第六話:違反の代償


車、と言えば何だろう。

車と言えば、あの娘とデートさ。夜景がきれいさ。
車と言えば、シュトコーは俺のサーキットだぜ。
車と言えば、4WD で冬はスキー、夏は河原でバーベキューじゃん。

という皆さん。何か忘れちゃいませんか。そう。車と言えば違反である。

私の免許証は金ではなく青である。何故かといえばもちろん違反しているからだ。 思い返してみると、バイク時代にスピード違反一回、逆走一回。 レンタカー時代(?)にはスピード違反一回。追い越し違反一回。 結構な額を日本国に貢いでいるのだ。

その日は太陽がとてもまぶしくて、少し暑かった。 昼前頃。第一京浜は空いていた。御存知の通り比較的広くて走り易い道だ。 免許を取り、バイクを入手し、そろそろ慣れてきた頃。どうです。飛ばしたくなる 条件が揃っているではありませんか。 というわけで絶好調で大学への道を飛ばしていたわけです。 と、その時突然右側を追い抜く白いバイク。左に寄れとの合図。

嗚呼、青い空。青い切符。私は一つの教訓を得ました。 運転の際には後ろに気を配れ、と。

後ろに気を配りながら通学の日々。 切符の青い色を忘れかけた頃に事件は再び起こった。 葛西橋というのは私の通学路の中でも有数の混雑ポイントである。「バイクは 車の間をすり抜けられるから渋滞なんて関係ないでしょ」なんて言うあなた。 あなたは勘違いしている。バイクは紙じゃない。何でもすり抜けられるという わけではないし、あまり強引なすり抜けは車に迷惑でもある。

だがしかし、その日はちょっと事情があった。 試験だったのだ。それも去年落とした科目。早く着いて準備せねばならぬ。 準備というのは良い席の確保とか、机に公式書いておくとかそういうことなんだけど それはさて置き、そういうわけでちょっと焦っていたのだ。 葛西橋へ向かう車線は車がびっしりで、左をすり抜けるのも難しい状態。 ふと反対車線を見ると、がらがら。もう道が「ここをお通りなさい」と 語り掛けておる。その誘いに乗ってするすると反対車線を走り始める。ををこりゃ 快適バイクってステキらららん、と交差点に着いた時、交差点のド真ん中に お巡りさんがニコニコと手招きをして待っておりましたとさ。

嗚呼、また会ったね。青い切符。私はお巡りさん相手にこれから試験であること、 去年単位を落として後がないこと、せめて処理を後回しにしてもらえないか、など 頬に太い太い涙の筋を描きながら延々と泣き落とし作戦を展開したのであるが 「そう。大変だね。ここに名前書いて」と全く聞く耳持たぬ。

私はまた教訓を得たのだ。そもそも単位を落とすな。

レンタカー時代のスピード違反も、なんというか悲しい想い出だ。 舞台は北海道。そう、あの、でっかいどうほっかいどうである。海外であるからして 交通事情も東京とはかなり異なる。北海道のカントリーサイドともなれば 道はまっすぐ、車は少なく、人も少なく、地平線など見え、牛は草を食んでおり、 しばらく走っているとスピードの感覚が狂ってくる。 100 Km 近い速度をそれほど速いと感じなくなってくる。

そこに一台の乗用車が。我地元民なりを誇らしげにナンバープレートに示す カローラが、制限速度 50 Km 丁度で立ちはだかったのである。 道の真ん中には無情にも黄色い実線が引いてある。追い抜けない。 元々せっかちな私だが、これは焦れた。そして待望の二車線。 アクセルオンだ俺は風になるぜベイビー!ををっワンダフル北海道! あれあそこで振られてる赤い棒は何?

警察は、ドライバーがどういうところでスピードを出したくなるのか 熟知しているのだろうと思う。そしてそこに罠を仕掛ける。 それにあっさりひっかかる間抜けがいる、と。俺のことだ。とほほほ。

違反はいけない。だからつい最近自動車を入手した私は今非常に安全な ドライバーである。と自分で思ってるヤツが一番危ないんだけれど、 「まだまだ自分は危ないのだ、気をつけなければ」と意識してるという意味で、 まだマシなのではないかと思う。

ところが魔の手はいつのまにか忍び寄ってくるのだ。

五月。良い天気。日曜。朝。暑くもなく寒くもなく。穏やかな風。 その日私は近所にちょっと用事があり、嫁をつれて車で出かけたのであった。 何事もなく目的地につき、さて鞄を持って車を降り…

鞄を…

鞄は?

ない。鞄がないぞ。あれには財布だの家の鍵だのザウルスだの 一式入っているのに…今手元に財布がない…財布の中には免許も…

免許?

つ、つまり今私はまさにそのなんというか…

免 許 証 不 携 帯

うあああ。違反だああ。おおお俺は前科者だあ逮捕されるすすすすぐに戻らねば 戻らねばって車乗ったら免許不携帯を重ねてしまうではないかもうだめだ死刑だ。

激しく動揺する私である。唖然とする嫁をその場へ置き去りにして車に飛び乗り (←結局乗っている)、すぐさま家へと一目散に走り出す。

悪いことをしているときは、どうも周りの視線が気になったりするものだ。 自分が道を歩くとき、自分の前を横切る車、そしてそれを運転する男の顔を 意識してまじまじと見るかというと、まあ大抵は見ないわけで、でも女性だと ちょっと見ちゃうかもしれない、ああ男ってしょうがない、え、俺だけ? まあとにかく普通そんなに見ないと思うんだけれど、 どうも道行く人がこちらを見て (あの人、免許証不携帯よ) と思っているように 見えてしまうのだ。あそこの妙にスーツの似合わない大柄なおっさんは 実は私服警官ではないのか。あああ。つい出来心で。信じて下さい。

はあはあ。やっと家だ。無事車を駐車スペースに納め、冷や汗をぬぐいながら玄関へ。 あーえらい目にあった。逮捕されなくてよかった。まずお茶でも飲んで一休みだ。 えーと、鍵…

鍵…

賢明な読者諸君よ。その通りである。鍵は、鞄の中である。鞄は、家の中である。 私は、家の外にいる。そういうことだ。 一家の主であるこの私が家に入ることを許されない。こんな理不尽なことが あって良いのか。入れないと悟った瞬間の我家の佇まいを私は一生忘れないであろう。 他人の家とはまた違う、異様に余所余所しい雰囲気。通学で毎日使っている電車で ちょっと居眠りして一駅乗り過ごしてしまい、あっ、乗り過ごした、と思った瞬間、 見慣れているはずの車内風景が妙に違って感じられるあの感じに似ているだろうか。

なんの役にも立たない車の鍵を握り締め、 私は近所の公園へ、とぼとぼと歩いていった。家を締め出され、所持金はゼロ、 ついでにいうと無精髭。こんな男の行く場所は公園しかないではないか。

子供たちがはしゃぎ、親がそれを優しく見守り、若者はスポーツに汗を流し、 老人はゆっくりと散歩を楽しむ中、私は一人公園のベンチに寝転がり空を見上げた。 ああ。悲しいまでに青い。 雲が形を変える様をこんなに見詰めたのは何時が最後だっただろう。 嫁の用事が終るまで、あと数時間。真っ白な時間。 スズメや、あるいは時折ツバメが視界を横切る。 木漏れ日。そよ風。いつしかうたた寝。と、その時手の甲に冷たい感触。

…鳥の糞。

もう笑うしかない状況の自分をやけに客観的に見つめながら、 そばの水飲み場で手を洗い、なんというかこの、人間の悲哀を、人生の陰影を、 噛み締めていた私である。免許証不携帯というささやかな罪に対して与えられた 罰を真摯に受け止めながら、ちょっと思った。

ま、こういうのも、悪くないか、と。


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