I Will go with you. 1



 目が覚めたらベッドに寝ていたはずの自分が猫になっていて、ああ夢だなこれはと思いながら右前脚でくるくると鼻先や額などをこすっていると、背後からいきなり誰かの両手に鷲掴まれた。
 あげく、いとも簡単に身体は床から数十センチも持ち上げられ、後ろ脚は情けなくもぶらんと下に垂れ下がる。フシャーッ、と息を吐きながら振り返ろうとする。後ろ脚も可能な限りバタバタ動かし、何とか無礼極まりない手から逃れようとする。だが予想以上にこの手の力は強いし、脇を抱え上げられた姿勢からでは首を捻るにも限界があるしで、あっけなく猫は誰かの膝に引き上げられてしまう。
「なあ姉貴! 猫! 店に猫が入って来てる!」
 頭上で手の持ち主らしきニンゲンが大きく叫ぶ。奥のほうからは別のニンゲンの声が返ってくる。
「あらやだ! バーンズさんのとこの猫かしら」
「違うんじゃねえかなぁ。バーンズさんちの猫って黒かったっけ?」
「くろ?」
 もう一人のニンゲンが顔を出した。その気配と共に運ばれてきた匂いに、これはなんだっけ、と猫は思う。どこかでよく知っているはずの美味しい匂い。なんだっけ。懐かしいのに思い出せない。
「バーンズさんのところの猫は全部雉子色でしょ。───まあ、かわいい!」
 音は明瞭に全て聞こえる。なのに彼らの交わす会話は音律としか捉えられない。それでもニンゲンのメス──おそらく──が語尾を跳ね上げるように発した単語が、自分を誉めているのだとは理解出来た。
 ナアァ、と無意識に猫の声帯が哀れっぽく鳴く。この無体なニンゲンのオス──おそらく──が自分を掴んで離さないのが、とにかく今は気に入らない。メスなら自分の味方に回りそうだと、とっさの判断が働いたのかもしれない。
「見かけない猫ね」
「だろ?」
「いつ入って来たのかしら。誰かと一緒に?」
「さあ。気が付いたら居たんだよ。カウンターの裏にまで入って来ててさ。呑気に毛繕いなんかしてやがった」
「ノラじゃなさそうねえ」
 ニンゲンのメスは屈むようにして猫の顔を覗き込んだ。いきなり頭を撫でられそうになったのにはビクッとする。なるほど、自分は触られる事自体があまり好きではないらしい、と猫はどこか冷静に考える。
「綺麗な尻尾と毛並み。飼い猫だわね?」
「手入れはいいな、確かに」
「でもやっぱり知らないわねえ…。この辺りだとルーシーのとこの猫が黒猫だったはずだけど、子どもを産んだって話も聞いてないし」
「子どもってほど子猫じゃないだろ、こいつ。充分大人の猫なんじゃないか?」
 手の力が僅かに弛んだ。その隙を逃さず、猫はするりと掌を抜けて床に飛び下りた。
「あ!」
 外への出口は見えていた。一目散にそこから走り出るのはもちろん可能だ。けれど最後にこの無礼なニンゲンの顔を覚えておくため、猫は苦々しく振り返った。
「お前、どこで飼われてる猫なんだ?」
 ニンゲンのオス──正面の椅子に座る男のブルーアイと眼が合った。猫はハッとして完全に脚を止めた。それから口をちょっと開けて、また閉じた。掠れた鳴き声しか喉から漏れないのがもどかしかった。
「靴下猫ね」
 メス──男とどこかしら似た面立ちの女が笑って言った。
「かわいいわ、綺麗な白い靴下を履いてるみたい」
「前脚だけだから、どっちかって言や両手に白手袋って感じじゃないかな」
 言った後で、男もなぜか自分の言葉に少し笑った。思い出し笑いのようにも見えた。
 立ち止まって動かない猫に、男が前屈みになってこちらに手を差し伸べる。すると、男の椅子がギシリと大きく音を立てて前に動いた。猫は驚いて一気に毛並みを逆立てた。
 さらに驚いたことに、男が椅子の両脇に腕を添えて上下させると、椅子はまたもギシリギシリと音を立てながらこちらに向かってきた。好奇心と、あとそれから多分矜持なんてものに足留めをくらい、猫は駆け去りたい気持ちと懸命に戦った。文字通り「尻尾を巻いて逃げ出す」なんて真似は、自分には到底我慢ならないことだった。
「怖がらなくていいんだ。ほら」
 大きくて節だった指が突き出される。さっきのようにこちらの意志に反して触れるのはやめたらしい。よく日に焼けた頬と、顎には金色の無精髭。さて、この無精髭は気に喰わないな、と猫は思った。──どうして? 理由なんてない。とにかくムカつく。気に喰わない。
 そう思うのに、意志に反してふらふらと自分の脚は男の手許に近付いて行ってしまう。
「よーしよし、いい子だ」
 男は猫に指先をひと舐めさせて、ひょいと再び猫を膝に掬い上げた。
 ───ナァア!
「イヤか? でも屈んでるのは俺の腰が辛いんだよ」
 不思議と、男はその奇妙な椅子から離れられない様子だった。仕方がないな、と猫は諦めながら男の膝掛けの上で「より居心地のいい場所」を自分で探す。
 仕方がない。だってお前の足は──だものな。
 でもそれは私のせいだ。ああ、すまない。どうにかしてやりたい。お前のこの足をどうにか──ようにしてやりたい。私に出来ることなら何でもする。取り戻したい。心から。
「ん? おいやめろ、くすぐったい!」
 男の顎下は汗と、何か苦い煙りのような匂いがした。懐かしい、と何度目かに猫は思う。この匂いをよく知っていた。懐かしい。胸が詰まるほどの切実さが込み上げる。それを男に訴えたくて殊更に頭を擦り付ける。
 なのに男ときたら、
「なあ姉貴! なんかちょっと焦げ臭ぇ気がするんだけど!?」
「やだ、そうよ忘れてた! ちょうど焼き上がるところだったの! もう、あなたが急に呼びつけたから!」
 叫ぶなり、女は慌ただしく奥に引っ込んだ。それから男に話しかける別のニンゲンの声。男は軽快な返事をして椅子を動かし(また椅子は奇妙な音を立てた)、猫を膝に乗せたままカウンター内側にあるレジスターの引き出しを開けた。
「ああそうだ、お宅のかみさんに頼まれてたゴブラン織りと染め粉、来週頭には入荷しそうだ。伝えといてくんねえかな」
「へえ? 婆さん今度は何を作る気かな」
「よかったらまたウチに持って来なよ。モノによっちゃ引き受けるからさ」
「それよりおい、何やらさっきからやけにいい匂いがするじゃねえか」
「爺ィ、さすがに鼻がいい」
「こりゃあれだな、ハボック家直伝のマフィンだろ? そうか今日は火曜日か」
 男は笑って紙幣を受け取り、相手の掌にはレジスターから出した小銭を落とし込んだ。
「午後一番に店に並べるよ。ただ、今日のはちょっとばかし焦げたくさいな」
「鼻がいいのはどっちだい。じゃ、後でまた寄らせてもらおうかね」
 くたびれた帽子を被り直して、買い物包みを小脇に老人は店を出て行った。店の中には男と猫だけになった。店の片隅のラジオが小さな音量で流れていた。それに急に気付き、猫は片耳を前後に軽く揺らして周囲に意識を巡らせた。
 男はそんな猫を見下ろし、邪魔にならないように注意深くカウンターに向き直って片肘をついた。猫も男を見上げながら尻尾を揺らした。意識してそうするつもりは毛頭ないのに、長い尻尾はゆっくりゆっくり左右に振られ、男のぶ厚い膝掛けを静かにこすった。