに葛城山系修験の霊場(行場)として維持管理されたものと推定される。巖湧とは山様が「岩湧く」であり、また法華経15品「湧出」品(山号は湧出山)に由来されると想像される。近年キャンプ場その他余計なものが行政?によって作られ、自然及び文化が破壊されているようです。蛇足ながら徒歩で参拝するなら、高野線天見から西方5-6KM(徒歩90分)がよいでしょう。岩湧山取付まで山中を舗装道が1本で通じ、その間数台の車が通行するだけで、自由に道を使えて、快適に歩けます。人には村人以外には出会うことはないようです?。
河内観心寺三重塔初層1
  同           2
  同           3
  同           4
  同         金堂1
  同            2
  同            3
  同            4
室町期文明年間(1469-86)建立。寺伝では楠木正成の建掛の塔(正成は湊川で1336年に戦死)とする。しかし永和4年(1378)賢耀の「観心寺参詣諸堂巡礼記」には「金堂(5間4面)の東に三重宝塔があり、破壊のあと之を作る」<要旨>との記載があるようです。近世の寛文9年(1669)の観心寺伽藍寺役僧坊法式控には「二重塔」(一重破壊、残る一重萱葺き)との表現があるそうで、建掛の塔という認識ではないようです。
現状一層の枓供までが残り(天井はない)、垂は竹で、屋根は茅葺で宝珠を乗せる姿です。大日如来を本尊とする。堂内四仏(弥勒・宝生・釈迦・薬師)重文は現在霊宝館安置。
当寺は役小角の開創、弘法大師が再興と伝える。南朝との係わり合いは太平記に譲って割愛。楠木家菩提寺(中院)。正成首塚。後村上天皇行宮。同檜尾陵・・・現存。
金堂(南北朝)が国宝。5間4面(桁行7間梁間7間)の大堂で和様を基調とした折衷様の中世の本堂として貴重な遺構とされる。本尊は国宝如意輪観音坐像です。南朝没後の勢力を維持し、観心寺伽藍寺役僧坊法式控には46坊舎及び各院支配の院坊が27見られるそうです。但し現在は主要伽藍及び仏像他什宝はよく維持されているが、院坊は多数の院坊跡と思われる跡地の残すのみで、現在2院のみが存続しているようです。
河内明王寺多宝塔1
  同        2
     (滝谷不動)
昭和59年建立。コンクリート製とはいえ、正統的な造りで好感が持てる塔です。塔は本堂等背後の山腹の斜面にあり、写真は上手に取れません。弘法大師1150年紀で、伽藍復興の一環として建立されたようです。明王寺は弘仁2年(811)弘法大師創建で、本尊不動明王は楠木正成の守護神といわれ、流行仏の様です。現在の伽藍そのものは近年復興されたようで、言ってしまえば各地にある「成田山別院」を想像していただければ・・・。
河内西淋寺塔婆跡1
  同        2
伽藍跡の現状は住宅密集地で、現西淋寺の小堂宇を残す。現山門の中左手に「巨大」な心礎(元位置ではない)のみを残す。目測高さ1.5M、正面2M強のとにかく「巨大」な心礎で五重塔心礎とされる。曽我稲目の配下の河内の文氏が建立した日本で最初期の寺院の一つとされているようで、発掘調査の結果、法起寺式伽藍配置が確認されている。
河内道明寺塔婆跡1
  同        2
土師寺五重塔礎石とされる巨大な心礎及び礎石(部分)です。南面する道明寺天満宮の正面道路沿い西に保存されている。元塔婆位置から若干西に移動されているようです。伽藍跡は住宅になっていて目に見えるものは他にはない。寺伝では推古2年(594)土師連八島が建立したと伝え、四天王寺式伽藍配置が確認されている。現伽藍は元域の北方に神仏分離により天満宮と道明寺(西方)として伽藍が維持され、信仰を集めているようです。
2001/05/04 播磨石峯寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同     薬師堂
現塔婆は室町期の文安〜応仁(1444〜68)頃の再建とされる。本堂右手の丘上に立ち、堂々たる風格の塔婆です。
法道上人の開基。太山寺と同様、限りなく摂津の国境に近い播磨の国の田舎に位置する。訪問時は開山1350周年記念で塔が開扉されていた。仁王門から本堂までの地形は明らかに多数の院坊がかって存在したことを思わせるが、現在は十輪院・竹林寺・極楽寺の3坊で維持されているようです。
内部は朱塗りの四天柱と来迎壁があり、大日如来を安置するようです。
薬師堂は室町期の正面5間の堂で、重文指定です。
攝津蓮華寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
明和2年(1765)再建、作事は鴻池組。江戸の中期の再建ではあるが、均整のとれた美しい多宝塔です。近年桧皮が葺き替えられたようで、屋根の線も流麗です。
法道上人開基とされる。1970年代の台風で多宝塔下の平地にあった本堂は倒壊したようで、塔のみ山の中腹に独立して建っている。かっては源満仲の崇敬を受け、幾多の坊舎があり相当繁栄したと伝える。荒木村重の兵火で焼亡、豊臣秀頼のより再興するも、宝暦の失火で仁王門を除き古い建造物は残っていないようです。
摂津鏑射寺三重塔1
  同        2
  同        3
昭和47年建立。昭和の新造塔ですが、本格的な和様の塔婆建築です。後世まで残って欲しい塔婆です。鏑射山のほぼ山頂近くに位置する。兵庫の塔では比較的訪問しやすい場所にあります。聖徳太子の開基とされるが、幕末の兵火で廃寺となる。昭和35年現住の力で再興され、境内伽藍は今日も整備され続けているようです。
摂津神呪寺多宝塔1
  同        2
  同        3
昭和55年建立。総檜・彩色。高さ12M・一辺3.1M。天長8年(831)に淳和天皇妃(如意尼)の発願で弘法大師が開創したと伝える。甲山大師の名でしられ、今なお多くの信仰を集めているようです。甲山の中腹に位置する。今回約40年ぶり位で再訪しました。
摂津鷲林寺多宝塔1
  同        2
総欅・素木。鉄筋コンクリート製の箱型の位牌堂の上に建立されている。ちょうど位牌堂が基檀を兼ねている構造です。
当寺は弘法大師の開基と伝え(古義真言宗)中世には76ヶ坊を持つ大寺院となった。天正7年(1580)荒木村重方の足利義親・赤松氏等がこの一帯に陣を構え、織田信長と合戦し、信長に焼き払われたとされる。敗戦後は小規模の堂(観音堂)が存続するのみとなった。かっての院坊あとは開発が間近までせまってきているが、深い林の中に眠っているようです。(今のところキリスト教会等の私有地のようですが)
2001/04/29 摂津須磨寺三重塔1

  同        2

昭和59年(1984)建立。1辺4M高さ25M、木造朱塗り、銅板葺き。
弘法大師1140年遠忌、須磨寺開創1100年、平敦盛800年遠忌を記念。(旧塔は四百年前の文禄大地震の際に倒壊との由。)燈身が細く違和観が有る塔婆です。
真言宗須磨派大本山と称する。仁和2年(886) 開祖聞鏡上人、光孝天皇の勅命により上野山福祥寺を建立。以降源平の一の谷の合戦を始めとする戦乱・天災で数次の消滅・再建を繰り返す。現在の伽藍の基礎は慶長7年(1602) 豊臣秀頼により再興。慶長期には、花巌院、宝生坊、正堂坊、大聖院など15の塔頭があった。現在は桜壽院・蓮生院・正覚院の3院で管理されているようです。
摂津綱敷天満宮三重塔
(参考資料)
遷座1000年記念塔として昭和51年(1976)建立のようで、高さはおそらく3M前後のコンクリート製?の見るに耐えない粗悪なものです。中に入ることが出来ない模型ということとあわせて、三重塔一覧から削除します。写真はご参考までにという意味で掲載します。
播磨太山寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同      本堂1
  同         2
  同         3
  同   仁王門組物
江戸貞亨5年(1688)再建。本瓦葺き。初層には大日如来・四天王を安置。四天柱と来迎壁には蒔絵を施す。
霊亀2年(719)定恵上人が創建と伝え、皇室の崇敬も厚く、大伽藍が造営されたようです。南北朝期には僧兵も養い。41ヶ院坊が存在したようです。現在は龍象院・成就院・遍照院・安養院・歓喜院の5ヶ坊で維持されています。
本堂(鎌倉)は永仁年間(1293-99)の再建とされ、桁行7間・梁間6間銅板葺きの堂々たる大堂で国宝指定です。初期密教本堂の遺構として大変貴重なものです。その他仁王門(重文)等多くの堂宇が存在し、また建築以外に多くの重文の什宝を所有しています。
なお仁王門は解体修理の結果、楼門であったことが判明し、仁王門にその当初の軒組物の復元(部分)模型を置いています。(その写真です)
播磨如意寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同     常行堂
  同     文殊堂
  同     平面図
南北朝期至徳2年(1385)建立。高さ21.3M、一辺3.8M。本瓦葺き。三重塔では15番目の古塔です。
寺は大化元年(645)法道上人開基と伝える。天台宗。塔の他、阿弥陀堂(常行堂)、文殊堂が重文指定を受け、谷合いの樹林の中に厳然と存在している。近年の西神ニュータウンの開発が寺の3方で行われていて、この一角は自然のまま残されるようです。そう願う。
播磨名所巡覧図会では本堂は描かれていますが、おそらく近年?本堂は退転したようです。
摂津本法寺多宝塔 昭和48年(1973)建立。鉄筋コンクリート製。本法寺は本門佛立宗寺院。塔は今次の大震災で傾いたが、修復した由。
摂津六条八幡宮三重塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同      元仏堂(推定)
文正元年(1466)建立。本殿向かって右に南面して3面を木立に囲まれて立つ。総高13.2M。当八幡宮は六甲山裏西北の谷合いに位置する。
長徳元年(995)基灯法師が円融寺を創建し、保安4年(1123)源為義が当地の領主となり、京六条の若宮八幡を勧進したと伝える。ひっそりとした山里でかつ地元の崇敬が厚かったためか、明治の廃仏毀釈の難を逃れて神社に現存。最近神戸の開発は2KM手前まで迫っているが、いつまでも存続して欲しい環境と塔婆です。神社そのものは郷社と言った趣でさっぱりとしていて、本殿向かって左に薬師堂<図5>と思われる堂(現在は物置のようです)も残っています。円融寺は廃絶したようです。
摂津徳光院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
室町期文明10年(1478)建立。元垂水の明王寺塔で明治末に川崎家の所有になり、昭和13年徳光院に寄進・移建。寺自体は明治38年に創建された禅寺(臨済宗)のようです。
有名な布引の滝がすぐ近くにあります。
摂津霊法会多宝塔1

  同        2

昭和57年建立。総檜造とのこと。かなりの大型塔のようです。ですが塔婆・霊法会とも、実態は判然としません。
塔は神戸岡本の天王山の山頂近くに存在します。阪急電車の御影を過ぎて岡本に入る間に見ることが出来ます。(JRからも見えると思います。)
甲南大学(理学部)のすぐ北東側、かつて二楽荘へ登る施設のケーブルカーが出ていたと思われるあたりに教団の詰所とゲートがあって、おそらく信徒と思われる複数の若い人に入山を拒否されます。
以下は詰所の若い人との会話から:「一般信徒も通常入れません」「ご奉仕様(高級信徒のようです)だけ入山できます」「正月3三が日には一般信徒も登山できます」「それ以外の方はちょっと・・・一般の方が入山などはとんでもない」「先代の教祖様の舎利が塔にはお祭りしています」「落慶は昭和57年11月1日です」「霊法会は霊友会から戦後分派した教団です」云々。質問には丁重にかなり正確に答えてはくれますが・・・。
以上から「日蓮宗系の新宗教」に多少知識のある人はおおむね霊法会の教義・性格の推測はつくでしょう。
という訳で、写真は麓(甲南大学理学部前)から撮ったものです。望遠はありませんので、辛うじて識別できるものです。(1の写真の赤丸の中です、左が甲南大学理学部のビルです。肉眼ではもっと良く見えますが)。2の写真は1の200%です。
2001/04/28 比叡山法華総持院東塔1
  同           2
  同           3
比叡山東堂根本中堂1
  同          2
  同          3
比叡山西塔釈迦堂
法華総持院東塔:昭和55年に元亀2年(1571)焼失以来400年ぶりに再興。形式は木造二重方型大塔。多宝塔ではありませんが・・・中世には日本の政治及び宗教に多大な影響力をもった、比叡山の層塔と言うことで・・・収録。佐川急便はじめ信徒の寄付で法華総持院として復興。
東塔根本中堂:寛永19年(1642)再建。国宝。桁行11間梁間6間・単層・入母屋造・銅板葺・前面左右に回廊を付設。比叡山一山の根本中堂。大変深遠な大堂です。
西塔釈迦堂:南北朝期・重文。転法輪堂。桁行7間梁間8間・単層・入母屋造・銅板葺で西塔の中心をなす堂です。元園城寺の金堂で秀吉の命で移築。
比叡山横川多宝塔1
  同        2
  同   横川中堂
大正14年建立。根本如意塔と称する。山口玄洞氏寄進。再建された横川中堂のすぐ北方尾根上の中腹にある。天長年間、円仁が三昧を行い、如法写経を始めたところと伝え、長元4年(1031)円仁書写の如法経を埋葬した地と伝える。
横川中堂:横川の中心をなす堂で、昭和16年雷火で焼失。昭和46年再建。鉄筋コンクリート。
2001/04/15 山城・善峯寺多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
元和7年(1621)賢弘法師再建塔。西国観音弟20番札所。
西山の山腹にある。長元3年(1030)年源算上人の開創と伝える。法親王が歴代入山し、また浄土宗西山派の道場として隆盛を極めたが(現在は叡山派)、応仁の乱で消亡した。
近世徳川桂昌院によってほぼ現在の堂宇が再建され、やや旧観に復した。
訪問時は観光バス・車がたくさん来ていて、物見遊山の人並みで溢れ、昔の静寂さはなく、面食らった。(春たけなかの日曜日からかも知れません。)
山城・離宮八幡多宝塔跡1
  同            2
山崎全図(都名所圖會)
同図中の離宮八幡宮
  同  離宮八幡拡大図
ここには、元治元年(1864)の禁門の変で焼失した多宝塔が存在した。その跡は珍しく、現在も礎石をほぼ完全に残している。
貞観元年(895)僧行教は宇佐八幡神をこの地に勧進し、翌年男山に遷宮したと伝え、そのゆかりで社殿を造営し離宮八幡宮と号したと伝える。その後朝野の信仰厚く、また全国油座の頭として油の製造販売権を独占したため、繁栄を極めたが、元治の変(禁門の変)で長州藩の本営が置かれ、そのため全焼した。また明治8年東海道線の敷設で境内地の北半分を喪失した。
多宝塔跡1:西側から撮影、塔跡2;東北から撮影、山崎全図;都名所圖會の山崎図の部分図、離宮八幡宮:同左の離宮八幡全体図、八幡拡大図:かって存在した多宝塔部分の拡大図。
山城・離宮八幡塔心礎1
  同          2
離宮八幡門前のカシキ石
(都名所圖會)
元この地にあった相応寺(貞観年中僧壱演が創建)の塔婆(三重塔)心礎と伝える。また様式からみて、山崎院五重塔心礎を相応寺に転用したものと推定もされている。高さ約1M、幅2M強の心礎で、心柱の円形の彫りこみに、後世に扇形の彫りこみがなされたようです。
別名「カシキ石」とよばれ、都名所圖會では門前に置かれている様子が描かれている。現在は図の門の中に入り、左手に置かれている。
山城・宝積寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
江戸期の宝積寺(都名所圖會)
慶長9年(1604)頃建立。
聖武天皇の発願により行基が開創した山崎院の跡と継ぐとされている。中世には多くの塔中・子院を有する大寺となったが、戦乱で漸次衰微した。
現在は天王山麓に塔・仁王門・本堂・小槌宮(宝寺といわれる)・閻魔堂等を有するにすぎない。また寺院経営?のため?とはいえ、三重塔周りの院坊跡と思われる区画一帯が石材屋と組んで、墓地として、一面が分譲済み・あるいは分譲中なのは、いただけない。
江戸期の宝積寺:山崎全図(都名所圖會)中の宝積寺の部分図です。
2001/04/08 山城・神護寺多宝塔1
  同         2
  同         3
昭和8年建立。現在の金堂とともに山口玄洞氏の寄進による。多宝塔安置仏は有名な五大虚空蔵坐像(国宝)です。ちなみに金堂本尊もあの有名な薬師如来立像(国宝)です。
一辺6.18Mの大型塔で、かつ非常に写真の撮りにくい塔婆です。
4月8日桜の頃・日曜日・晴天にも係わらず、紅葉の頃の雑踏に比べて以外に人影は疎らで、すがすがしいものでした。教訓:紅葉の頃、高雄・栂尾・槙尾方面は避けるべきです。
2001/04/02 山城・泉橋寺塔婆心礎 かって存在した泉橋寺塔婆心礎は現在は現地には無いようです。土地の人にも聞きましたが、聞いた範囲では心礎のことは誰も知りませんでした。
泉橋寺様に立ち寄らせていただきました。突然の訪問にも関わらず、色々お教しえていただき、また泉橋寺様関係の大変貴重な古い写真・図版・書籍等のコピーを10数枚頂戴しました。さらにホームページでの公開も許諾頂きました。大変感謝いたします。
その他の泉橋寺情報はこちら。
なおHP更新後、泉橋寺様から郵送にて、追加の関連資料を頂戴しました。
その資料を生かす意味でその他の泉橋寺情報に一部追加及び修正を致しました。(4/6)
山城・高麗寺塔婆心礎 心礎の横にあいている穴は舎利孔です。
2001/04/01 群馬・柳澤寺五重塔 2000/12/09柳澤寺様から画像使用許諾をいただきました。厚くお礼申し上げます。
天台宗比叡山延暦寺に属する。本尊は千手観音。近世、山子田村に30石の寺領があった。
現在、本堂(観音堂)・客殿・鐘楼・仁王門・表門・山王堂・書院・阿弥陀堂・五重塔等を配する。詳しくは柳澤寺様ホームページをご覧下さい。
寺伝では弘仁年間(810-824)最澄が東国布教の際、群馬太輔満行の協力を得て、船尾山麓に楊澤寺を建立したのが始まりと伝える。千葉常将の兵乱で焼失もあったが、中世には談義所も置かれ、この地方の天台宗の中では枢要な寺院であった。
近世に入っても叡山の直末として栄え、天明6年(1786)の末寺書上では15ヶ寺を数えた。今般五重塔も落慶(2000年3月入仏供養)された由、今後のますますのご発展を念願いたします。
(平凡社刊「日本歴史地名体系10・群馬県の地名」から要約。)
2001/03/24 大和・靈山寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同    (本堂)  1
  同          2
  同          3
  同          4
鎌倉中期の建立と推定される。三重塔では10指に入る古塔です。総高17M強の小型塔ですが、その姿は凛とした美しいものです。
なお初層内部全面に巨勢金岡筆とされる極彩色の壁画があることで有名です。
靈山寺は天平8年(736)聖武天皇の勅命により、行基が伽藍を建立。印度婆羅門僧菩提僊那は地相が印度霊鷲山に似ているとして霊山寺と名づけたと伝える。鎌倉時代に復興し、本堂は鎌倉中期・弘安6年(1383)改築で桁行5間梁間6間・本瓦葺の堂々とした堂で国宝に指定されている。その他室町期の鐘楼等の古建築を残している。
江戸期には21ヶ坊を数えたが、明治の廃仏毀釈で伽藍の規模半減した。近年金ぴかの堂・白金堂・・あるいはバラ園等も出来、企業経営的なようで、せっかくの鎌倉期の古建築がありながら、この姿勢は好きになれません。
大和・長弓寺三重塔跡1
  同          2
  同          3
  同  (本堂)    1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
かってここには「三重塔」が存在しました。塔の2・3層は早くから失われていて、初層だけ残っていましたが、昭和11年寺を出て転々として、現在は東京高輪プリンスホテルに移築されている由です。古代の塔婆と違って心柱は一層には降りてなかったようで、心礎は在りません。
写真三重塔跡3:正面建物(薬師院)の中央背後と後の丘の間に塔跡があります。
長弓寺もかっては隆盛を極めたようで、現在も鎌倉期(弘安2年<1279>再建の桁行5間梁間6間・正面1間は向拝付き・桧皮葺の優美かつ堂々とした本堂が残されています。(国宝)富雄川の上流の山里に位置し、宅地開発が進む中、今なおひっそりとたたずんでいます。かっては20坊あったと伝えられるも、現在は山内の4院(薬師院・円生院・法華院・宝光院)で管理されています。
大和・薬師寺東西塔
大和・薬師寺三重塔(東塔)1
  同             2
  同             3
  同             4
  同             5
  同             6
  同             7
  同 (九輪)        9
大和・薬師寺三重塔(西塔)1
  同             2
  同             3
  同             4
大和・薬師寺(東院堂)
  同     (金堂)
東塔は天平2年(730)建立塔とされる。飛鳥・本薬師寺跡には東西両塔の基壇・礎石が現存している。
西塔は室町後期亨緑元年(1528)兵火で焼失。昭和56年再建塔。

なかなか素人では上手く写真が撮れません。

近年当寺は企業化?が進み、せっかくの天平の塔婆・仏像等々が泣いているようです。
このままでは、2度と行きたくない寺院の一つになるでしょう。

東院堂は鎌倉・弘安8年(1285)の再建で、桁行7間梁間4間の国宝建築です。
金堂は昭和再建堂。

2001/03/18 山城・下醍醐寺五重塔1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
  同          6
  同          7
  同          8
  同          9
  同       金堂1
  同          2
  同          3
  同   三宝院勅使門
五重塔:天歴6年(931)落慶供養。平安期の五重塔で現存する貴重な遺構。全高36M。
この塔の姿と木組みは何度訪れても感動する。現存塔のうちでもっともバランスのとれた塔と評価されている。多数の国宝・重要文化財を有する醍醐寺の中で、上醍醐寺の薬師堂(今回は山上には上らなかったが・・・国宝)とともに創建時を偲ぶことの出来る貴重な遺構です。
金堂(国宝):慶長3年豊臣秀吉が再興を命じ、紀伊湯浅の満願寺本堂を移築したもので、醍醐寺本来の伝来ではないが、平安期後期の雄大な堂である。梁行7間梁間5間の大堂です。
三宝院勅使門:三宝院は醍醐寺頭塔の一つで、数多くの国宝・重文の桃山期の建築を残す。勅使門もその一つで国宝です。
醍醐寺は貞観年中に理源大師・聖宝によって創建されたと伝えられる。幾多の興亡を経て、明治維新で子院の大部が廃絶したが、現在も山上山下に多数の伽藍が存在し壮観である。
山城・安祥寺多宝塔跡1(境内)
  同          2
(門前
  同          3
(江戸期)
藤原順子の発願により建立され、定額寺に列せられた。往時寺域は背後の安祥寺山(上寺)を含め、今のJR山科駅を中心とした東西10町、南北15町に及ぶ広大なものであったようです。現在はわずかな堂宇を残すのみです。かって存在した多宝塔は宝暦9年(1759)建立で明治39年(1906)焼失。この多宝塔の本尊は京都博物館に寄託されている五智如来です。多宝塔跡は基壇と石階を残すようですが、境内は厳重に金網で囲われ、何人も寄せ付けないようで、現状は確認できませんでした。
写真1(境内):左の参道奥の建物が本堂でその右の木立の中がかっての多宝塔跡です。
写真2(門前):右の門は本坊入り口の門で、ご覧のように金網で境内には1歩も入れません。写真1はこの金網越しに撮ったものです。
写真3(江戸期):都名所図会に描かれた安祥寺多宝塔です。(部分)
山城・法琳寺跡1(石柱)
  同      2(想定地)
北小栗栖の西方の山腹にあり。この付近のみ住宅化から取り残されて田園風景を残している。天智天皇の代、藤原鎌足の長子・定恵が建立したと伝える。江戸期には若干の堂宇が在ったと伝えるも、早くから廃絶した様です。三重塔・弥勒堂・薬師堂等の伽藍があったといわれる。現状は伽藍地と思われる平坦地は竹林(竹の子畑)・雑木林となり往時を偲ぶものはない。近年建立した法琳寺跡の石柱がわずかにその地を指し示すだけです。
2001/02/22 大和・吉田寺多宝塔1
  同         2
  同         3
室町期寛正4年(1463)建立。心柱墨書銘による。
一辺3.12M、高さ12Mの小型塔であるが、非常に端正な多宝塔であろう。
当寺は「ぽっくり寺」として有名。
大和・法隆寺五重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
五重塔は金堂等とともに世界最古の木造建造物とされる。
他の諸大寺(元興寺・大安寺・西大寺・東大寺・興福寺・薬師寺等)が興亡を繰返しまた消滅して行った中で、今なお貴重な伽藍が今日数多く伝えられています。
なお、東院伽藍四脚門<東大門の突き当たり>手前の善住院跡<南側>と福園院との間の院坊跡の塀内に旧富貴寺塔残欠(三重塔初層)が保存されているが、非公開のため、一般人は近寄ることは出来ない。(下記大和・旧富貴寺三重塔初層を参照)
さらに西院伽藍から東大門に至る南側院坊の塀内には、若草伽藍跡が存在しているが、これは全く垣間見ることさえ出来ない。
大和・旧富貴寺三重塔初層1

  同             2

  同             3

元大和富貴寺塔。平安期中期の古材を残すと言われています。2、3層は早くから失われていたようです。老朽化のため昭和9年解体、昭和46年法隆寺に寄進されて再建。同時に重文指定。但し公開されていないため、一般人は拝観することは出来ない。解体の後、富貴寺には塔跡に単層の塔堂が建立されたようです。(下記大和・富貴寺塔堂を参照)
法隆寺境内の外の柵越か(遠い)、生垣の隙間越か、東院にいたる院坊の塀越(組み物から上部のみしか見えない)で垣間見ることができます。という訳で写真も上手く撮ることは出来ません。
大和・松尾寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4(本堂)
明治21年再建。承和5年(838)創建という塔婆は中世に廃絶、慶安2年(1649)後水尾天皇が再興、おそらく老朽化のため明治になって建てなしたものと伝える。
本堂は南北朝期の建立で重文。
大和・法淋寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
日本最古の三重塔は昭和19年落雷により焼失。昭和50年再建塔。
大和・法起寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
天武13年(685)発願・慶雲3年(706)建立の創建時塔婆と伝える。
宝淋寺塔場が焼失したのち、唯一現存する飛鳥時代の三重塔です。
大和・中宮寺跡 中宮寺跡は現中宮寺の東方約500Mの地点に史跡としてある。
大和・富貴寺塔堂1
  同        2(本堂)
平安期中期の古材を残すと言われている三重塔初層は、老朽化のため昭和9年解体、昭和46年法隆寺に寄進されて再建されました(同時に重文指定)。解体の後、富貴寺には塔跡に塔堂が建立されたようです。
大和・常念寺三重塔 ご覧のとうり最悪です。本来は無視すべきでしょうが、三重塔の所在として取り上げられていますので、まだ見ぬ人々のために・・・。納骨堂として建立されたようです。
山城・高麗寺塔婆跡1
  同         2
  同         3
山城町上狛に金堂・塔等の土壇・礎石を残し、また字名にその「高麗寺」という古代寺院名を残す珍しいケースです。日本最古といわれる飛鳥寺と同じ瓦を出土。法起寺式伽藍配置を持ち、白鳳時代に本格整備され、平安期まで存続したようです。
付けたり 山城・泉橋寺塔婆跡 今回は成果無し。「新撰京都名所圖会」5巻昭和33年〜40年:竹村俊則著、中に「畑中に塔心礎が残存している」記述がある。今回は見当はずれの所を探したようです。後日再チャレンジ予定。

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