陸  奥  飯  野  八  幡  宮

陸奥飯野八幡宮

■参考文献:
2007/11/17更改:「飯野八幡宮古絵図考」坂田泉(「日本建築学会計画系論文報告集 第365号」昭和61年/1986 所収)
2013/09/10更改:「重要文化財飯野八幡宮本殿保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編.、1996
            (△印の図は「重要文化財飯野八幡宮本殿保存修理工事報告書」による。)
2014/01/22更改:「飯野八幡宮絵図とその歴史地理的意義」安田初雄(「福島大学教育学部論集」社会科学部門45号、1989 所収)

飯野八幡宮古繪圖
中世の境内絵図が伝えられる。

 飯野八幡宮古絵図:左図拡大図
八幡宮が慶長19年(1614)隣燃・焼失し、本古絵図はそれ以前の姿と伝える。

境内西は八幡宮領域で、社殿は南面する。一、ニ、三の鳥居、楼門、本殿の区画が南北に並び、本殿西に本地阿弥陀堂、東に若宮が並ぶ。
境内東は神宮寺領域で、巡礼観音堂・三重塔・十一面堂・十王堂など7堂宇から構成される。

さらに外周の南には宮前坊、宮鍛冶、社家などがあり、東には桜山坊・松尾坊などの社僧が、北には地蔵院・藤本坊・梅本坊・般若寺などの社僧が、西には巡礼観音別当 屋敷・宮大工屋敷などが描かれる。

2014/01/22追加:
 飯野八幡宮古繪圖2:堂宇名など明示

「重要文化財飯野八幡宮本殿保存修理工事報告書」 より
 飯野八幡宮古絵図部分図:堂宇名称書入
境内西域は本社・西に阿弥陀堂(八幡神本地)、その西南に般若堂、東に若宮、その東に禰宜屋、北東に御供屋がある。
本社と阿弥陀堂の中間に武氏(武内社)、白幡(白幡社・祭神は源頼朝)がある。瑞垣内は石敷であった。
三鳥居の北に楼門があり、その中間西に城主座敷と会美酒社(夷社)、東に鐘楼、神主座敷がある。
楼門から拝殿に向い石敷の参道があり、参道西には講坊(講堂・現在は社務所か?)、山王社、東には舞仕屋、神民屋、健児屋がある。
境内東は神宮寺で、北に庵室の区画があり、その西に普賢堂(若宮本地)、庵室の南に釈迦塔三重塔)があり、さらに釈迦塔南の左右に巡礼観音堂、十王堂、十一面(観音)堂、十王堂(後世には地蔵堂がある)を配する。
 総体的にいえば、本古図の堂社の配置は神仏が混然とした配置と云える。後で見るように、慶長19年の焼失後の再営では鐘楼を除き、ほぼ神仏が左右に分かれて配置されるのと対称的である。
 ※飯野八幡宮古絵図:1.33×1.60m、軸装、紙本着色。慶長19年焼失以前の景観を描くとされる。年代不詳(推定慶長年中)。
 ※釈迦塔(三重塔)の経歴は不詳、元久3年(1206)社殿造営完了とあるから、この頃三重塔も造営されたとも思われる。
  上記「古絵図」が現在地への遷宮後の慶長19年焼失前の景観であるとすれば、慶長19年までは三重塔が存在したものと思われる。
  なお慶長19年〜寛永19年の「八幡宮萬御造営之帳」には三重塔の記載はないと思われる。
  近世の絵図では境内東南隅付近に釈迦、観音、地蔵などの4棟が並ぶが、この釈迦堂が三重塔の後裔であろうか。
「磐城志 巻之二」鍋田晶山、文政年中 に本古図の複写の記載がある。
  △磐城志巻之二の複写古図
この複写図には、慶長19年火災で焼失するも、慶長7年現在地に遷宮した時に再営された絵図であろう云々の記入がある。
 「・・・慶長七年鳥居侯岩城ニ移ラレ、彼飯野平物見岡ノ宮地ヲ今ノ八幡小路ニ遷シ、大舘ノ古城ヲ廃シ今ノ平城ヲ其處ニ新築セラル、同十九年当社被災ノ為ニ回禄ス、其後内藤侯ノ時ニ至ッテ再ト造営シ玉フ今ノ今の宮社是也、左レハ此図ハ慶長年間ノモノナランカシ」
 ※「飯野八幡宮絵図とその歴史地理的意義」では、以下のように論述する。
1)この古図を最初に世に出したのは「磐城志」の著者である鍋田晶山で、文政の頃であったあろうと云う。以降、この古図は広く世に知られることとなる。しかし、この複写古図には多少の写落しと写違いとがあるとも云う。(これらは微細に付、本ページへの記載は省略する。)
2)上記の「磐城志」に見られるように鍋田は今の社地に移ったのは慶長であるとの見解に立つ。 おそらくこれ以降、八幡宮の慶長遷宮説が広く流布したものと思われる。そう故であろうか、飯野八幡の公式見解も現地への遷宮は慶長7年とする 。しかしながら、現今では慶長遷宮説は否定され、建永遷宮説が妥当と知るべきであろう。

飯野八幡略歴:
創建については、
康平年中(1058-65)源頼義、前九年の役出征の時、山城石清水八幡宮を勧請と云う。( 「飯野八幡宮由来」など) 
あるいは、
文治2年(1186)源頼朝、石清水八幡宮の御正躰を奉じて、赤目崎見物岡(不詳・現在の物見岡と云う)へ勧請したとの別伝もある。
 (別伝:「飯野八幡宮縁起奥書」(延宝9年1681)、「岩城郡八幡宮縁起注進状案」年紀欠落)
元久元年(1204)社殿の造営に着手。
建永元年(1206)遷宮が完了し、鎌倉幕府、幕府政所執事伊賀光宗を好嶋荘の預所に任ずる。
 以降、伊賀氏は飯野氏を名のり、預所職と神主職を世襲する。
建武2年(1335)兵火のため社殿炎上、伊賀盛光再び社殿を造営する。
八幡大菩薩の本地は阿弥陀如来であり、頼朝の時代供僧は12口であったと云う。
その後中世には16坊(長久寺、般若寺、神宮寺、井上院、金剛寺、地蔵院、梅之坊、宝国寺、善龍寺、不動院、阿遮院、養福寺、宝泉院、成福院、常住院、橋本坊) が形成されるが、それらは全て真言宗を奉じ、薬王寺末であった。
慶長7年(1602)鳥居忠政、磐城平に10万石で入府、飯野八幡が鎮座する赤目崎見物岡の地を新城として縄張りを行う。そのため赤目崎見物岡(鳥居氏平城) にあった飯野八幡は現在地に遷座する。
 ※この慶長7年現在地へ遷座するという見解については、近年有力な批判があり、ほぼ否定されると思われるも、八幡宮の見解や「重要文化財飯野八幡宮本殿保存修理工事報告書」では、慶長7年遷宮説を採る。
 → 下の項「飯野八幡宮絵図とその歴史地理的意義」に慶長7年遷宮説への批判がある。
慶長19年、火災焼失、元和2年(1616)本殿が再興される。
近世には、幕府から400石の朱印地が安堵され、歴代の磐城平藩主からは社領50石の寄進を受ける。
延宝8年(1680)までに造営された堂宇は古文書などで以下と知れる。
即ち、本社、拝殿、前殿、楼門、若宮、仮殿、武氏の宮(武内社)、白幡の宮(白幡社)、山王、会義酒の宮(恵比寿社)、舞仕屋、御供屋、禰宜屋、神民屋、健児屋、阿弥陀堂(本地堂)、大般若堂、講法堂、十王堂、観音堂、釈迦堂、地蔵堂、鐘楼、神主篭所、一の鳥居である。更に境内を供僧の坊社が取り巻くように建立されていた。
2014/01/22追加:
●「飯野八幡宮絵図とその歴史地理的意義」 より
 山名隆弘の「飯野八幡宮社地の一考察」(「福島史学研究 46」昭和61年/1986 所収)は「飯野八幡宮古繪圖」の鳥居の建造年代とその配置から近世後期から昨今まで定説化されていた八幡宮慶長遷宮説を否定し、建永遷宮説を復古させる論考であった。もちろん、絵図自体が慶弔7〜8年以前の景観を示すことは揺るがない。
 建永遷宮説の展開の前に、本殿の特徴として、宝殿(本殿)の前に棟が前下りで妻入入母屋造の建物は大社造の霧除のように付加されているが、珍しい形式であるなどの指摘がある。なお、本建物の妻飾りには豕(いのこ)扠首(さす)である。
 本題の建永遷宮説であるが、その根拠は以下のようである。
1)繪圖には3基の鳥居が描かれるが、一の鳥居は現在境内正面にある鳥居であり、二の鳥は佛崎に描かれる。それはかっては薬王寺平、現在は薬王寺山と云われる場所であろう。そこは独立丘であり、かっては佛崎稲荷があったことは多くの史料が語る通りである。小島山に描かれる三の鳥居は、その小島に字鳥居山が残る。この3基の鳥居を結ぶ延長線上に現八幡宮境内が跨がっていることは現在と同じで、この絵図の八幡宮境内が現在位置であることは疑いようもない。この二の鳥居、三の鳥居が山名隆弘の云う通り文永11年(1272)及び 文永13年の造立であるならば、鎌倉期から八幡宮境内は現在位置(八幡小路)にあることになる。
 ※「二の鳥居、三の鳥居が山名隆弘の云う通り文永11年(1272)及び文永13年の造立」という一文は山名隆弘の論文を未見の為、根拠は不明。
2)「岩城郡八幡宮縁起注進状案」(年紀欠落「飯野八幡宮中世文書」)の解釈
 「御宮縁起注進状ハ淡路房書之了」(端裏書)
注進 陸奥國岩城郡/八幡宮 縁起事/文治二年(丙午)七月十曰、自本社捧御正躰/預所/矢藤五武者頼廣 同使者源貞次、八月十曰好嶋郷仁下著畢/御社所赤目崎見物岡仁卜建立了/神官人等定了/別當二人
(中略)
元久元年(甲子)始造榮、同三年造螢了/建永元年(丙寅)八月廿五日御遷宮了/承元三年(己巳)経蔵造立了
(後略)

文治2年(1186)右大将源頼朝の命により山城石清水八幡宮から御正躰を奉じ、八月十日好嶋庄に下着し、赤目崎見物岡に社を建立し、元久元年(1204)造営を始め、同三年造営完了、建永元年(1206)遷宮したと記す。
なお、「飯野八幡宮縁起奥書」(延寶9年(1681)「飯野近世文書」)もあるが、記載内容については上記と同一である。
 ※文治元年赤目崎見物岡に社を建立し、元久元年新たに現在の場所(飯野平・八幡小路)に造営を始め、建永元年に遷宮したと解すべきであろう。
3)「飯野八幡宮縁起奥書」(飯野近世文書)の解釈
旧社地から現在地に遷宮された記録は、に次の記載がある。
 文禄五年(1596)四月廿三日常陸の大守佐竹又七郎源の某好嶋の薑地を検注して六百五十餘石の神領をさたす然るに慶長七年(1602)五月廿三日鳥居左京亮平忠政朝臣當郡拝領の時あかめ崎の社頭を今の所に點検し居城を作て岩城の城と名づけ神領も漸く減少せりおなじき十九年(1614)正月廿八日又隣火の災に延焼す元和八年(1622)九月廿八曰内藤左馬介政長朝臣鳥居氏に変って當城に守たりしより絶なんとせし神燈をか凶げて故将軍家光公へ是を奏す
 ※「あかめ崎の社頭を今の所に點検し」とは文治2年に赤目崎に建立された社を今の所(現在の鎮座地・飯野平)に移すと云うような解釈(これでは「點検」の意味が不明となる)ではなくて、文治元年に社を建立した場所は今の場所(今作ろうとしている岩城城の場所)であると確認(点検)して・・と解釈すべきであろう。
即ち、鳥居忠政が岩城城を作るにあたって、既に建永元年に飯野平・八幡小路に遷座しているが、文治2年の当初に建立されたあかめ崎の場所がまさに今作ろとしている岩城城の場所なのであろことを「点検」して、城を作ったと云う意味であろう。
4)内藤時代平城下繪圖に見る八幡宮付近
 ○内藤時代八幡宮付近:「旧平県古絵図」(これは不詳)による。
「磐城志」に掲載の「當今境内全図」(下に掲載)は文政期のものであるが、文政より70-80年前の内藤時代のものと比して、八幡宮境内の堂宇・社殿の配置はほぼ同一と思われる。しかし四周の様相は「飯野八幡宮古絵図」(上に掲載)とはかなり違いがある。
 (なお、「内藤時代平城下繪圖」(「八幡宮付近図})が内藤時代という根拠はこの繪圖に描かれた士分や町人の名前の多くが内藤時代の名前であるからである。)
即ち、「飯野八幡宮古絵図」では四周は社僧や門前屋敷で埋まり、すべて八幡宮の持ち分であったが、本図では西・南・東の三方は八幡宮の持ち分ではなく、ほとんど大身の士分の屋敷となっている。これは建永の遷宮では四周は八幡宮の付属地(社僧・社家)として境内は設計されたが、近世領主の城下形成にあたり、家臣の屋敷として転用されたものと推察され、これを裏付ける史料も散見される。
 なお、北側の社僧は地蔵院、金剛寺、長谷寺、般若寺、井上院とある。西側は原田三右衛門、東の南半は加藤王膳とあり、いずれも内藤家家臣である。南側には梅之坊が残るものの、東半は加藤又坐衛門とあり、加藤は内藤家家臣で享保年中に組頭から家老になった家柄である。

近世の境内絵図
「磐城志 巻之二」に近世の境内図の掲載がある。
 當今境内全図:文政9年(1836):「磐城志」は文政9年(1826)平藩江戸詰家老鍋田 (晶山)三善によって編纂される。 :2013/09/10画像入替
ここには江戸後期の境内の様子が描かれる。
まず境内の中央には水溝があり、東は仏域、西は神域と区画される。
西の神域では、瑞垣で囲まれた本殿、幣殿、拝殿を配し、本殿東西に白幡社、武内社の小社を置き、瑞垣東に若宮、西に穀屋を配置する。
瑞垣南辺中央には唐門を開き、楼門との間は石敷の参道とする。その参道西方には神庫、講法堂さらに春日、山王の小祠を置き、東方には神楽殿を置く。神域東南には鐘楼がある。
東の仏域では、中央に阿弥陀堂、その北に篭所、西に御供所、禰宜屋を配置する。また東方の境内端に北より十王堂、釈迦堂、観音堂、地蔵堂を並べる。
なお、地蔵堂は昭和48年に倒壊・撤去されるが、棟札が現存すると云う。
 棟札には、享保20年(1735)造立、導師は延壽山薬王寺法印圓胤、願主は将軍山地蔵院現住法印沓胤・・・とあると云う。
堂宇の配置で特徴的なことは、近世においては、上に掲載の飯野八幡宮古絵図飯野八幡宮古絵図部分図とは違い、神仏はほぼ判然と区分して配置されたようである。
近世の組織は真言宗社僧16ヶ寺、宮司飯野氏、社家32人、神子8人などであった。
そして、明治3年、神仏分離の処置で、社僧の坊舎及び八幡宮の仏堂仏器は除かれる。(詳細不詳)
東の仏域は「八幡神社」境内となり、八幡宮会館・八幡宮事務所となり、周囲にあった供僧の坊社は全て撤去され、現在では住宅地となる。ま境内前面にあった参道、馬場は市道となる。要するに、飯野八幡宮はほぼ破壊されたのである。
○「磐城志 巻之二」に見る社堂の概要
 本社、廊下、拝殿、向拝 塀、玉垣、唐門、神楽殿、塀、楼門、階、鳥居、玉垣、仮屋、御供屋(表3間妻9尺萱葺)、講法堂(表6間妻3間1尺7寸瓦葺)、鐘楼(1丈四面萱葺)、神庫(表3間妻9尺瓦葺)、篭所(表6間妻2間萱葺)、禰宜屋(表7間半妻萱葺禰宜屋神民屋健児屋)、神厩
社地間数 南50間北70間西27間東46間
 末社:武内、白幡、山王、若宮(別當般若寺)、向拝、蛭子、春日、玉垣
 佛堂:阿弥陀堂(3間四面萱葺別當神宮寺)、十王堂(2間四面萱葺別當天智院)、釈迦堂(2間四面萱葺別當済家長興寺末霊山寺)、観音堂(2間四面萱葺別當同上)、地蔵堂(2間四面萱葺別當地蔵院)
 供僧16箇寺(真言宗薬王寺末1ヶ寺5石宛蔵米にて配当 記号今廃す):長久寺(宮ノ後)、般若寺(同上)、神宮寺、正智院(宮ノ後)、井上院、金剛寺、地蔵院(宮ノ後)、梅之坊(宮ノ前)、寳國寺(同上)、善龍寺、不動院(高月)、阿遮院、養福寺(三町目)、寶泉院(久保町)、成福院(川中子村)、常住院

磐城八幡宮現況
 △磐城志附図と現存建物との比較     △飯野八幡宮境内配置図
※現在以下の重文建築を有する。
本 殿:元和2年(1616)再興、当初は前殿付き流造、延宝2年(1674)大改修、桁行3間梁間3間入母屋造屋根杮葺となり、そのとき幣殿・拝殿も造立される。
楼 門:万治元年(1658)建立、三間一戸楼門、入母屋造、銅板葺(当初は杮葺)
神楽殿:江戸初期の建立と推定、桁行2間梁間2間、入母屋造、南面する。
唐 門:元禄期の建立と推定、一間一戸平唐門、屋根瓦棒式銅板葺(当初は杮葺)
仮 殿:現御輿殿、寛文年中の建立と推定。
宝 蔵:江戸初頭の建立と推定。
若宮八幡:元和5年(1619)建立、一間社流造り前殿付。
2013/05/07撮影:
現地では仏教的要素は壊滅し、その痕跡を偲ばせるものは皆無である。この意味で飯野八幡宮は半分壊滅し頽廃した社なのである。
 陸奥飯野八幡宮社頭
 陸奥飯野八幡宮楼門1     陸奥飯野八幡宮楼門2     陸奥飯野八幡宮楼門3     陸奥飯野八幡宮楼門4
 陸奥飯野八幡宮石橋1     陸奥飯野八幡宮石橋2
 陸奥飯野八幡宮拝殿1     陸奥飯野八幡宮拝殿2     陸奥飯野八幡宮拝殿3
 陸奥飯野八幡宮本殿1     陸奥飯野八幡宮本殿2     陸奥飯野八幡宮本殿3     陸奥飯野八幡宮本殿4
 陸奥飯野八幡宮本殿5     陸奥飯野八幡宮本殿6     陸奥飯野八幡宮本殿7
 陸奥飯野八幡宮若宮1     陸奥飯野八幡宮若宮2     陸奥飯野八幡宮仮殿      陸奥飯野八幡宮神楽殿
 陸奥飯野八幡宮唐門1     陸奥飯野八幡宮唐門2     陸奥飯野八幡宮唐門3
 陸奥飯野八幡宮寶藏1     陸奥飯野八幡宮寶藏2
2014/01/22追加:
「重要文化財飯野八幡宮本殿保存修理工事報告書」 より
 飯野八幡宮本殿竣工外観     八幡宮本殿竣工外陣見通


2006年以前作成:2014/01/22更新:ホームページ日本の塔婆