1.序

郷里仙台の先哲である玉虫左太夫(たまむしさだゆう)の遺著「航米日録」を、沼田次郎氏の校正による同名本(岩波書店「日本思想大系66 西洋見聞集 航米日録(玉虫左太夫)」1974年12月)を基に、現代語訳を作成しました。

玉虫左太夫、諱(いみな:生前の名前)は誼茂(資料により「やすしげ」とも「よししげ」とも記載あり、併記する)。左太夫の曾孫である玉虫文一氏(東京大学名誉教授)の紹介文「玉虫左太夫とその周辺」を基に、左太夫の生い立ちから米国遣使の従者となった経緯を簡単に概説します。(以下の文章は「である」調で記述しています。)

(1)文政六年(1823)父信茂の七男として仙台に生まれ、藩校養賢堂において学ぶ。藩士荒井東吾に非凡な才能を認められて養子となり、結婚、一子をもうける。
(2)弘化三年(1846)、妻早逝後、単身江戸に出奔。時を経て昌平学大学頭林復斎の門に入って下僕となる。復斎に非凡さを認められて、精進後、塾長に抜てきされる。又、復斎と親密な関係にあった仙台藩の先達大槻磐渓の知己を得、更に頼山陽、佐久間象山などとの交遊を通じて、西洋事情に深い関心を持つ。
(3)安政元年(1854)ペリー二度目の来朝時、林復斎は井戸覚弘、伊沢政義と共に交渉の全権に任ぜられたが、その背後に磐渓の力があったと思われる。
(4)安政四年(1857)、函館奉行堀織部正利熙(としひろ)は、北海道および樺太地方の視察旅行に出掛ける。この時左太夫は選ばれて随行者となる。この時の左太夫の記録が「入北記」九巻である。
(5)安政五年、堀は幕府の外国奉行に任ぜられる。
(6)安政六年から万延元年(1860)にかけて、幕府は米国との通商条約締結に踏みきり、万延元年、米国遣使として外国奉行の正使新見正興(しんみまさおき)、副使村垣範正(のりまさ)及び御目付役小栗忠順(ただまさ)の他、属官、従者総計七十七人を派遣。左太夫は新見正興の従者の一人として加えられた。当人を良く知っていた堀利熙の推挙が大きな力であったと思われる。

御存知の様に、「航米日録」は日米修好通商条約の締結(1860年)のために、外国御奉行豊前守新見正興を正使とした使節一行77名が、米国の大型外輪・帆船ポーハタン号に乗船し、締結に至り帰国するまでの行状を従者の玉虫左太夫が記録したものである。その記録は微に入り細に亘ったもので、単なる航海日誌のみならず、米国の政治・経済・風俗・住居・草木・動物等に及ぶもので、玉虫は特に米国の民主政治に感動を受け、近未来の日本においても民衆を主体とした政治が必要であることを痛感して帰国したと言われている。如何せん、帰国後、奥羽越列藩同盟の盟主であった仙台藩の執政但木土佐(ただきとさ)を補佐したため、戊辰戦争の敗戦とそれに伴う藩政の分裂に伴い彼は自刃(明治2年(1869))に追い込まれたのであった。歴史に「もし」は無いのだが、もし生きて明治の世を過ごしていれば、日本の民主主義の進展に大いに役立ったであろうと思うと、あたら命を失わせた時代を恨むものである。現代語訳作成の意図は、当時の先端を走っていた先哲の息吹をもう一度現代に蘇らせ、俗に言う官軍主導で作成されてきた幕末から明治期の歴史の見方を再度考える資料とする一点にある。読者諸氏がその点を汲んで頂ければ現代語訳を作成した努力が報われるものと固く信ずるものである。

2.本文

(1) 巻一はここをクリックしてください。
  (江戸出立から横浜港を経由して、日付変更線を通過し、ハワイ滞留まで)

(2) 巻二はここをクリックしてください。
  (ハワイを去って太平洋上をサンフランシスコに向い、停泊・滞留後、出航し、パナマ港到着まで)

(3) 巻三はここをクリックしてください。
  (パナマ港寄港からワシントン市滞留まで)

(4) 巻四はここをクリックしてください。
  (ワシントン市滞留からボルティモアを経由してフィラデルフィア滞留まで)

(5) 巻五はここをクリックしてください。
  (フィラデルフィア出立からニューヨーク滞留まで)

(6) 巻六はここをクリックしてください。
  (ニューヨーク港出航から南アフリカ喜望峰を経てインドネシアのアンシヤボエン港まで)

(7) 巻七はここをクリックしてください。
  (インドネシアのアンシャホエン港出航から、香港を経由して帰国まで)

(8) 巻八はここをクリックしてください。
  (後書、参考資料等)

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