第十五話:親父の一番長い日


2001/06/17 (Sun)

■ 2:30

夜中。突然志緒が横でごそごそし始める。「水が出た」 …ってなんのこっひゃ…こっひはまら寝てまふむにゃむにゃ…「破水」 …はーすい?ってのわ風水の親戚ですくぁ?ふにゃふにゃ… 「下に行ってバスタオル持って来て」…んあ?ひょっとして何か起きたんでしょーか… この辺でやっと目が覚めてくる。

バスタオルを取ってくると、志緒は電話中。今からすぐ病院に行くという。 しえええ。夜中の三時でっせ。こんな時間に叩き起こされちゃう病院って大変だなぁ、 とどこか間の抜けた感想を持ちつつクルマを走らせる。

■ 3:30

すぐに診察開始、こちらはぼけーっと待合室で。ほどなく看護婦さんが出てきて 「すぐに入院となります」なんと。えーと入院期間ってのはどのくらいなんですかね? 「破水から始まった場合は長引くケースも多いのですが、多分今晩ではないかと 思います」はぁ、今晩、ね。

今晩?

今晩なによ?

「いえですから産まれるのが」

…産まれる?

でぇーっ!? 産まれるの? 今晩? ちょちょちょちょちょっとちょっと!

予定日は 7 月 2 日。もう推定 3000 グラムだし、出て来てもおかしくない 大きさだという事実を理解してはいたんだけれど、現実味はあまりなくて、 ココロの準備ってモノがこちらには全くない。

今晩産まれる!? しかしまぁ、破水ってものを全く理解していない旦那ってのも如何なものか。

入院費等について説明を受ける。産まれた日を入れずに五日目に支払が発生します、 四十万ぐらいです、とのこと。出産費用は結構高いからボーナス後に産まれてこい、と ついこの間冗談を言ってたっけ。どうやらボーナス後になりそうだ。 親孝行な子である。

看護婦さんには「アンタがいてもしょーがないからとっとと帰りなさい。心配ない」 とゆー感じで見送られる。

■ 4:15

長引いたら月曜か、会社行けないかもなぁ、月曜にやることあったなぁ、と 妙に冴えた頭で考える。会社にアクセスし、必要なデータを共用サーバにまとめて 放り込み、後は任せた!と関係者にメールを打つ。気付くと五時。 少し寝たほうが良さそうだけど、どーも眠れん。

■ 7:00

志緒から電話。「なんか全然痛くならない」と元気な電話。「痛くない」というのは 通常めでたいことだが、この場合はちと違う。痛くなって産道が開かないと 子供が出てこられない。「面会時間は昼の一時から夜九時だって」 さよか。んじゃ午後イチにでも行くかのう。

■ 8:00

志緒の実家とおれの実家に電話。どちらの家も喜んでくれる。 祝福されて産まれてくるというのは幸せなことだ。

志緒の実家であるワタナベの家は、入院した病院から歩いて十分ほどのところにある。 なので昼飯をごちそうになって、そのあと一緒に見舞いに行くことにしよう。 などとちゃっかりしたコトを、こーゆー事態の最中に考える 旦那というのも如何なものか。

■ 12:30

ワタナベ家到着。食事中、志緒から電話。安定剤を飲んでこれから寝るので 面会に来るな、とのこと。冷たいのぅ。それでは仕方がない、と 一旦家に帰ることにする。 夕方、義母が病院に様子を見に行き、起きていたら連絡をくれる、という手はずに なった。 つまり、ただ単に昼飯をご馳走になっただけ、さらに義母に偵察までさせている おれであった。如何なものか。

■ 14:00

家着。どーも落ち着かない。電話の側でうだうだする。なんとなくドリキャスで Sega GT など立ち上げてみるが、当然上の空である。 というかそんなものを立ち上げているのは如何なものか。

■ 17:00

義母より「まだ寝ている」との電話。乾しっぱなしになっていた洗濯物を 畳んでみたりする。家の中が、しんとしている。

■ 18:00

義母より「起きた」との電話。すぐに病院に向かう。特に大きな荷物もないし、 病院や実家には駐車場がないこともあり、今回は電車で出撃。 日曜日の街はいつも通りのにぎわいだ。なんとなく自分が浮いている気がして 変な感じ。

■ 19:00

産婦人科着。まだ痛くならない、とのこと。先生、人差し指と親指で 直径 1 cm ぐらいの小さな輪を作り「まだ産道がこれっくらいしか開いてないんだ。 10 cm ぐらいは開かにゃならん」うーむ。これはまだ時間がかかりそうだ。 今日は実家に泊まることにする。ここなら何かあった時に歩いて駆けつけられる。

■ 19:30

実家着。ご飯も頂いたし、お風呂もありがたかったし、先日義父と義母が行った トルコ旅行の写真や音楽も楽しかったけれど、なんというか、全てが「暇つぶし」 みたいな感じだ。我ながら失礼だと思うけれど。

■ 22:30

就寝。昨日も良く寝てないし、少し休まないと、と思いつつ眠れない。 風呂で暖まり過ぎたのか、少し暑い。 まぁ無理してもしょうがないか、とたまたまカバンに入っていた「私の出会った 子供たち」(灰谷健次郎) を少し読み進める。なんだか自分が涙もろくなっている 気がする。これで我が子が産まれた日にゃどーなっちまうことやら。

2001/06/18 (Mon)

■ 4:00

新聞屋のバイクの音がする。もうそんな時間か。昨日の説明では「破水から 二十四時間以内ぐらいには出産」というハナシだったが、 もう過ぎちゃったじゃないか。連絡、ないなぁ。不安だなぁ。

■ 5:00

別な新聞屋のバイク。 階下からごそごそという物音と微かな話し声も聞こえる。眠れないんだろうな。

■ 7:00

突然枕元の携帯が鳴る。病院の先生からだ。「今から陣痛を促進する薬を打ちます」 ってまだ打ってなかったんかいっ。「効果が無いようだったら 10:30 か 11:00 に 帝王切開ということになります」具体的にどういう処置を行うのか ちゃんと理解は出来ていないんだけれど、いろいろ大変だという話は聞く。 自然に出てきてくれたら良いのだが。「というわけですので、旦那さんもまぁ ぼちぼちこちらに来ておいてください」ぼちぼち、っすか。

■ 8:30

ぼちぼち病院に行く。分娩室で志緒の顔を見ると、汗をかいて苦しそう。 これが長引くのかなぁと思いつつ、看護婦さんには二階の談話室へ案内される。 ソファに深々と腰掛け、壁の時計を見る。あとどのくらい苦しい時間が続くのだろう。 時々階下から赤ちゃんの泣き声がしてどきっとする。先輩達に負けない、 元気な声の赤ちゃんが産まれてきますように。

■ 8:47

先生から携帯に電話。「なんとか帝王切開せずに産まれそうです」をを。なんと。 吉報だ。ところで私、既に病院にいるんですけど。「あ、そうなの? もういるの? んじゃそこでもう少し待っててね」もう少し、かぁ。昨日からずっと待ち続けだ。 少しと言っても、まだそれなりに時間はかかるのかな。

■ 9:10

あー、会社には今日休むって電話入れんとイカンな、ここ、携帯電話使って いいのかなぁ、でもおれさっき向こうからかかってきたとはいえ、 ばっちり使ってたよな、ま、いいか、とダイヤルしようとしたその時、階下から 「もうすぐですよ!下に来てください」 うぉ。もうすぐ。なんか展開が急じゃねーかっ。どたどた。

分娩室のドアの前、廊下を挟んだところにある処置室の小さな椅子に浅く腰掛ける。 ドア一枚隔てた向こうから、いくつか声が聞こえてくる。 知り合いになって十数年経つけれど、 志緒のこんなに苦しそうな声は聞いたことがない。 こっちまでぎりぎりと辛くなってくる。 どうにもこんな時には座るか、立つか、うろうろするか、しかない。 考えてみると、立ち会い出産ってのはすごいな。卒倒しそうだ。 「そこでお母さんの力が欲しい!はいっ!」「腰を浮かさない!」「はい一旦休み」 という看護婦さんの声。これがどれだけ続くんだ?

■ 9:12

突然、「んぎゃあ!」という別の声。「あーがんばったーおめでとう、女の子だよ」 これは看護婦さん。なんともそれはあっけなく、いや、苦しんでいた長い時間の大半を 見ていないからあっけなく感じただけなんだと思うけれど、

産まれたんだ。

じわーっと目が熱くなったまま治まる気配がなくて困る。 ハンカチを当てると、つぶった目の形に涙の染みがついた。

■ 9:20ごろ

「さ、入っていいですよ」と声をかけられ、分娩室へ。志緒はぐったりしながらも かすかにニッと笑っている。ほんとにお疲れ様。そして赤ちゃんはその名の通り 真っ赤になって、看護婦さんの腕の中で泣いている。産まれたての赤ちゃんは くしゃくしゃで猿みたいだ、なんてよく聞くけど、そんなことはない、 十分可愛いじゃんか、と思うのは既に親バカ大爆発なんだろうか。

■ 9:40ごろか?

一旦分娩室から追い出され、談話室へ。二つの実家に「9:12女児無事出産2720グラム」 を報告。

■ 10:00 前ぐらいか?

再度分娩室へ。赤ちゃんは小さな台に寝かされて、目を微かに開けたり閉じたり している。何が見えているんだろう。これ、触って良いんだろうか。触りたいなぁ。 でもおれ手、洗ってないしな。ちょっとぐらいならいいか? と一瞬おでこに 触れてみる。一瞬過ぎて良く分からない。目の前で手を振ったりしてみる。

「写真を撮るなら今がチャンスですよー」と看護婦さん。 「カメラ…なんて持ってきてないよね。そんなこったろーと思った」 と出産直後の妻に言われる旦那というのも如何なものか。とほほ。 いやその、それどころじゃなかったんだけど、という言い訳の言葉を飲み込む。 「お母さんこれから少し休まないといけないから」と看護婦さんに言われ、 一旦病院を出ることにする。お母さん、ね。

病院を出て実家に向かう途中、義母に会う。今疲れているので休ませてあげたほうが 良い、見舞いは夜の方がいい、と看護婦さんに言われた旨を告げると、では 買い物でもしてくるわ、と、おれとは逆方向に歩いていった。

途中にあった駐車場の入口辺りに腰を下ろし、会社に電話をかける。 今日会う約束になっていた P 社の担当に電話をかけるため、机上の名刺ホルダから 電話番号を調べてもらう。続けて P 社へ電話。なんかビジネスマンのようなおれ。 ってビジネスマンなんですが。「では改めて明日ということにしましょうか?」 「いえいえ、私の上司には話をしてありますので、今日予定通りに来て頂いて、 上司と会ってください。技術的な話は別途日程を調整して…」と仕事をやる気が 全然ないのがバレないように、明日出来ることを後日に先送り。ま、いいよね。 今日明日ぐらいはひたってても、さ。

■ 11:00 ごろかなぁ?

実家の義父に状況を簡単に報告した後、自宅へ。取り敢えず横になる。 眠りに落ちる。

■ 14:00 ごろじゃないかと思うんだけど…

起きたらこんな時間か。昼飯を食い損ねる。

■ 16:00 ごろかもしれん

キャラメルコーンと牛乳を口にする。

■ 18:00 ごろだったんじゃないかなぁ

再び実家へ。もちろんカメラは持ったさ。フィルムも入れたさ。 疲れていたのでクルマに頼る。 夕食をご馳走になった後、義父、義母と共に再び病院へ。

■ 19:00 すぎ

新生児室を覗くと、五人の赤ちゃんが並んでいる。産まれた直後に数分見ただけの 記憶しかないので、イマイチどれがウチの子なのか不安な旦那というのも 如何なものか。

多分この左から二番目のピンクの毛布の子だろう。 空色の毛布が男の子、ピンクの毛布が女の子で、 産まれた順に右から並べてあるんじゃないか、一番左の子は空色だから、 二番目だよ、というのが義母の推理である。あっぱれ。うん、おれの記憶でも この子だと思う。きっとそうだ。一番かわいいし。あ、いやその、 みんなかわいいんだけど。

二階の病室にいる志緒を見に行く。ゆっくりなら歩けるから 私も赤ちゃんを見に行く、という。というわけで四人で新生児室の窓に 張り付く。

一番左の空色の子が泣き出した。と、左から三番目、真ん中の子も泣き出す。 挟まれているうちの子は全く意に介さず、ひたすら寝ている。 ひょっとして大物なのではないか。 「生きてるのかしら」とか物騒なことを言う。生きてるって。時々ぴくっと 手が動くじゃん。ほら。

看護婦さんに、すみません、写真を撮らせてください、と頼むと 快く了解してくれる。新生児室の中には入らせてくれないが、 看護婦さんが抱き上げて、窓越しに赤ちゃんの顔をこちらに向けてくれる。 抱き上げた途端に顔がぐにゅーっと歪んだ。嫌がっている。 そりゃそうだ。気持ち良く寝てたところを起こされたわけで。 あ、泣き出した。すまんすまん。と思いつつ、元気良く泣いている様子もまた かわいい。フラッシュをたくと目をにゅーっとつぶって眩しそうにする顔も キュート。って本人たまったモンじゃないだろうな。ごめんごめん。 もう止めるよ。ゆっくり眠っておくれ。

志緒を病室へ送り、看護婦さんにお礼を言い、もう一目だけ赤ちゃんを見てから 病院を後にする。

■ 20:00 すぎだと思うけどまー何時でもいいや

義父義母を実家に送り届けた後、 夜道を一人、クルマを走らせる。
好事魔多し、と自分に言い聞かせながら。
普段は音楽などかけながらへらへら運転している道を、 ただエンジンの音を聞きながら。

それでもやっぱり、産まれたばかりの子を想いながら。


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