河  内  飛  鳥  寺  跡

河内飛鳥寺跡及び河内飛鳥寺心礎

河内飛鳥寺心礎<名古屋城内織部堂前>

河内飛鳥寺心礎は、昭和9年南河内郡駒ヶ谷村飛鳥で唐突に?発見?され、翌年以降昭和14年頃までには売却され、名古屋の高松静雄氏邸に移動→その後、名古屋市に寄贈され、名古屋城織部堂(茶室)前に移動 して現存する。
○「日本の木造塔跡」
羽曳野市駒ヶ谷(旧南河内村)飛鳥西の寺の小池の畦から昭和初期に発掘されたという。
心礎の大きさは2,8m×1,77mで径102cm深34cmの柱孔を持つ、柱孔に径20cm深2.2cmの蓋受孔、径16cm深15cmの舎利孔、さらに4段目の孔として径14cm深4cmの孔(脱湿孔)を持つという。
○河内飛鳥寺心礎現況:
 □河内飛鳥廃寺心礎1     河内飛鳥廃寺心礎2     河内飛鳥廃寺心礎3     河内飛鳥廃寺心礎4
悲しいかな、この心礎はあくまで蹲としての扱いで、かつ紹介が無ければ非公開とされ、通常ではこの大型心礎そのもの及びその構造を観察することは出来ない。要するに心礎としての価値などほとんど認められていないというのが現状である。

河内飛鳥寺跡

2010/10/21追加:
○「南河内郡駒ヶ谷村飛鳥の塔心礎」隼水(「大阪府の史蹟と名勝 11」史跡名勝天然記念物保存協会大阪支部、昭和10年 所収) より
 昨春南河内郡駒ヶ谷村長から、同村飛鳥西ノ寺に礎石らしいものがあって他に転売されんとする状況にあるとの報告があった。
(早速出張し実見すると)同心礎は2畝ばかりの小池畔に全体の7分許を露わしていた。・・・・・
心礎は池側の路下にその3分許を埋没している・・・(概要は)不整形の略方形のもので、高さ約5尺幅一辺約7尺9寸ある。重量は5000貫近くあると云われる。 花崗岩の表面を平にして、経3尺4寸深さ1尺1寸3分の円穴を穿ち、その底の中央に経6寸5分深さ5分の円穴を穿ち、更にその中に経5寸2分深さ4寸9分の円穴を抉り、更にその下に経4寸7分深さ1寸2分の小円孔を穿り込む。
なおこの礎石に最も近似したものは大和本薬師寺東塔心礎であろう。云々
 駒ヶ谷村飛鳥塔:おそらく駒ヶ谷村にあった時の貴重な写真と思われる。
 この論文は河内飛鳥寺を取上げた最初のものの一つであろう。
しかし現地での心礎の状況が「池側の路下にその3分許を埋没している」と分かるだけで、昭和9年に突然発見あるいは発掘されたものなのか、だとすればどうような経緯で発見されたのか、所有者は誰で、どういう理由で売却するのかなど々は全く分からない。(以降の論文も全てそうである。)
 河内名所圖會:享和元年(1801)刊に春日村妙見寺の挿絵がある。
ここに「塔ノ石スエ」として心礎と思われる石が描かれる。この「塔ノ石スエ」については本文に全く記載がなく、挿絵の状況も予備智識が無く良く分からないのであるが、この「塔ノ石スエ」はあるいは河内飛鳥寺の心礎を描いた可能性は無いであろうか。
 春日村妙見寺全図   妙見寺前「塔ノ石ツエ」(部分図)    河内名所圖會・巻2を参照
 →ご教示を乞う。

2010/10/13追加:
○「塔婆心礎の研究」田中重久(「考古學 10巻5号」考古学協会、昭和14年 所収)より
 凹四段式心礎とも呼ぶべき心礎が発見された。
それは先年河内国南河内郡駒ヶ谷村飛鳥西ノ寺の小池の畔から発掘され、今は名古屋市中区納屋橋1の高松静雄氏邸に存する。
 今までに出土した瓦当面は何れも平安中期のもので、奈良期の瓦片は散在しても未だ創建当初の瓦当ある瓦は出土していない。
心礎は長径9尺6寸、短径8尺2寸、高さ3尺7寸(粘板岩)で、中央に経3尺4寸深さ1尺1寸の円穴を穿ち、その中央に経6寸5分深さ6分の円穴を穿ち、更にその中に経4寸6分深さ5寸の円穴を抉り、更にその下に経3寸深さ1寸3分の円孔を穿つ。第1段の円穴は心柱の凹座、第2は舎利孔の石蓋のかかり、第3は舎利孔、第4は舎利孔の湿気抜きと推測される。
○「柏原市史 第4巻 史料編(T)」柏原市役所、1975 より
 近飛鳥寺心礎実測図1:当地の飛鳥は大和の飛鳥に対し、古く近(ちかつ)飛鳥と呼んだ。百済系の飛鳥戸造一族の根拠地であった。
心礎の柱穴及び舎利孔にはわずかながら抉りが見られる特徴がある。

2010/10/13追加:
○「羽曳野市埋蔵文化財調査報告書 12 羽曳野市駒ヶ谷地区 埋蔵文化財分布調査概報」 羽曳野市教育委員会、1986 より

    

河内飛鳥寺心礎実測図2
   :寺山付近産黒雲母石英安山岩製

河内飛鳥寺心礎03: 左図拡大図
   :大和飛鳥寺との関係で、近つ飛鳥寺、河内飛鳥寺と呼称する。
     

 


○「羽曳野市史 第3巻 史料編1」 羽曳野市、1994 より
 河内飛鳥寺心礎実測図3
河内飛鳥寺跡は南東から北西に延びる幅100mほどの尾根部分を中心とすると考えられる。
寺跡は、ニゴリ池(奥ニゴリ池)と堂新田池の中間地点を中心にして、東西200m南北150mが寺域と想定されてきた。この東西2つの池は谷筋を堰き止めて造られたものである。遺跡の現状はぶどう畑や荒地である。
昭和9年、心礎はニゴリ池北東約80mにある小池の東堤付近で出土したと伝える。
昭和48・49年、60年には遺跡分布調査が行われ、ニゴリ池東側一帯には瓦片が散布することが知られ、平安期の瓦が出土する。
平成元年・2年には広範囲に試掘調査が行われる。
しかし心礎出土付近での試掘(調査区bQ5)も実施されるも、寺院に関係するような遺構は一切発見されず、またそのほかの試掘においても明確な寺院遺構は検出されないと云う結果になる。 それに加えて、白鳳期・奈良期の瓦も1点も出土を見ないという結果でもあった。
当地で白鳳期と推定される心礎が出土したことは明らかであるが、調査結果は白鳳期の寺院遺構及び瓦などの遺物は一切出土しないと云う結果であった。このことはどのように解釈すべきなのであろうか。
1)後世の土砂採掘や畑の造成で一切が削平されたと解釈すべきか。
しかしいくら削平されたと云っても一片の古代瓦の出土を見ないことや、中世の遺構が発見された調査地点もあり、全て削平されたと云う合理的な理由にはならないであろう。
2)発見された心礎は平安後期の寺院創建(平安期の瓦は出土する)に際して、全く別の寺院から搬入されたと解釈すべきか。
しかし、平安期の寺院に、出土したような心礎が必要であるとは思われず、また別の場所にあった前身寺院から移建のために資材の移動を行ったのであろうとしても、心礎は出土した場所では、全く心礎以外の遺構・遺物が出土せず、この理由も成立しないであろう。
3)たまたまここに心礎が遺棄されただけと解釈すべきであろろうか。この説は心礎の出土地の調査結果や試掘調査の結果と合致する。
しかし、仮にそうだとしても、どこから、誰が、何のために・・・遺棄したのかなどがはっきりしない限り、誰しもを納得させる説明には成り得ない。

○河内飛鳥寺跡の位置
 河内飛鳥寺跡位置図:河内飛鳥廃寺跡はおよそ当図の位置にある。
 

河内飛鳥寺跡想定図1: 左図拡張図:
昭和9年、心礎はニゴリ池北東約80mにある小池の東堤付近で出土したと伝える。

河内飛鳥寺跡空撮1:想定図1の範囲の空撮(mapfan)


 河内飛鳥寺跡想定図2:ニゴリ池(奥ニゴリ池)と堂新田池の中間地点を中心にして、東西200m南北150mが寺域と想定されてきた。
  この東西2つの池は谷筋を堰き止めて造られたものである。
 河内飛鳥寺跡空撮2:想定図2の範囲の空撮(google)

 河内飛鳥寺跡空撮3:yahoo

2010/10/21追加:
○同上「羽曳野市史 第3巻 史料編1」 より
河内飛鳥寺跡付近は「飛鳥第一散布地」と称され、昭和46・47年、同60年、平成2・3年に調査が行われた。平成2・3年では26ヶ所の試掘調査が行われるも、顕著に古代寺院の存在を示す遺構・遺物は発掘されなかったと云う。
 第一散布地調査区:調査区bQ5が心礎出土地の発掘調査(トレンチ)である。結果の上述の通りである。
またこの図には心礎出土位置が明示されている。

河内飛鳥寺心礎04:下図拡大図

2010/10/17作成:2010/10/21更新:ホームページ日本の塔婆