小文字焼き



北九州の小倉には、小文字山(こもんじさん)という山がある。毎年、夏になると1回だけ山焼きが行われ、炎で彩られた「小」の字が小倉の夜に浮かび上がる。どことなく京都の「大文字焼き」に似てなくはない。

大学時代、お世話になっていた仕出し屋さんの女将さんとビールを飲みながら話をしていたときのこと。「明日は、大文字やね。」「女将さん、小文字焼きって知ってますか?」「へ?それって、明石焼きみたいなもん?」「.....小倉には小文字山という山があってですね、大文字のように年に一度、夏の夜に『小』という文字が炎で浮かび上がるんですよ。」「ははは、そんなんあんの?(小笑い)」「京都で大文字見ましたけど、あれって小文字焼きに似てますよね?」「はははははははははは.....(大爆笑)」

後は、会話にならなかった。おそらく1分間は、笑い転げていたであろう。1分は一般的に短い単位として侮られがちだが、1分間笑い続けるとなると、それはもう、とてつもなく大変なことである。知らぬ間に、私も体裁作りの笑みを浮かべていた。もはやオチを書く必要もないと思うが、私は本気で大文字が小文字焼きをまねをしたと信じていたのだ。小倉っ子の心意気とプライドが、古都の歴史と余裕の前に完璧に打ちのめされた瞬間であった(このあとも、この手の経験を多くする羽目になるのだが)。

大文字に関しては、後日談がある(実はあまり関係ないんだけど)。京都には大文字と並び、夏の風物詩として、京都祇園祭というのがある。もちろん、小倉にだって、小倉祇園太鼓というすばらしい祭りがあるのだが、もうそのことをここで自慢するのは止めよう。また馬鹿にされるだけだ。こっちだって、少しずつ大人になっているのだ。

さて、京都祇園祭のハイライトである宵山の前日、仕出し屋さんの女将さんに、「知っている店が木屋町にあるから、明日の宵山のとき行っといでーな」と言われ、おばさんの顔が利く店なら安く飲めるぜ!と仲間を誘って5人で繰り出した。さっそく「アゲイン」という店を探し出し、店に入って飲み始めたのであるが、どのお姉さん達も「仕出し屋の女将さん」のことを知らない。「ママはいないんですか?」と聞くと、「え?ママ?」と、中がスカスカのウェハースのような間抜けな返事が返って来るばかりである。結構高そうな店だなあと思っていただけに、不安は募るばかりで、酒のピッチも上がらない。

そこで、女将さんに電話をしてみた。「うん、その店でええのよ。」確証は得たものの、やはり腰が落ち着かない。そのうち、お姉ちゃん達が「カラオケ歌わへん?」と硬直しきった学生達に忍び寄ってきた。ただ安酒が飲めると私に付いてきた連中は、お気軽なもんでほいほいと歌い出したのであるが、言い出しっぺの私には、リズミカルに振られるタンバリンの音が耳障りでならない。緊張と焦りが最高潮に達そうとした、まさにそのときだった。「いらっしゃいませ~」振り返ると、やったあ、女将さんである!心配してきてくれたのだ。

女将さんが来てからわかったのだが、例の店のママさんは、どうやらグランマと呼んだ方がよいほどの高齢で、その日は体調が悪く店に出ていなかったのだ。事情が飲み込め、思わず私も弾けた!タンバリンを奪い取り、店のボーイさんも引きずり込んでの大ラッパ飲み大会。結局、6人でオールドを7本空けてしまった(らしい)。我々は何とかして腰を上げ、途中から注文を伝えることすら出来なくなったボーイさんを残して店を出た。腕時計に目をやると、3時をまわっていた。

その後が実は大変だった。宵山の日なのでなかなかタクシーが掴まらない。やっとの事で1台捕まえ、女将さんを見送ると、我々はタクシーを諦めて歩きだした。その途中、一番おとなしいバンビ木下が、突如、鴨川の土手を斜めに走り降りたかと思うと、もんどりうって腰から砕けた。我々は、大いに笑い、大いに見捨てて家路を急いだ。