ブエノスアイレス午前0時



初めてアルゼンチンという国を目撃したのは、1978年のサッカーワールドカップアルゼンチン大会。紙吹雪とともにマリオ・ケンペスが舞っていた。クライフが去ったとは言え、相変わらずスペクタクルなトータルフットボールを展開していたオレンジ軍団オランダに対して、まさに闘牛士が最後にとどめを刺すかのようにマリオはシュートを突き刺した。8年後のメキシコ大会は、マラドーナによるマラドーナのための大会だった。さらにその12年後、フランス大会では初出場の我がニッポンの相手がアルゼンチンだった。試合前に、私のお気に入りプレイヤーであるファン・セバスチャン・ベーロンが、「ニッポンチーム?よく知らないなあ」とニコニコしながら言っていたのを思い出す。

前置きが長くなったが、そのアルゼンチンの首都ブエノス・アイレスに行って来た。残念ながら都合が合わずサッカーは観戦できなかったのだけれど、本場のタンゴと熱狂サポーターに遭遇できた。まずは、タンゴ。銀髪のおばさんがミニバスでホテルまで迎えに来てくれて、エル・ビエホ・アルマッセンという店に着いたのが、20時過ぎ。たった一人で参加した客は私一人で、ほとんどが夫婦かカップルで来ていた(当たり前か)。ワイン1本のサービス付きのディナーが始まる。ほとんど英語が通じないのだが、メニューには英語が併記されていて助かった。後でわかったことだが、左隣は、チリ人の中年夫婦。二人でワインを2本、あっという間に空けていた。向かいは、ブラジル人の母親と娘(と言っても、当時の私より年上)。右隣は、ペルーからの団体客。彼らが最高に面白く、ボーイに団体写真の撮影を依頼するのだが、全員がそれぞれのカメラを差し出すので、髭のセニョールボーイは10回くらい撮影に付き合わされていた。さて、ワインがあまり得意でない私であったが、ここは日本男児残すべからず!と、どうでもいいことに頑張り、結局3/4程飲み干したところでギブアップ。最後はカフェレチェを頼んで鑑賞前の気合いを入れ直した。

食事後、真向かいにあるライブハウスらしき場所に移動。何となくそれまでも視線を感じていたのだが、椅子に座ると、すぐに向かいで食事をしていたブラジル人の娘さんの方が話しかけてきた。「なんで、アジア人は、いつも一人で行動すると?」「いや〜、一人でこの国に来たもんで。」「そやけど、それじゃあ、つまらんやなかと?」「ええ、まあ。ところで、ラモス知ってますか?ラモス・ルイ」「はぁ?知らんばい。」「じゃあ、ビスマルクは?」「あぅぅぅ、堪忍ぇ~」「日本でプレーする前は、バスコ・ダ・ガマの選手だったんですけど。」「あー、そのサッカーチームは有名っちゃもん、知っとーとよ。」といった具合に、博多っ娘のように気の優しい女性で、演奏中もいろいろと曲の解説などをしてくれた。

で、肝心のショウはというと、...それがなんとも、実に素敵なショウだった。ステージに向かって左からバイオリン奏者2名、中心にアコーディオン奏者2名(彼らが最高!)、その左にウッドベース奏者と、最後にピアノ奏者。アコーディオンの音色がすばらしくカッコイイ。情緒的で情熱的な旋律にラテンならではのメリハリの効いたビートが刻まれていく。踊りがまた本当に素晴らしい!数年前にマドリッドのバルで見たフラメンコとはまた違った味わいがある。ショウが終わったときは、すでに0時をまわっており、帰りのバスでは意気投合した皆はスペイン語が主であったが、私も時折、つたない英語で仲間に入れてもらい、大いに盛り上がった。

さて、帰国する日のこと。飛行機の時間まで少しあったので、ホテルのロビーでうろうろしていたら、奥の会議室で、どこかのスポーツ選手らしき集団がミーティングしている。監督らしい人の声の度合いで、試合前の檄を飛ばしていることがなんとなく伝わってくる。後から分かったのだが、彼らは隣国ウルグアイの名門(南米王者としてトヨタカップに来たこともある)ナシオナル・モンテビデオの一団だった。そのうち、ホテル前が騒がしくなり、なにやら歌が聞こえてきた。帰る頃には少し仲良くなっていたホテルのボーイが、あれはナシオナルのサポーターでウルグアイアンです。これから、ベレス・サウスフェルドとリベルタドーレスの2次リーグ進出をかけて戦うんです。というようなことを、説明してくれた(サッカーに関する会話はなんとか聞き取れた)。そうこうするうち、選手が出てきて、ホテル前に止まったバスに乗り始めた。そのときのサポーターの騒ぎぶりが、凄かった。日本に帰ってから分かったのだが、ナシオナルには、オーストラリアとのプレーオフで決勝ゴールを決めたリカルド・モラレスというFWの選手がいたのだ。なんとも刑務所の経験もある暴れん坊で有名な選手らしいが、プレーオフでの得点を機に飛躍した選手とのこと(雑誌Numberより)。当時のウルグアイは、ダ・シルバとレコバといった強力なフォワードを擁しており、モラレスとてレギュラー確約ではなかった。フランチェスコリをはじめとする優れた点取り屋の系譜をフォルランやスアレスが引き継いでいくことになる。