第二十二話:涙の理由


トミコさんとシホコさんは親子です。

トミコさんは、とても元気で、世話好きな人だったのですが、 数年前、悪性の腫瘍を患い、長い闘病生活を続けておりました。 ひと月ほど前、ついに入院することとなり、 二週間ほど前に、一般病棟から緩和病棟へ移りました。 緩和病棟というのは、治療回復ではなく、 痛みを和らげ、安らかに過ごすことを目的とした場所です。

このひと月、病状は加速度を増すように悪くなっていきました。 入院当時は「看護婦さんが薬を時間通りに持って来てくれない、 この部屋には時計もないので自分も時間が分からない、 だから時計を一つ持ってきて」なんて、元気に文句を言っていたのですが、 徐々に言葉が減っていき、表情が失われていき、 大好きな孫のこっちゃんのはしゃぐ声を喜ばなくなっていきました。

病室には、トミコさんの旦那様や、兄弟、親戚、そして娘達が、 毎日見舞いに来ていました。その日は、遠くに住んでいる息子さんも、 飛行機に乗って病院まで来ていました。

シホコさんは、前日の夜、「容態が急に悪くなった」という知らせを受け、 病院に駆けつけました。トミコさんは、苦しそうに息をしています。 腫瘍は肺に達し、呼吸が困難な状態にあったのです。 いびきのような音を立て、なんとか空気を吸い込んでいるのですが、 時折それが止まってしまうのです。「お母さん」と声を掛け、 手や身体をさすってあげると、目をかっと見開いて、 「ひゅう!」という声と共に大きく息を吐き出し、 再び苦しそうな呼吸が始まる、という感じでした。

今、トミコさんから発せられる声は、最早その「ひゅう!」という音だけでした。 ほとんどの時間、目は閉じられ、時折開けられても焦点は定まらず、 何を見詰めているのか、周りの者には分かりません。 話し声に反応することもなくなってしまいました。 苦しそうな呼吸と「ひゅう!」が、ただ繰り返されていました。 トミコさんの旦那さんは 「ひょっとしたら、この小康状態がしばらく続くのかもしれん」 と話していました。

状態は確かに悪い。けれど旦那さんは、いえ、多分そこにいる皆が、 「あの元気なトミコさんが死んでしまう」ことを、 上手に想像することが出来なかったのかもしれません。

午後七時過ぎ。前日もあまり眠れず、また急に家を飛び出したため、 何の用意もなかったシホコさんは、一旦家に戻ろうと思いました。 まだしばらく小康状態が続くのではないか、という思い。 続いて欲しい、という思い。そして、もしものことがあっても、 何十年か後には、また天国で会える、という思い。諸々の思いを籠めて、 手をさすりながら、「おかあさん、また会えるからね」と話しかけました。

その時、トミコさんの両目から、ぽろぽろと涙が溢れ出たのです。

言葉を掛けても、身体をさすっても、 最早なんの反応もなくなったトミコさんが、涙を流したのです。

涙の意味をぼんやり考えながら、シホコさんは病室を後にし、 ナースステーションに置いてある来院者ノートに帰宅時刻を記入し、 一旦家に帰る旨、看護士さんに伝えました。

看護士さんは言いました。 「ここからモニタで脈拍や呼吸等をチェックしているのですが、 かなり弱っているように見受けられます。 今は、あまり遠くに離れない方が良いと思います」

シホコさんはちょっと迷って、結局病室に残ることにしました。

時間は七時半過ぎ。 病室に残っていたトミコさんの旦那さんや親戚、息子や娘達は、 ちょっとだけ外へ出て、急いで食事をしてくることにしました。 八時になると近所の飲食店が閉まってしまうから。 でも、ほんの一時でも、誰もいないのは寂しくて可哀想だから、 シホコさんは残ることにしました。 病室にはトミコさんとシホコさんがぽつりと残されました。

静かな静かな病室で、トミコさんに届いているのかどうかわからないまま、 シホコさんはトミコさんに話しかけていました。手をさすりながら。

すると突然、看護士さんが病室へ駆け込んできて、 トミコさんの状態を慌しく確認し始めました。そして、こう言ったのです。 「モニターを確認していたところ、呼吸と脈拍が停止しました。 ご家族に大至急連絡して下さい」と。

シホコさんはその時、涙の意味を悟ったのです。

トミコさんは、最早自分の命が残されていないことを知っていた。 今シホコさんが帰ったら、もう二度とこの世で会えないことを分かっていた。 あれは、終の別れを悲しむ涙であったのだ、と。

掛けられた言葉に対して、声はおろか、 表情を変えることさえ叶わなかったトミコさんでしたが、 きっと、意思はちゃんとそこにあったのだ。全てが聞こえていたのだ。 シホコさんはそう言います。

トミコさんは、家族たちを驚かさないように、そうっと旅立って行きました。 ただ一人そばに居て、 言葉を掛けていたシホコさんにさえ分からないぐらい、そうっと。 それも、トミコさんらしい心遣いだったのかもしれません。

ところで、最後にシホコさんはトミコさんに、何を話していたのでしょうね。 「内緒」なんだそうです。


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