第三十五回:爪と私


先日、友人 T 氏の誘いで、とある個展に行ってきた。

T 氏の説明によると、展示してあるものは絵でもなければ彫刻でもなく、 「音」であるとのこと。個展を開いているのは T 氏の友人 N 氏。 T 氏自身は「音」の展示の一環としてギターを弾くという役目であるらしい。

なんだかさっぱり分からない。

分からないので、横浜は山手にある岩崎ミュージアムへと足を運んでみる。

30畳ほどの広さだろうか。いや、私はこの手の広さや長さを把握する能力が 著しく低いので数字に信憑性はまったくないのだが、部屋の真ん中に、 いくつもの花がふわりと浮かんでいるようなディスプレイがあるだけ。 ほの暗い照明。そして床には T 氏が、腕を頭の下に組んだ格好で どでんと寝転がっておる。なんなんだこれは。

T 氏を蹴飛ばして起こした後その横へ座ってみると、 前方の床からは川のせせらぎや蛙の鳴き声が、 後方の天井からは鳥の鳴き声が聞こえてくる。 目を閉じるとどこか田舎にぽつりと身を置いているような錯覚に陥る。 見回すと、小型スピーカがいくつも置いてある。

「サウンドスケープ」というものらしい。

誘われたときに、「来るならあまりうるさくない鳴り物を持ってこい」と 言われたのだが、うるさくない鳴り物を持っていないため手ぶらでお邪魔した。 開口一番 T 氏に「鳴り物持ってきた? ええー、持ってきてないのぉ?」と 文句を言われる私であった。持ってないんだからしょうがないではないか。 決して、私が叩くとなんでもかんでもうるさくなってしまうということでは ないぞ。念のため。

ではせっかく来てくれたんだし、という感じでギターを手にする T 氏。 アルペジオ主体の静かな音楽がふわりとした雰囲気を部屋に添える。 N 氏に渡されたメロディのみの譜面を元にした即興的なものであるらしい。 数分の演奏の後、ロビーでお茶など飲みながら談笑。

T「鳴り物持ってこないんだもんなぁ」
り「持ってないって言ったでしょうが」
T「あ、今日アコギも持ってきてあるんだ。弾く?」

そう来るか。

自慢じゃないが、私はアコースティック・ギターが 下手である。 その上渡されたアコギは太くて硬い弦が張ってあり、弦高がこりゃまた高い。 いや、アコギとしては普通の状態なのだが、普段エレキギターで軟弱な生活を 送っている私にとっては難行苦行である。

私が汗を流して苦行をつんでいる間、T 氏はさらさらとコードを紙に書いている。 昔 T 氏が作った曲だそうだ。所見でそれを弾かせようという魂胆らしい。 開放弦を使ったちょっと面白いコードの押え方など、簡単に手ほどきを受けると いきなり「さ、行きましょうか」と来る。

なんとも強引でテンポの速い展開である。先ほどの展示室に戻り、部屋の一角に 腰を下ろす。数人の方が展示室にたたずんでいる中、 現在の状況と自分自身が剥離しているような感覚のまま、 なんとなくイントロとなるコードを奏で始めるのだが、

爪が伸びている。

左手の爪が伸びたままだ。どういう弊害があるかというと、例えばコードを 押さえるとき、通常は指板に対して指を垂直に立てるようにして弦を押さえ、 隣の弦に触れないようにするのだが、爪が伸びているとそれが邪魔になって 指が寝てしまい、ちゃんと音が出ないのだ。

しかしなんとか隣の弦に触らないようにと四苦八苦していると、 今度は硬い弦、高い弦高が行く手を阻む。 変なフォームのせいか、あっという間に疲れ、握力がなくなって来る。 その状態で泣きながらごまかして弾いていたらソロの順番が回ってきた。

ここまで来ると拷問ではないのか。

でも弾く。

硬い弦を押え込むことに気を取られ、さらに初見であり、 フレーズもなかなか出てこない。腕前はいつもの 1/3 ぐらいに落ちていそうだ。 無理矢理速いフレーズを入れてみるも、(キマった例はあまりないがいつも以上に) キマらず、ぷつぷつと情けない音を立てたりしている。 副業ギタリストである私のことだ、元々並みのアマチュアギタリストの 1/3 程度の実力しか持ち合わせていないわけで、1/3 × 1/3 = 1/9 の演奏を 人様にさらしているわけである。1/9 といえば約 11 % である。 ほんとは 11.1111111...% で割り切れないのだ。 って何を計算しているのかさっぱりわからないが とにかくお恥ずかしいということを主張したいのである。私は。

爪が。この爪がいけないのだ。ほんとはもうちょっと弾けるんです。ほんとですって。 と当て所のない言い訳を心の中で叫びつつ、 せせらぎや囀りの聞こえてくる中、好き勝手なことを弾いているのは 心地よかったりもして、つらくて楽しいという不思議な時間が過ぎていった。

演奏後、ロビーに座りつつ、今回の展示会のパンフレットをもう一度眺めてみる。

夏のささやき
〜音の原風景をみつめて〜

私の音の原風景を感じてください
そして
あなたの音の原風景をみつけてください

嗚呼。

あれが。あのふにゃふにゃの演奏が。私の音の原風景ということになってしまった。 あれを見た人が何かを見つけられるとも思えん。なんということをしてしまったのだ。 N さん、そしてその場にいたお客様、すみませんすみません。 悪いのは爪なんです。爪さえ切ってあれば、びしっとコード押さえてガーンと 音出してソロもばりばり…

ということをやっても結局「夏のささやき」でもなんでもないやんけ! と 孤独にボケとツッコミを繰り返す私であった。

とはいえ出てしまった音は戻らないとエリック・ドルフィー先生も語っている。 N 氏も「わざわざ来て頂いて演奏までして頂いて」と言ってくれたし。 目は笑っていなかった気もするけど。とほほ。

申し訳なかったとか、でもこういうのも面白いなとか、あるいはまた演りたいとか、 N 氏が聞いたら顔色を変えそうなことも含めていろんなことを思いながら、 岩崎ミュージアムを後にして歩き出す。もし爪が切ってあったらどうだったのか。 爪が伸びていても別の逃げ手はなかったのか。どんなフレーズが、コードが あの場にフィットしたのか。しかし悔やまれる。昔は三日と空けずに爪を切っていた。 爪やすりを使ってよりキツい深爪にしていたこともあった。度が過ぎると痛くて ギターどころじゃなくなっちゃうんだよな。そんなこんなで左手と右手の 爪の長さが全然違うんだ俺は…

と、爪を思っていたその時、隣にいた嫁がぼそっと一言。 古畑任三郎も真っ青のどんでん返し。

「りおのギター、全然聞こえてなかったよ。残念だったね」


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