石巻ガス本社ビル大津波 YouTube


石巻ガス本社ビルでの大津波 YouTube へのリンク
(石巻新漁港の近く)


ビデオは私が撮影したものではありません。
ビデオが撮影された場所は、下の地図からわかる。  


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図1.石巻市の渡波地区の地図: 向かって右から左へ赤い丸が8個ある。

(もっとも右の赤丸)サンファンバウティスタパーク  (8 メートル浸水
館内のエレベータ脇の壁にここまで8 メートル浸水したと表示がある)
(左へ)自宅(285センチメートル浸水)、 
(左へ)私の個人的避難場所(際(きわ)地区) (海岸線から垂直方向に2200メートルの山すそ)、
(その下(松林のすぐ北側))渡波中学校、
(さらに左が)鹿妻小学校(たぶん60センチ浸水)(海岸線から1100メートル)、 
(さらに左の赤い楕円が)ヨークベニマル(海岸線から700メートル、 およそ300センチ浸水)、
そして石巻ガス本社ビル(魚市場の岸壁からおよそ470メートル)。
さらに左に北上川、と日和山(または日和ヶ丘)(石巻高校がある)。

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さらに拡大した地図



図2. 石巻ガス本社ビル 周辺の(拡大した)地図 
南側(下段)が石巻魚市場とその岸壁
石巻ガス本社ビル前の東西、南北両方向に
中間地帯付きのたいへん広い道路がある。
広い道路が津波の水道の役目をした。

魚加工団地エリアは、岸壁から陸地方向350メートルにある。
魚加工団地には一般住宅はない。
この周辺の一般住宅は大津波前からまばらであった。

1. ビデオを見て気が付いたこと

水位は短時間で上昇する。 
海水が足元まで来たならば、あっという間に水位は上昇するからとても逃げられない。

最高水位状態は短時間で終わる。 最高水位に達すると一転水位の下降に向かう。 
水位の上昇よりも下降スピードは比較的遅い。

広い道路を通過する津波であっても(場所によって)水位は一様ではない。
画面に向かって道路の左側が右側よりも明らかに海水面が高い。
岸壁から突き出た大きな突堤のない側とある側のちがいであろう。
また、5−20メートル場所が異なると、眼で見てもわかるほど水位が異なる。
道路わきの通路、家の軒先ではさらに水位が低い。
流れてきた自動車がひっかかった道路わきの柱で海水が盛り上がるのが見える。

大津波後、町の中で津波の痕跡(浸水深)をあちらこちら測ってみた。
5、10、20、30メートル離れただけで浸水深が異なる経験と一致する。

渡波漁港の船だまり付近で、かつ海水が渦を巻くような場所では、家屋が流失するだけでなく、
地面が50センチメートルほどえぐりとられて窪地になっていた。 
このビデオを見るとあり得ることだと納得できる。

書籍には、津波の流れを弱める効果が松林にあるとある。 そして、
松の木の高さの半分以上の津波で松の木は倒木するとあった。
けれども、ビデオを見ると松の木の高さの4割ほどの浸水深で既に流失が始まっている。
ビデオにあるのは松林ではなくて松の木の小さな群落であるせいもあるかもしれない。
松の木の流失は、初めに津波の流れの前面の木が流失し、次に流れの最後端の松の木流失する。
そして再び津波の流れの圧力の大きい前面の松の木が流失し、次に再び津波の流れの(渦が発生する)後端の
松の木が流失するを繰り返しているように見える。 (そして松の木はぜんぶなくなってしまった。)

1960年のチリ地震津波(55年前)では、短時間で海水面が変化することはなかった。
10分単位、数十分単位で海水面が上下した(私が見た範囲)。 
津波だからといっても、いつも同じではない。

 
正面に石巻ガス本社ビルをガスビル前の十字路から海側へ3本目の電信柱に寄りかかりながら撮影


石巻ガス本社ビルを海側道路の中間地帯前面から撮影
ビデオに写っている広い道路の海側から石巻ガスビルを見る。
ビデオからは3-4階建てのビルのような印象を受けるが実際は写真のように二階建ての事務所である。 
津波の海水は、この道路に沿って石巻ガスビル方向へ激流となって流れ込んだ。
浸水深は、4.6メートル: 石巻ガスビル正面入り口に ここまで浸水4.6メートルの表示がある。
浸水深は、5.1メートル: 液化天然ガスのタンク(円筒状のタンク)の脇に、5.1メートル浸水の表示がある。

中間地帯にあった松ノ木は1本もなくなっていた。
道路は広い。 広い中間地帯(私の歩幅で24歩、およそ幅18メートル)、その両側それぞれに二車線の道路と5メートル幅の歩道がある。 昭和30年代は全面松林だった。 昭和45年頃新漁港が開港し、魚加工団地が造られた。 そのとき、松林は切り開かれた。 道路の中間地帯に松林の名残りのみとなった。 今はそれもない。 

2. どうして石巻ガスの職員は避難をしなかったのか? 避難をしなかったから、
   いつまでも残る貴重な大津波のビデオを撮影することができたのだが・・・。

ビデオの 2分49秒 に 「みな中(ちゅう)は大丈夫だ」 と声があるのは湊(みなと)中学校のことだ。
湊中学校は、宮城県沖地震の後、耐震補強され地域の避難所として指定されていた。
湊中学校は、この日、卒業式があり、卒業式は午前中に終了した。

湊中学校は、北西方向に直線で450メートルにある。
湊中学校は、道路を歩けば10分以下、およそ700メートル先にある。
ビデオ開始から2分50秒−2分55秒の画面右上にカマボコ型の港中学校の体育館が写っている。
上の地図からもわかる。

石巻ガス本社ビルの職員は、津波が到達するまでの50分間に何をしていたのか?
避難をすればできたはずなのに、避難をしなかった。
なぜ避難をしなかったのだろうか? 

社員38人が避難した石巻ガス本社屋上の写真 (ガスエネルギー新聞社) への リンク 
(鮮明な写真がある)

2016年2月石巻ガスの二人の社員の方からお話を聞かせていただく機会があった。

 次のような質問をした。
   1. 2011年3月11日大津波前 津波の避難訓練を会社として行っていましたか?
   2. 大津波警報がある時に避難をする特定の場所を会社として決めていましたか?

 そして次のような回答があった。 (ただし、会話の内容を私なりにまとめた。)
   震度4、5の地震があれば社員は会社に集合することになっていた。
   ガス漏れなどの電話が会社にたくさんあるからである。 しかし、
   会社として津波の避難訓練はなかった。 津波の時の特定の避難場所は決めていなかった。
   津波の体験がある社員は会社の中ではこれまでだれもいなかったので・・・。
   3月11日以降は災害時のマニュアルを作成した。

私の感想: 津波の体験のある社員は誰もいなかったとのことであるが、確かに1960年のチリ地震津波を
体験した人はいなかったかもしれない。 しかし、津波警報は、チリ地震津波以降2011年の大津波までに
何度も出ている。 大概は海面が上下する程度で被害はなかったが、何度かは魚市場の岸壁を越えて
水揚げ岸壁が水浸しになったこともあったはずである。 岸壁から500メートルにある会社の人間が
そのことを耳にしないはずはない。 だから津波の体験がまったくなかったとはいえない。 
体験はあるのである。 ただ関心が薄かっただけだと考える。

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石巻市魚市場: 石巻ガス本社ビルからさらに海に近い、
            太平洋の岸壁に沿って長い建物、石巻魚市場がある。

3. 石巻魚市場の職員はどのように行動したか? 


2015年10月15日石巻魚市場の2階入り口わきのホールで講演会があった。
講演会終了後新しい魚市場の見学会があった。 見学に先立ち事務職員の説明があり、
その中で、「石巻魚市場の職員は3月11日の大地震の後、全員がすぐに避難をしたので
大津波による犠牲者はなかった」 と、スピーチがあった。

1ヶ月半後の12月になり、思い切って石巻魚市場に電話で大津波避難について問い合わせてみた。
全職員何人が、何時(いつ)、何所(どこ)へ避難をして全員無事だったのか知りたかったからである。
電話を受けた女の人が石巻魚市場の責任者の方に取り次いでくださった。 それによると、

石巻魚市場の責任者(70歳代の方)のお話:
「大地震の直後6メータの津波警報が出たことを知った。 職員はみな若く津波の体験がないので、
全員、津波が来るとは思っていなかった。 何しろ前年の3メートルの津波警報でも
海面が少し上下しただけだったからである。 そうではあったが、全員すぐに職員を帰宅させた。
石巻魚市場の職員は全部で50名である。 魚市場は朝が早いので、
早朝から仕事をして午後には帰宅するグループと午後も仕事をする二つのグループに分かれる。
早朝組は、仕事が終わり既に帰宅していた。 残りの、
午後も仕事をするグループを全員すぐに帰宅させた。 このため犠牲者は出なかった。
魚町(さかなまち)は魚市場と魚加工会社があるだけで一般の人の住む住宅はない。
魚町は、もともと人が少ない。 魚町では、津波で足をすくわれた人が何人かいたようだが
犠牲者は少なかった。」

以上のとおりです。 なるほど、これでわかった。
全職員が特定の場所に避難したわけではなかった。 
魚市場の責任者が勤務中の 「職員を帰宅させた」 のだ。
帰宅した後の各職員の行動は不明だが犠牲者はなかった。
お話を聞いてみなければ本当のことはわからないものだな、と思った。
(お話を聞いたことを私なりにまとめた。 曖昧にした方が良いと考えた部分は曖昧にした。)

       
       図3. 石巻魚市場: 大津波から1年後の2012年3月4日に撮影
       二階の事務所の窓ガラスは全部壊れて一枚もなかった。
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       一階は、せりの(魚)市場、トラック積み込み用スペース、倉庫などがあり、
       二階には、魚市場の営業部、事務室、電算機室、さいたろう食堂があった。
       1年後の写真なので、復旧工事のため通路のコンクリートを剥ぎ取った状態だと思う。
       その後すべて解体されて、しばらくは仮の大きなテント造りの魚市場で営業があり、
       その後、国際基準の衛生的な新しい魚市場が完成し、営業している。

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(以下別のページに作り直すこと)

4. 昔(1960年チリ地震津波の頃)のこの辺の松林の様子

図1.右下にみえる松林は、西側北上川川口方向に向けて湊(みなと)中学校裏門入り口前まで広がっていた。
つまり、東西方向におよそ3000メートルの(現在の三倍近い)松林があった。 松林の厚み(幅)も、
海岸の砂浜の手前まであったからそうとうに厚く、鬱蒼とした松林であった。 
塩害を防ぐ目的の松林と聞いている。
県道(今の国道398号線、通称女川街道)からは、当時は松林があるので
太平洋を見通すことはできなかったが、今は大津波により松林はまばらになり、
国道398号線から太平洋が透けて見える。
1964年の東京オリンピック以降ではないかと思うが松林が大規模に切り倒されて
石巻新漁港
とその後背地に魚町(さかなまち)魚加工団地が作られた。

現在の松林の東端、東側方向にはかってはさらに300メートルほどまばらに松林があった。 
1960年のチリ地震津波では、海岸線に通じる松林の間の道路は海岸線から150メートルほどまで浸水した。 
松林のあるところは、海岸線から50メートル(たぶん)ほど浸水した。

1960年のチリ地震津波の数年後からこの松林が切り倒されて人が住み始め、松原町(まつばらちょう)が出来上がった。
松原町に住み始めた人、住んでいる人たちは、津波が来れば大きく浸水する所であると自覚していたはずだ。
このように断定してよい。 なぜならば、1960年のチリ地震津波で浸水した。 新漁港ができたために
広い砂浜が小さくなり、最後にはなくなってしまった。 そのため、大潮、台風の暴風時堤防付近は海水が堤防を越えて
冠水するので堤防を2度にわたり改修し高さを高くしていた。 そのような町内だからである。 
それにもかかわらず犠牲者が多く出た。

2011年3月11日の大津波では、松原町は、7人に一人の割合で犠牲となり、
家の全壊率は95.5パーセントであった。
大津波前、松原町は、245世帯571人の町内であったが、大津波により82人が亡くなった。
津波が来れば被害が出ると知っていたはずの町内の人であってもこれだけの犠牲者が出た。
津波は地震の後、ゆっくりと、およそ50分後に海岸に到着したにもかかわらず・・・、である。

 (世帯数と人の数は大津波前年の石巻市の 「住民基本台帳 字丁別人口」 から調べた。 
  犠牲者数は石巻市から非公式に教えていただいた。 
   また、宮城県警察の死亡者リストによれば 松原町の犠牲者数は79人である。)
   
石巻市の南浜町、門脇町は、日和山(日和ヶ丘)から見渡せるので
石巻市の大津波被害としてテレビでしばしば放送される。
しかし、松原町は日和山からは見えない。 だから、書籍、写真集に掲載されても、
テレビではあまり放映されない。 テレビで放送されなくても被害が大きかった町内もある。
このことも知っていただきたい。
   


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5. その他

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