劇場



小説に限らずどのような本でも、読んでいると「おおぅ」と唸る一文や表現に出くわすことがあると思う。私の場合、そのような感激の際は、栞代わりにページの端を折って、いつかその名文を読み換えそうと試みるのだけれど、いままで読み返したことなどほぼ無い。まだ脳が柔らかかった学生時代でさえ、何度も読み返すことで初めて記憶に刻むことができたのだから、年老いた今となっては、ページの端を折ったくらいで記憶に残る訳が無い。ということで、これまで幾度か唸った名文は、一切暗証などできない。詰まるところ、自己満足で軽はずみな試みに留まっており、ここは大いに反省して、同じ自己満足でも少しは心に刻んで人生の糧にすべきであろう。はて、生きている内に、できるんじゃろか?

2015年に芥川賞を受賞した「火花」に続き、2017年に発表された「劇場」にも、唸る一文があった。クライマックス近くの、後輩青山とのメールのやりとりの部分だ。辛辣な応酬の連続で、本音バトルだけに読み進めるのがしんどい部分でもあるのだが、突如斯くも簡単に本質を言い表す文章が出現する。

以前、同じコラムの「夏の水の半魚人」の中で、小説がなぜ好きなのかといったことを書いたのだけれど、溢れ出る文才の無さで、全くもってうまく言い表せていなかったのだが、又𠮷直樹の一言で大いに腑に落ちた。「(お前の小説、)本当のことが何も書かれていなかったな。」小説は本当のことが無限の想像力の中で描かれているから面白いのか!

本作「劇場」は、劇団員と演劇の本質への探究が、執筆の動機になっと本人もあとがきで述べている。まだ、「火花」と本作の2冊しか読んだことは無いのだが、又𠮷直樹の小説は、人間くさくて面白い。心理描写がとても丁寧ではあるが、冗長な部分が無く、ストーリー展開も巧みなので、一気読みしてしまう。現時点では、まだ読んでいないのだが、次の作品が「人間」と直球勝負なタイトルだけに、どんな切り口なのか、いまから楽しみだ。

以前バンドを一緒にやっていたボーカルのJoeも当時は劇団員であり、抜きん出た声量の持ち主であった。彼の劇団の舞台を観るまで、本格的な演劇など観たことが無かったのだが、とても面白かった。その後、彼らの舞台を始め、テレビや映画の著名人が出る演劇など、年1回程度のペースとしょぼいながらも、下北沢や渋谷などに観に行くようになった。何度かJoeが所属した劇団「め」組の人たちとも飲んだりしたのだが、個性的で魅力的な人が多かった。和やかな中にも先輩、後輩の規律がしっかりしていて、社会人になってもそのような関係でいられるのは羨ましく思った。

一度、東中野のKing Beeでライブをやった時、Joeが対バンであるLovelace a-GoGoの演奏時にラムを飲み過ぎて、いざ自分たちの演奏となったときに、5曲も持たずぶっ倒れてしまった。しょうが無いので、ドラム、ベース、ギターの3人で、それぞれの持ち歌を演奏して回していたのだけれど、劇団の後輩たちの介護が良かったのか、突如Joeが復活。ステージに舞い戻るやいなやマイクを奪い取り、「俺抜きでやんないでくださいよ〜」と、そのワイルドな風貌とは似つかぬ情けないセリフで大爆笑をかったのだが、目の当たりにした私は、なんて人間くさい奴なんだとうるっと来てしまった。