第五十七回:音量と私


アコースティック・ドラムにはボリュームつまみが無い。

あまりに当たり前で見過ごされがちのこの事実に我々は着目せねばならない。

「ハードロックと私」でも触れたが、 高校生の頃、大きな課題の一つが「デカい音を出す」ことだった。 演奏していたのはハードロック。まだ耳もあまり良くないプレイヤーは 自分の音を聞きたいがために、不必要にアンプのボリュームを上げてゆく。 ライブでの音響設備も全く整っていない。マイキングするのはヴォーカルのみ。 ギターはギターアンプから、ベースはベースアンプから、 そしてドラムはマイキング無し、という状態でバランスを取らなければいけない。 そんな中で、ドラムはデカい音を「出さなければならなかった」のだ。

というタフな環境下で育てば、 自然に「デカい = エラい」という価値観が植え付けられてしまう。 ちなみに高校生の頃の私は「デカい = エラい」「音が太い = エラい」 「速い = エラい」「フクザツ = エラい」「タムがいっぱい = エラい」という 価値観の持ち主であった。今ここに現れたら説教してしまいそうである。

若い時分の刷り込みは意外に深く根を張っているもので、簡単にひっくり返らない。 その後いろんなバンドを経験して、しばしば「お前、音デカい」と文句を 言われてきたが、「でもドラムって元々音デカいもんだし、ヌケの良い音のドラムが スパーンと真ん中で鳴ってればバンドも締まるってモンだぜ」 などと、心の中のどこかで自分勝手な肯定をしていたように思う。 ところで「お前、音多い」という文句に対しては如何なる申し開きが出来るのだ。 俺よ。

さて、アコースティック・ドラムにはボリュームつまみが無いが、 アコースティック・ピアノにも、その他ウッドベースや管楽器等にも無い。

こりゃまた当たり前のこの事実の前に、私は今価値観の転換を迫られている。

最近、何度かジャズのセッションにお邪魔させて頂いた。 本来の意味で「邪魔」だったこともしばしばあったらしい。 とある場所で催されたセッション。二十人ほどが集まり、うち数人が演奏し、 残りは順番を待っている、という形で進められる場において私が演奏中、 順番待ちの演奏者として席にいたベーシスト、しかしてその実体は秘密諜報員で あるところの嫁によれば、「あからさまにイヤそうな顔をしている人がいた」 「『うるせーなドラム』という声あり」だそうだ。あたたた。なんだと「私も うるせーと思う」だぁ?そこへ座れ首都高バトルで勝負だ。

まぁ共演者には突然長尺のドラムソロをもらったりして、 それなりに気に入ってもらえた… のか、私から「ドラムソロを叩かせないと暴れるぞ」というオーラが出まくっていて、 仕方なくくれたのかはわからないがそれはさておき、しかしドラムソロを くれないと暴れる、くれたらくれたでソロで大暴れって逃げ場が無いじゃないか、 いやだからそういう話はさておき、 私というドラマー、好き嫌いのはっきり別れるタイプなのかもしれぬ。 って自慢にならん。反省せんか。

高校生の頃は音量を上げることでバランスを取る必要があった。しかし、 マイキング無しのアコースティック楽器とのアンサンブルでは、 逆に音量を下げることでバランスを取る必要がある。

ドラムを鳴らしきることは美しいという価値観。柔らかなスティックの動きで 無駄無くヘッドをヒットし、綺麗な輪郭、粒立ちの良い音を出すこと。 逆に、音量がなくシェルが鳴らず、芯の無い音に対するネガティヴな印象。 別に間違っているとは思わないんだけれど、音量は押さえつつ音は立っている、 他の楽器とバランスを取りつつ音色と熱さを失わない、そんな演奏が 存在するに違いない、と最近は思うのだ。

ジャズ・ドラマーの大坂昌彦さんが雑誌のインタビューで、

ドラムを叩く時、通常は「仮想打面」を本当の打面(つまりヘッドの表面)の奥に イメージして打つ。つまり、本当の打面を打ちぬくような奏法になる。しかし、 アコースティックなセッションでは仮想打面と本当の打面を一致させるような 奏法が必要となる。
という風なことを言っていたのが印象深い。まさしくそれかな、と。

ブラシというヘンテコな道具があって、束ねた針金の先端が 扇状に広がっているような物。これをスティックの代りに手で持って ドラムを叩いたり擦ったりするんだけれど、スティックと同じようにただ 振りぬこうとすると「べしゃっ」という情けない音になる。ハギレの良い 音を出すためには、ブラシの先端がヘッドに当たる直前にブラシを握り込み、 ブラシをしならせて、しなった結果、先端がヘッドに当たる、という 動きが必要になる。この辺がひょっとすると鍵になるかもしれない。

とは言いつつ、なかなかねえ。「おめーはブラシ持ってもうるせーな!」とか 言われても「わはは、そーすか、すんません」なんて、あまり反省の色が 見えない。自分の望む方向というか、理想像というか、 そういうものに引っ張られちゃうという側面が、人間には在ると思うのですが、 デカい音の出せないヤツって思われたらどーしよう、なんてちらりとでも 思ってるようじゃまだまだ駄目、と。「音量を抑えてワンセッション通す俺の なんとかっちょいーコトよ」というイメージがまずは欲しいってところでしょうか。

私を知っている人には「デカい音の出せないヤツって思われたらどーしよう」 なんて言うと笑われるかもしれないけれど、実はこれ、トラウマなのですよ。 高校一年生、初めてまともにバンドに入ってドラムを叩き始めて 最初の半年ぐらいかな、 「音が小さい!」「スネアが聞こえない!」「バスドラムが鳴ってない!」と、 私は言われ続けていたのですから。

それからもう一つ、音量といえば…

安いドラムでも、鳴らし切ってしまえば結構良い感じの音を出せるかもしれない。 けれど、本当に良いドラムって少し抑えた音量でこそ個性、そして味を 発揮するのではないか、と思ったり。そんな「音色を楽しめる」ような素敵な ドラムと、それを活かす腕が欲しい、今日このごろ。

深く根を張った価値観は、そんなところからも、ほんの少しずつ形を変えて…


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