ナポレオン・キッド



現在、名古屋市で要職を務める友人の名誉を傷つけないよう、名前は伏しておこうと思う。当時、中学校に入ったばかりのひでふみは、あらゆる面で育ち盛りのさかりのついたシャチホコであった。そんなとある土曜の昼下がり。「ひでちゃーん、ちょっとお母さん、デパートに行ってくるから。夕方までには戻るからね。」「うーん、行ってらっしゃ~い!」進学校に入ったひでふみは、母親に対しても型どおりの優等生を演じ、純朴な笑顔を携えて玄関まで見送るほどの念を入れた。内心『やっと、おっかぁの野郎、出かけてくれたでよぅー』と小躍りしていたため、いつも以上に愛想の良い息子の態度に、母親の心がざわついていたことなど知る由もなかった。しょせん12のガキんちょである。

このチャンス到来に、ひでふみは色めき立った。3日前に届いた漫画出版社からの紙包みをベッドの下から取り出し、トイレに駆け込んだ。今の実情は知らないが、1970年代の漫画雑誌の巻末には、いかがわしい広告を掲載するいかがわしい会社がいくつもあり、ひでふみが手にした封筒の送り手も、そのいかがわしい一社であった。【魅惑のランジェリーが貴方の手元に!今すぐ艶やかなひとときを】ネット全盛の今では、ネコも見向きもしないような広告であったが、昭和の典型児であったひでふみはすぐさま飛びついた。特に食い入るように何度も読み返した一文。【ご安心を。当社からのお届け物は、書籍と同じパッケージにて、出版物として出荷いたします。】

「ひでくーん、なんか本が届いてるわよ」「えっ?あっ!」「なんか買ったの?わざわざ郵送で買うなんて珍しいわね」「あ、あ、特別号なんだ。あ、あの、本屋では売ってないんだ」「へっー」洗い物の途中であったため、母親はさして不思議がることもなく、会話はここで終わった。はずであったのだが、郵便物をひったくるように小脇に抱え、2階へと駆け上がる息子の尋常ではない素早さに、母親が本能的に違和感を覚えたことを、ひでふみは知る由もなかった。しょせん12のシャチホコ太郎である。

さて、勢いよくトイレに駆け込んだひでふみは、即座に購入した品を取り出し、改めて便座に座ってその艶やかな光沢とフォルムに目を奪われた。『ついに、穿けるんだ』ひでふみは改めてウットリした。『やっぱり赤にして良かった!』どうしても一度は手に入れたかった、いや穿きたかったシルクのTバック。柔肌を滑るような青か、湿った艶めかしさの紫か、はたまた燃える吐息が息づく赤か、ひでふみは迷いに迷った。そんな迷える子羊ひでふみを欲情の舞台へ誘(いざな)ったのが、イザナミノミコト、ではなく、ひでふみが当時心酔していたアイドル安西マリアであった。『マリアは赤を穿きたいわん』ひでふみには聞こえたのだ。神のお告げ、マリア様の囁きが。

ひでふみは、貪るように穿いた。生まれて初めてのTバックなのだ!ギ~ラギ~ラと太陽が燃えるのだ!マリアも穿いてる赤なのだ!どれくらいウットリしていたのだろう。ひでふみは、時間がたつのも忘れ、別のものがおっ立った間抜けな下腹部に見入っていた。「やっぱりはみ出ちゃうか・・・」ひでふみがひとりごちた、その時であった。

「カチャ」玄関のドアが開く音がしたのだ。ひでふみは、当然のごとく狼狽した。『ええぇ、、、ええっ、、、』ひでふみは心で叫びつつも、本能が手足を動かした。まず、生まれて初めてTバックを脱ぎ、替わりにだらしなく脱ぎ捨てられていた自分のトランクスを穿いた。この状況では、いらぬ情報だが、ひでふみはブリーフではなく、断然トランクス派であった。

ほとばしる冷や汗をぬぐいつつ、ズボンを引き上げようとしたまさにその時であった!「ガチャ」今度は、はっきりと目の前で音がした。「ええぇ、、、ええっ!」今度は、はっきりと口で叫んでいた。「ひでちゃん、あんた何してんの?」ひでふみの思考はストップした。目の前に母親が立っているという、むごたらしい現実がそこにあるだけである。そんな過酷な状況下においても、ひでふみの本能だけは生きていた。

「ナッ、ナポレオン!」運悪く右手に握りしめたままであったマリアのTバックを、咄嗟に頭に被っていたのだ!と同時に、母親が、開いた口を右の手で覆い隠していたことは言うまでもない。ついでに書けば、引き上げかけていたズボンがずり落ちてしまったことも書くまでもないであろう。

話としてはここで完結なのであるが、若い人向けに(そんな読者はいるのか?)、帽子芸で一世を風靡した早野凡平という帽子芸の芸人さんに触れておこう。彼の十八番が、「ナポレオン」であった。ひでふみが、かろうじて繰り出した苦汁の一手。シャチホコ太郎12才。脳みその限界であった。