I Will go with you. 2



「マフィン、お前も食べてくか?」
 いつの間にかこの男には歓迎されているらしい、と猫は朧気に理解する。腹がすいてきたので、何か食わせてくれるのならば嬉しいな、程度のこともぼんやり思う。お前のくれる食べ物はきっと好きだ。いつもいつも好きだった。
 なぜなら差し出されるものはいつも私のため、私の力になるもの、私の役に立つもの、私への掛け値無しの愛情だからだ。───それを私はずっと知っていた。口にして感謝を表したことはなかったけれど。
「店のモンに手を出すでもなし、躾はいい猫に見えるんだけどなぁ。人慣れしてんのに触られるのが嫌いってのは、案外見た目の割には愛玩用に飼われてんじゃねえのかな?」
 触っていいかい、というように男の掌が猫の横にそっと置かれる。反射的に猫は身体ごとで避けかけたが、まあ少しなら、と合図のつもりで膝掛けを尻尾で叩いた。
「ん? 鼠捕りの猫にしちゃ容姿がいいって意味さ。この辺りの猫はどうしたって農家で飼われてんのが多いからな」
 違う。そんなことは訊いていない。躊躇いながらチラチラと横で手を出されるより、正面からさっと撫でられたほうが気持ちの上ではマシと言いたいだけだ。
 この不満はどうやら男に伝わったらしい。男はふっと動きを止めて、それから優しく額をなぞり上げるように猫に触れた。猫は急に嬉しくなって、ナァ、と短く鳴いて目を細めた。
 その内、周囲に立ち篭める胃袋を刺激する匂いは一層に強くなった。バターの匂い、小麦のほどよく焼けた匂い。混じって、ちょっぴり焦げた匂い。「焼き立て」の香り。───懐かしい。
「うーん、こいつはかなり焦げたなあ」
 そうだな。うん、きっとそうだ。焦げた味にも覚えがある。
「オーブンから出すタイミングが一番難しいんだよ。俺もしょっちゅう焦がしたもんだ。でもあの人、文句言い言い、結局は全部食ってたなあ…」
 誰にともなく男は呟き続ける。猫の額を撫ぜていた武骨な指は顎の下まで潜り込み、くすぐるように動かされる。猫は心地よさについ喉を鳴らす。じゃれるのと催促と両方の気持ちで、右の前脚を男の手首に引っ掛ける。
「ハハ、これほんとに手袋だ。赤いトカゲ模様は付いてねぇけど」
 きゅっと握られた脚先から、どうしてだか痺れるほどの幸福感が身体中に広がっていく。もっとこうしていたい。男の匂いが好きだ。男の指の動きが好きだ。失いたくない。一度は失われかけた、損なわれかけた、二度と手放したくない何か。それはきっと、取り返しが付かないほどたいせつなもの。
 ───ニィ。
「……ん?」
 男が顔を近付けてくる。不思議そうに首を傾げながら。ブルーアイズは優しい微笑みをたたえている。
 私のものだ。この澄んだ湖のような宝石は私のものだ。そうだろう? だってお前が私にそう言ったんだ。
 猫はバランスに気を付けつつ四本の脚で立ち、男の膝上で精一杯に伸び上がった。そして前屈みの男の口許に何かを囁こうとしたところで、
「───ジャン! ねぇジャーン! どうしましょう、手前の半分くらい焦げちゃったわ!!」
「あーもう、俺が食うよ!」
 女の声に、男は振り返って叫び返した。
 それを合図に、猫はトン!、と床に降り立った。
「なんだ、行くのか?」
 ───ニャア。アゥ。
「そうだな」
 男は胸のポケットから煙草を出して、片手だけの手慣れた仕草で一本を口にくわえた。
「お前には行く場所がある。猫なんてそんなもんだ。特にオスなら、しゃーねぇさ。なあ?」
 ライターで火を付けかけ、だが付ける前に一度口許から下ろし、急に真顔で猫を見つめ返す。しばらく、ほんのしばらくの間だけ、猫と男は静かに視線を交わし合った。

「ありがとう」
 男は背筋を伸ばして、真摯な瞳で一言一言を丁寧にはっきりと言った。
「来てくれてありがとう。会えて、嬉しかったです」
 ───アォウ。
「お元気で」
 ……お前も。
 猫はもう振り返らず、尻尾をピンと立てて出口へ向かった。





《なんですかぁ、珍しいなあ。大佐からの電話って》
「特に用はない」
《……ますます珍しいですね》

 午後の上番勤務、司令部からの迎えの車はもう門前に到着している。それを書斎の窓から見下ろし、起き抜けの髪を手櫛で荒っぽく整えながら、後に続く言葉を今さら探している自分にロイ・マスタングはいささかうんざりした。

《これから勤務ですか?》
「そうだ」
《ちゃんと飯食いました? 夜勤明けで、まさか今の今までギリギリ寝てたとかじゃないでしょうね?》
「………」
《かーっ ヤな沈黙だなあ!》
 上着、上着はどこだと目で探すと、机の反対側にある椅子の背に昨夜引っ掛けたままだった。受話器から耳を離さずそれを手にするためには、なかなかアクロバティックな姿勢が必要となった。
《俺が居たら意地でも飯だけはまともに食わせんのになあ》
「食ってるさ」
《大佐のそれは信用出来ないっすよ。そういや今、ちょうど店出しするマフィンが焼き上がったばっかなんで、これそっちに届けに行きてぇくらいです。つっても、残念ながら俺が焼いたんじゃねえんですけど》
「ハボック雑貨店名物、火曜日のマフィンか」
《そう、火曜だけね。ほとんど姉貴の趣味で売りに出す、……て、あれ? この話、あんたに俺したことありましたっけ…?》

 ドアベルが派手に屋敷中に鳴り響いた。待たされている当番兵が、ついにしびれを切らして催促に踏み切った音だった。

「すまん、時間切れだ。もう出ないと中尉の雷が直撃する」
《……何やってんすか、あんた》
 何をやってるか?
 決まっているだろう。前に進もうとしている、走り続けようとしている。誰かを出し抜いてやろうと暗躍もすれば、揺るがぬ目的を成すためならおべっかへつらい何でもござれだ。
 ただ、たまの非番くらいは夢の中で悔恨や哀訴を口にしたいこともある。ひどく利己的な何かを切実に願う夜もある。会いたい相手を夢に思い浮かべて訪ねることも。
 起き抜け、ただ声が聞きたいという衝動だけで、受話器を取ってダイヤルを回したりすることも。
 それを弱さと一蹴するのは簡単だが、そんな真似も「たまになら」人間臭くてまあ悪くはさ、と。
 自分で言い切ってしまったら単なる言い訳だろうか?

「それじゃあな」
《ハイハイ。あ、大佐!》
「なんだ」
《どうぞ、──…お元気で》
「ああ。お前も」



 

- end -

2010-9-1



ファンタジー? ……か?
何となく、漠然と、不思議な感じが伝わればいいなぁと思います。しかし記念すべき鋼連載終了の後の1本目がこれって一体。(もっとマシなもんが書けないのか的な意味で)

タイトルはドナ・サマーの曲から。サラ・ブライトマンの[タイム・トゥ・セイ・グッバイ]と言えばすぐにメロディが思い浮かぶ方も多いはず。でもこの話では歌詞とアレンジがドナ・サマー版の方がハマるのでございますー。(※原曲はどちらも[Con Te Partiro/コン・テ・パルティロ]というイタリアの曲)
と言うか、そもそもこの話のタイトルが[Time To Say Goodbye]ではちょっと違う意味になっちゃって、ドナ・サマーの[I Will go with you.]でないと噛み合わないよね、と。つまり単に本人の思い入れの問題。