第五十一回:グルーヴと私


ああ、ちょっと難しい話題だなぁ。まぁいいや。書いちゃえ。

とあるプロドラマーの WEB サイト にグルーヴに関するコラムが載っている、という話を友人 T 氏、そう、 以前私が下手なアコギのおかげでご迷惑をおかけした あのヒト、から聞いて早速覗きに言ってみる。

曰く「タイミングをぴったり合わせれば良いんじゃない、低い音は遅れて、 高い音は早めのタイミングで聞こえる。だからドラムで言えばバスドラは早めに、 スネアやシンバルは遅めに叩くと安定感が出る、ただそれはすごく微妙な ズレであって意識的に制御する類のものではないけれど」とのこと。そして、 「グルーヴは楽器のクオリティや著名演奏家の動きの研究、時間分析といったこと からは生まれない。純粋な気持ちで自分や他人の音に耳を澄ませ」という結論に なっている。

私が非常に共感を覚えるというか痛いところを突かれる気がしたのは、 「気持ちの良い音を、耳を使って探せ」という意見である。

まず先に言っておくが、メトロノームを使った練習というのは非常に有意義であり、 ここ、というタイミングで音が出せるということは大事だと私は思う。 断言しても良い。命だって書ける。いのち。って小学生か俺は。 ただ、それは「ここに発音タイミングを合わせる」というポイントが 比較的明確に分かる、ともすれば機械的な練習方法であるかもしれない。

対して最適のポイントを 耳で探すというのは、答は自分の心の中にあることになり、そして その答は今まで自分がどんな音楽にどう接して、その結果自分というフィルターが どんな形に出来上がっているかによる、まことに流動的なものとなる。 このフィルター、あるいは美意識とでも呼ぶようなものだろうか、がバランス良く 出来上がっており、自分の思う通りに音を操ることが出来れば 「上手い」とか「気持ち良い」などの評価を得られ、 思う通りに演奏できたとしてもそのフィルターがちょっといびつだと「個性的」、 かなりイっちゃってると「一人よがり」「顔洗って出直してこい」「ヘタ」となる。

そう、音楽には人生が反映されるのだ。

ここで自分を振り返って、自分は耳で探すタイプの練習をしていないかというと、 そうでもない気もする。私が推奨する、っていうかまぁ大抵誰でも言うんだけど 「メトロノームを裏で聞く」ってヤツ。例えば三連符の三つ目にメトロノームを 聞きながらシャッフルを演奏する。

んんかんんかんんかんんか
ずっくだっくずっくだっく
なんて演るわけですが、ううむこれじゃなんのことか分からないか、 下の段の「ずっくだっく」がシャッフルを演奏してる私ですね。上の段が メトロノーム君である。私の演奏する「く」とメトロノームの「か」が 同時に鳴っているわけです。メトロノームを頭に取る、というやり方だと、
かんんかんんかんんかんん
ずっくだっくずっくだっく
となります。メトロノームの「か」と演奏する「ず」や「だ」が同時。 で、裏がなぜ面白いかというと、裏だと、
んんんかんんんかんんんかんんんか
ずっーくだっーくずっーくだっーく
みたいに裏拍を後ろの方に引っ張ってみたり、逆に
んかんかんかんか
ずくだくずくだく
みたいにイーブンに近くしたり出来るワケですね。テンポや、想定する曲の感じ等々で 一番気持ち良いと思われる裏拍の位置を調整することが可能である、と。 メトロノームを頭に取っている場合でも裏拍の位置はズラせるけれど、裏拍を他人 (この場合はメトロノーム)と合わせるには裏拍をしっかり意識し制御することが 必要になる。 そして、そういう調整をしつつもテンポは一定にキープしなければならない。 つまり「耳で一番気持ちの良いタイミングを量る」+「テンポキープ」が同時に 訓練できることになる。

嗚呼。グルーヴについて、なんて書けないよなぁ。やっぱり。 レベル低いなーってのを自覚しちゃうし。でも続けちゃおっと。

この間久しぶりに、私の参加しているバンド、Earth, Wind & Fiber の練習が あったんだけれど、なんというかグルーヴしない。「誰が悪いんだ? やっぱり 俺か?」「んー、まぁドラムが悪いってコトになれば俺達ラクなんでそうしといて」 という感じですっかり悪者にされさめざめと泣く。釈然としないままの 帰り道、嫁の一言「なんか止まってるみたいだったねー」。ファンクを演奏する上で 「止まってるみたいだ」というほど屈辱的な批評はないのではないか。 うおおー手討ちにいたす!と思ったけど考えてみれば自分でもそう思ってたわけだし、 返り討ちにもあいそうだし、夕飯の質も落ちそうだし、 だいたい最近私よりずっとまじめにベースの練習してるし、 取り敢えず黙っていた。負け戦はしないというのが大人のたしなみである。

「黒っぽいビート」なんてよく耳にする物言いである。「ファンキーな」 「思わず腰が動く」「バネの効いた」「しなやかな」そしてそのものズバリの 「グルーヴする」。私の好きなオマー・ハキムなんて、きっと全部言われたことが あるんじゃないか。

でね、その言葉、具体的にはどういうことなのさ。 いや自分でも言うけどさ、そんなことは 広い広い棚に上げて敢えて問いたい。貴方に。こりゃ逃げるでない。

同様によく聞く物言いに「日本人には無理」「血が違う」「育ちが違う」 「すっげーデカいらしい」というのもある。 うーん。グルーヴって解析できないものなのかな。各楽器の音量や わずかなタイミングのズレといった、物理的に計測可能な要素がある一定のベクトルを 持った時に「黒っぽい」感じを出す、という研究結果はどこかにないものか。 あるいはもう打ち込み最先端では周知の事実なんだろうか。

あるいは解析可能だとしても、冒頭近くで書いた「意識的に制御するには 微妙すぎる」ことなのか。

そうかもなぁ。自分でもそれは感じることがあるし。「重いリズム」とか いわれて意識的にスネアを後ろに叩くとかすると、なんだかすっげー気持ち悪い リズムになってしまったりする。リズムのニュアンスはボディ・モーションが生み、 ボディ・モーションはリズムに対するフィーリングが自然に作るもの…

リズムに対するフィーリングや、そこから生まれるボディ・モーションが 感覚通りのリズムを発生するか、という辺りの問題か。とすると、 「育ち」や「血」ってあるのかもしれないなぁ。ただ後天的に体得することが 100 % 無理とも思えないのだけれど。負け惜しみか?

もう一つ、「黒人と同じかどうかよりは、とにかく気持ちの良いリズムが出せれば 良いのだ」という話。これは、結構賛成。けれど、ファンクっていうのは 向こうの音楽だ。「日本人」の「ファンク」って言い方が既に負けてるというか、 「負けてる」が言い過ぎならハンデを背負ってるというか、 そんな気がしないでもない。気持ちよければおっけー、それはそうだ。それを、 例えば「ファンク」という土壌で考えた時、「黒人に負けないグルーヴ」が 黒人のものとは全く違う日本人独特のものである可能性は? それは「ファンク」 なのか?

それは新しいジャンルに違いない。ファンクをルーツに持つ日本発のニュー・ビート。 ジャパン・ファンク。名前はそう、頭とお尻を取って「ジャンク」!

…響き悪過ぎ。

それにしても、やはり話はまとまらず。まだまだグルーヴを語る器ではないようだ。


▲ 音楽と私 に戻る

▲ INDEX Page に戻る