常  陸  国  分  寺  跡  ・ 常  陸  伽  藍  御  堂  塔  跡

常陸国分寺跡・常陸伽藍御堂塔跡(特別史跡)

常陸国分寺塔跡(常陸国分寺境内心礎・ガラミドウ(伽藍御堂)廃寺)

2009/05/06追加:
◆常陸国分寺塔跡・心礎・ガラミドウ(伽藍御堂)
常陸国分寺の塔跡及び心礎については、以下の諸説がある。
○塔 跡:以下の3つの説がある。
1)国分寺塔阯は未発見である。(伽藍御堂は国分寺とは別の伽藍である。)
2)伽藍御堂が常陸国分寺塔跡である。(伽藍御堂以外の塔址は発見されていない)
3)創建時の塔跡は伽藍御堂以外にあったと想定されるがその跡地は不明、伽藍御堂は再建時の塔跡ではないかとする。
 ※近年は(伽藍御堂の他に塔跡と比定できる遺構が見出せず)伽藍御堂を国分寺塔跡とする見解が主流と思われる。
○心礎:
1)現在国分寺境内に置かれている礎石は紛れも無く心礎【常陸国分寺境内心礎】であるが、明治34年に掘り出された屋敷地には明治以前に搬入されたもので、それ以前にあった場所は全く不明である。それ故、この心礎が国分寺心礎とすれば、塔の位置も不明のままである。
現在(伽藍御堂以外の)塔跡は検出されていない。
2)伽藍御堂が国分寺の塔跡であるとすれば、古写真には心礎が写るが、これが国分寺心礎であることになる。
但し、現在現地は開発され住宅地となり、宅地開発で心礎を含む礎石は亡失と云う。この地は、全く調査もなされておらず、現下では僅かな写真で礎石配列が分かるだけで、詳細は不明のままである。

◎発掘調査の結果,南門・中門・金堂・講堂・北面僧房が一直線に並ぶ伽藍配置が明らかにされる。
回廊は中門から東西に金堂に取付く。寺域は南北231m(2町),東西273m(2町半)。現国分寺境内に金堂・講堂・廻廊の礎石が現存する。
塔の建立された位置は未だに明確でないが、塔心礎も現存する。
 (東方約200mの「伽藍御堂塔跡」<当ページの後半に掲載>を参照 )
心礎は現在の唐門(廃千手院の門)の南に、置かれている(出土地不明、附近の民家から持ち込まれる)。
花崗岩の自然石に柱座を円形に削平し、中央に枘孔がある。

2006/04/27追加:
◎「常陸国分寺」廣瀬榮一、角田文次(「国分寺の研究 上・下巻」 角田文衛/編(1938)所収) より:
「・・・七重塔一基の塔址が境内に認められない。その後廣瀬は伽藍御堂の地に塔跡を発見、・・・これは出土瓦及び別の塔礎の存在などから、国分寺塔址とは関係ない他寺の塔址と想定 される。・・・・(伽藍御堂は)別の塔礎であるが、・・しかし(現在ある国分寺の心礎の)原位置が明らかではないのは遺憾である。現在、国分寺心礎は石岡市泉町濱氏邸にあり、高さ5尺幅4尺ほど を測り、上部は削平し、中央に径1尺6寸5分、深さ6寸7分の大きな凹が設けられている。・・古くは国分寺附近の某氏邸内にあり、井戸修理の際掘り出され、後現在の場所に移したとのみ伝えられる。・・・関東北の伊豆・武蔵・下野・陸奥の各国分寺刹礎が同様の一段の凹であることからも、これが常陸国分寺刹礎と見て大過ないであろう。・・」
 常陸国分寺附近地形図:1/50000
  ※国分寺南に小目代寺跡があるが、ここには柱座を持つ礎石1個が孤立してある。多数の瓦を出土という。(現在は茨城廃寺という。)
 金堂址礎石配置図(単位:尺)      講堂址礎石配置図(単位:尺)
 常陸国分寺境内心礎1          常陸国分寺境内心礎2         常陸国分寺境内心礎3

◎「柴田常恵写真資料」より:
 常陸国分寺境内心礎:昭和6年、廣瀬栄一氏ヨリ
 常陸石岡国分寺礎石:昭和4年7月5日
 2022/12/28追加:
  日立国分寺境内心礎2:上掲の「常陸国分寺境内心礎」と同一画像、常陸国分寺塔塔心礎 廣瀬栄一氏ヨリ 昭和六、一一、礎石 とある。

「幻の塔を求めて西東」:
 心礎は一重円孔式、200×180×160cm、径50×18cmの円孔を持つ。

◎2007/09/26撮影:
 常陸国分寺伽藍配置:現地説明板より
 

常陸国分寺境内心礎


 常陸国分寺境内心礎1
   同          2
   同          3:左図拡大図
   同          4
   同          5
   同          6
※常陸国分寺境内心礎は、上記「常陸国分寺」(廣瀬など)によれば、以下のように云われる。
井戸修理の際掘り出された心礎は古くは国分寺附近の某氏邸にあり、その後泉町(国分寺東方500m)濱氏邸に移されたことが知れる。残念ながら出土地は不詳であるが、その大きさ・形状から国分寺塔心礎と推定される。
(この心礎は現在国分寺境内の旧千手院山門前にある。)

 常陸国分寺金堂跡   常陸国分寺講堂跡
 常陸国分寺中門跡礎石は明治41年焼失した天正2年?再興仁王門礎石という。
 常陸国分寺薬師堂   常陸旧千手院山門
 参考:常陸国分寺・伽藍御堂廃寺航空写真

2008/09/07追加:
◎「茨城県史 原始古代編」1985 より
 常陸国分寺地割・伽藍配置:「県史」では国分寺塔跡は伽藍御堂廃寺の地であるとの立場をとる。
(斉藤忠は伽藍御堂が別寺の塔跡ではなくて、国分寺の塔跡であると推定する。)
 ※伽藍御堂が国分寺塔跡であるというのは有力な仮説であろう。
講堂跡の現在の礎石の配列について斉藤忠は疑問を呈する。また石岡市教委の調査では、講堂跡は現在礎石のある低い土壇状の遺構からやや南にずれており、現在の大礎石は新に盛られた黒褐色土の上に礎石が礎石が運ばれた可能性が強いことが判明 する。つまり斉藤忠が疑問を提出した如く、この大礎石は塔跡から運搬された可能性のあることが傍証された。講堂跡の大礎石が16個であるのもこれに符合するのかも知れない。
 ※講堂跡の16個の大礎石は、後世に塔跡から搬入された可能性があると云うのは肯定できる。
しかし、これは伽藍御堂から搬入されたのではないのは明白(伽藍御堂には 昭和初期には礎石がほぼ完存していた・・・写真もあり。)であり、これは逆に伽藍御堂ではない(未発見の)別の塔跡から搬入されたと云うことになる。そして塔心礎だけは講堂 跡に置かれた礎石とは別に放置され、出所地不明とされ、現在は境内に置かれている状態であろうと推測される。
 以上の意味で「県史」に掲げる常陸国分寺地割・伽藍配置(上掲)の塔の位置 (ガラミドウの塔跡)は成立しないであろう。
2008/09/07追加:
◎「茨城県史料 考古資料編〔4〕」1995 より
昭和57年の金堂跡・講堂跡の規模確認調査が行われた。
講堂跡の土壇及び大型礎石は原位置であるとの旧来の説に対し、斉藤忠は金堂の中軸線と講堂のそれがずれていること及び明治35年の和田千吉の調査では西側の3個の礎石しか記載がないことなどから、明治36年から大正10年にかけて講堂の大型礎石は他から移されたものとした。調査結果は上の「茨城県史」の通り(講堂大型礎石は他から持ち込まれた可能性が高い)とされた。
なお塔については斉藤忠は中門と金堂を結ぶ中軸線の東方約145mにある伽藍御堂とし、以降この説が支持されている。

2009/05/06追加:
◎「新修国分寺の研究」 より
 常陸国分寺伽藍配置想定図:塔と思われる礎石が昭和30年代まで残されていた。(これはガラミドウ<伽藍御堂>のことを指す)
このことと北溝及び西溝が発掘で検出され(北及び西側は現在も道路であり、またこの道路は昭和30年代までは溝であったと写真及び調査で確認されている)ていることなどを踏まえ、伽藍配置を復原すると以上の伽藍配置想定図となる。
金堂跡:礎石列が良好に残る
講堂跡:現在ある礎石は全て後世に運び込まれたものであると斉藤忠によって提起される。そしてこの見解は後に市教委の調査によって追認される。
七重塔跡:斉藤忠の研究により、金堂東側のガラミドウ(伽藍御堂)と呼ばれてきた(現在は住宅地)地が塔跡であることが明らかになった。
ここでの礎石の遺存は昭和初期の写真で知ることが出来、礎石らしき大きさの石がいくつか並んでいる状態が確認できる。
それ故、この地は斉藤説のように塔跡と考えるのが最も妥当であろうと思われる。
 ガラミドウの地は全く未調査であるが、現在でも瓦片を多数見ることが出来る。その瓦は9世紀中葉以降に属するもので、創建時の瓦は出土していない。心礎の位置が明らかでない以上、ガラミドウが当初からの塔跡なのかそれとも再建時の塔跡なのかはガラミドウで創建瓦を発見できるかどうかによって明らかになろう。
 ところで、現在国分寺境内にある心礎は明治34年に中門の南約100m離れた屋敷地の地中から掘り出されたものである。掘り出された状況から、この地が心礎の原位置とは考え難く、明治以前にこの地に運び込まれたと考えるのが自然である。しかしこの心礎がガラミドウにあったのかあるいは別の場所にあったのかは全く分かっていない。
 ※近年はガラミドウ塔跡が国分寺塔跡とする見解が主流とも思われる。しかし、その見解には難点がある。(「伽藍御堂塔跡」を参照)
ただ、ガラミドウは再興時の塔跡で、創建時の心礎は例えば現在国分寺境内に置かれている心礎であるということであれば、一応の整合性は採れるものと思われる。

2009/09/14追加:
◎「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年<堀井三友は昭和17年歿> より
旧国分寺の遺跡は今の国分寺(新義真言宗浄瑠璃山、江戸期は39石の寺領)境内一帯に存する。
南方よりまず仁王門跡(宝暦年中建立、明治42年焼失)がある。造出のある礎石12個が残り、門の形式は3間2面であった。この仁王門は宝暦年間に造営された門礎とされる。
仁王門の北方に薬師堂(元禄6年建立、明治42年焼失、翌年再建)がある。
薬師堂背後は高さ約2尺の土壇があり、礎石13個を残す。現状では5間四面の堂とされる。但し明治36年の測量ではもっと多くの礎石が残っていた。この金堂礎石は後世の建物で使用されたものであろう。
金堂跡北方約15間に講堂跡がある。20数個の礎石があるが、大型のもの16個は旧講堂のそれであろう。堂宇は7間四面か。
仁王門跡の西北西に10個の小礎があり、廻廊跡である。
廻廊跡から中門は仁王門跡のやや北側と想定され、中門・金堂間の距離(55間余)からこの間に塔が想定するのも強ち不当ではない。もしこの見解に従えば、塔の礎石の存在が問題となるが、その礎石の多くは仁王門跡に移されたとする見解もある。(「太田静六「常陸国分寺塔址考」)
 今石岡市浜氏邸内に移されている礎石(礎石の大きさは径4尺高さ5尺で、表面に径1尺6寸5分深さ6寸7分の円孔を穿つ)は国分寺門址の南約100間、南北の国分寺門前通より西に7,8間入ったところにあったと云う。この位置が最初の位置か否かは不明であるが、元からあったとすれば、千手院の位置に奈良期の寺院があったのであろう。
 千手院については以下の寺暦が語られる。創建は弘仁9年であり、その後安政4年焼失、その後この心礎位置の北方30間の国分寺僧坊へ移り、大正8年廃寺、現在の薬師堂の地へ移り、国分寺に合併する。さらに昭和8、9年頃、千手院旧境内を県道が貫通したと云う。
 国分寺の東6,70間の所に伽藍御堂と云う塔址があった、ここには14個の自然石を使用した礎石が配列され、方3間一辺22尺許の塔址と考えられる。付近から奈良末期・平安初期の国分寺瓦に似た古瓦が発見される。これは何れの寺院の塔なのかは判然としないが、ここにも奈良期の寺院が存したのであろう。
 旧千手院所在の塔心礎     常陸国分寺金堂跡礎石     常陸国分寺金堂跡実測図     常陸国分寺講堂跡礎石
 常陸国分寺講堂跡実測図     常陸国分寺門跡実測図
 天保年間府中町絵図: 部分図、上は西・右は北の方位、千手院、国分寺、ヤクシ(薬師堂)が隣接して描かれる。
ヤクシとは現在の国分寺薬師堂で、国分寺とは当時の国分寺本坊かと推測される。
この時代に千手院があった場所は現在住宅地や道路であるが、国分寺門前約100〜100数十mの寺地を占めたとされる。
開基は弘仁9年(818)行円上人、建長4年(1253)断絶、その後天正元年(1573)教王護国寺宝菩提院朝賀上人によって再興される。
近世には府中の大寺であり朱印地10石を有すると云う。 上述のように、幕末の頃?国分寺僧坊(本坊か)に移転、大正8年国分寺と合併、廃寺となる。その後は市街地化する。

常陸伽藍御堂廃寺(ガラ御堂)

心礎を含む全礎石(自然石)が完存していたが、宅地化により、全礎石が散逸したという。
「国分寺址之研究」堀井三友著に写真ありという。(未見)
2006/04/27追加:
◎「国分寺の研究 上・下巻」 角田文衛/編(1938)所収:「常陸国分寺」廣瀬榮一、角田文次 より:
通称伽藍御堂(ガラミドウ)で塔跡と推定される遺跡が発掘された。(廣瀬発見と云う。)常陸国分寺の東約200mの地点で、現在は住宅地となる。(住宅化の過程で、全て礎石が失われたと云う。)
   ○常陸国分寺附近地形図:1/50000

藍御堂塔跡全景

「・・・3個を欠くのみで他はよく存続してゐて稍々丘上の土壇上にある。礎石は総て上部を平らにせし外、加工せられないもので、甚だ其の配置が不規則で簡単な測量では到底その大要すら纏め得ず、礎石配置の実測図を示し得ないのを遺憾とする。方3間一辺21尺6寸(天平尺の1尺を9寸8分として22尺)を算し、中間は他より5寸乃至1尺程狭いようである。(・・断言は控えるが、天平尺にて中間7尺両脇7尺5分かと想像する。)檫礎は全然自然石のままで何等手を加えられていない。
  ※一辺21尺6寸は6・55m
此れはもとより如何なる堂塔の礎石なるかを明らかにしがたいが、檫礎らしきものの中央に存することと、方3間なる点より塔址と考へるのは差し支えあるまい。 」
伽藍御堂塔跡全景:左図拡大図
伽藍御堂塔址の檫礎:(物差は1m)

「柴田常恵写真資料」、廣瀬栄一氏ヨリ、昭和6年 より

 常陸石岡ガラ御堂礎石: 常陸国分寺境内心礎とともにガラ御堂の礎石の写真がある。
 (昭和6年)
20225/12/28追加;
 常陸石岡ガラ御堂礎石A:上記と同一写真である。廣瀬栄一氏ヨリ 昭和六、一一撮影

2009/09/14追加:
「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 <堀井三友は昭和17年歿> より

伽羅御堂所在塔婆礎石:左図拡大図

(前略)
国分寺の東6、70間の所に伽藍御堂と云う塔址があった。
ここには14個の自然石を使用した礎石が配列され、
方3間一辺22尺許の塔址と考えられる。
付近から奈良末期・平安初期の国分寺瓦に似た古瓦が発見される。
これは何れの寺院の塔なのかは判然としないが、ここにも奈良期の寺院が存したのであろう。 

伽藍御堂廃寺塔址の評価 
◇この塔跡を常陸国分寺塔跡とする見解があるが、この見解には以下の点で疑問がある。
この塔の規模は国分寺塔とすれば若干小さいであろう。
また檫礎が自然石であるのも肯定けない。
さらに位置が国分寺主要伽藍から見て不自然である。
  (但し出土瓦は国分寺のものと共通項が見出されるという。)
 故に伽藍御堂塔跡は常陸国分寺とは別寺の塔跡であろうと思われる。
常陸国分寺心礎としては、出土地不明ではあるが、現在は国分寺境内に戻されている心礎が国分寺塔心礎として相応しい形状・大きさを備えていると思われる。
 ※以上のように、常陸国分寺塔とこの伽藍御堂塔跡とは直接的な関係は無いと思われる。
 ※しかし、この塔跡が国分寺塔跡では無いとしても、異様に国分寺伽藍に近接しているのも事実であろう。
もっとも近接といっても、金堂などの主要堂宇から離れ過ぎているきらいもある。
要するに、この伽藍御堂廃寺と国分寺主要堂宇とは微妙な距離があり、現在の国分寺主要堂宇に隣接して塔跡が確認されなければ、このガラ御堂塔跡が国分寺塔跡と判断されるのも止むをえないのかも知れない。

◇2007/09/26撮影:
 現地での聞き取り(大正13年生まれの男性):「廃寺跡や礎石は見た記憶はない」、「国分寺東南の墓地はガラミドウ墓地という、廃寺跡(礎石)はガラミドウ墓地の北側にあったと聞いている」、「ガラミドウ墓地の北のマンション裏の駐車場・建物附近にあったと聞いている」 ・・・
 (※この聞き取りの内容が正しいならば、以下の写真及び俯瞰図のようになると思われる。)
現地の地形は、ガラミドウの東及び南側は緩やかに下り、「御堂」造営には好適な地形と思われる。
 推定伽藍御堂廃寺跡1: 写真左上の黄色の枠付近が伽藍御堂塔跡と思われる、写真右はガラミドウ墓地。
 推定伽藍御堂廃寺跡2: ガラミドウ墓地、写真を斜めに走る道路の先(上)は下っている。
 常陸国分寺・伽藍御堂廃寺航空写真;俯瞰図

2009/05/06追加:
近年はガラミドウ塔跡が国分寺塔跡とする見解が主流とも思われる。
 ※例えば、「新修国分寺の研究」に収録される論文(「常陸国分寺伽藍配置想定図」)がその例であろう。
しかしながら、このガラミドウが国分寺塔とする見解には上記のような難点があるが、しかし再興時の塔跡ということであれば、その整合性はあろうとも思われる。

2020/09/27追加:
○茨城県立歴史博物館展示常陸国分寺模型
「oshiro tennsyukaku」氏ご提供、2020/09/21撮影
 常陸国分寺模型:茨城県立歴史博物館展示
本模型の七重塔位置から見て、「ガラミドウ塔跡」が国分寺塔であるという見解に立ち、作成されたものと推測する。


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