君のために出来ること。



 時々、啓介は考える。
 あの人のために自分が何を出来るか。ずっと傍に居たいし、ずっと笑顔で居てほしいけど、あくまでそれは『自分がしてほしい』ことなのだ。啓介が勝手にそう思っているだけなのだ。
 歳の差ふたつなんて世間じゃザラによくあることで、大した壁にも障害にもならないハズで、ところがどっこい、この彼には意外や大きな壁となって立ち塞がる。分が悪すぎるのだ。なんたってこっちは、オムツ姿の世話を焼かれちゃったりしているのだからして…。
 いや、しかし。
 問題はきっとそれだけではない。
 自分が、あの人に頼りすぎてること。それからあの人が俺を甘やかしすぎてること。(たまに鉄拳制裁もくらうけどさ!)
 何かをしてもらう立場に自分は慣れすぎた。それをずっと疑わないでいられるほど大事にされてた。
 嬉しい反面、啓介は情けなくもなる。あの人が『こっちから何かを受け取れると元から期待してない』のが見え見えだから。このままじゃ男の沽券に大いに関わる!
 …じゃ、なくて。
 本当はさ。

 ───ねえ、アニキ。
 オレ、もうちょっとだけ、あんたに当てにされたいって最近は思うんだ。オレがいて良かったって、あんたに心から思ってもらいたいんだ。オレがアニキの傍にいることが、アニキがアニキにとってラクなポジション確保するのに、少しでも役に立ってるといいなって思うんだ。
 ───大事にされるだけじゃなくってね。




 最近、弟がおかしい。
 人の顔をぼーっと眺めているかと思えば、急に真顔になって考え込む。心配に思って声をかければ変に狼狽えるし、あげくに何だか逆ギレみたいに怒り出す時もあるし、かと言って一人になりたいわけではないようで、やたらと兄にまとわりついて離れない。(※それは前からです)
 と思っていたら、一昨日あたりからは、ついに一人で赤城に行ってしまった。夜半、涼介の部屋のドアがコンコンと叩かれ、「ちょっと出てくる」とドアの向こうから声をかけると、そのまま顔も見せずに出かけてしまった。
 この時は「ああ、友達とでも約束してるのかな。車で行くんなら呑むなよと注意しそびれたな」などと考えていた涼介だったが、後でその夜に啓介が赤城に居たと聞いて驚いた。
 今まで、一度だって。
 こと、車に関しては別行動を取った覚えのない弟だった。聞くと、別に余計な喧嘩を買ったわけでも売ったわけでもないようで(まず涼介はそれを仮定した。兄貴にバレたくないヤンチャをまたしでかして、その結末を付けるためにわざわざ一人で出かけたのかと)、ただ黙々とホームコースの走り込みをしていただけらしい。
 それだけ。それだけのことで、思いの外に涼介はショックを受けた。時には「お前、少しは自分の頭で考えろっ」と怒鳴りつけたくなるほど、何でもかんでも兄貴の意見を求めていた弟が。
 ───俺と離れた場所で何かをしている。
 とは言え、弟にはこれまでだってバイク暴走時代とか荒れまくってた頃もあった。そこには涼介の知らない顔の啓介も居ただろう。でも、隠し事は多分なかった。声をかければ言葉を返した。弟が辛そうに、切なそうにしている時、そっと招いて頭を抱いてやれば安らぐ息を感じられた。互いの気持ちの近さを実感できた。
 なのに、今度に限って啓介は、涼介に添わせる気持ちもなさそうだった。朝、試しにさりげなーく「お前、先週末どこ行ってたんだ?」と新聞なぞ眺めながら尋ねてみても、「ん、ちょっと」と返されて終了だった。
 言えよ、赤城に居たんだって。
 一人でただ走ってただけだって。
 どうしてそれだけのことを、啓介が涼介に言いたがらなかったのかが、涼介にはさっぱり理解が出来ない。まだ「オンナ絡みだよ。もー突っ込むなよアニキー!」とでも返された方が納得がいく。
 納得がいかないながら、それでも色々と考えはする。もとい、納得いかないからこそ悶々と考える。
 あーそう言や最近スキンシップも減ってたな、とか。風呂場に押し入られたりもしてないな。リビングのソファでテレビリモコン片手にうたた寝してても、気付いたらのっぴきならない状況になってたりってこともなくなった。起こしに行ったら逆にこっちがベッドに引っ張り込まれたりもしなくなったし、むしろ起こすより前にもう歯を磨きに行ってるといった具合。
 スキンシップらしいスキンシップは、先週、洗面所で突然後ろから抱き着かれたのが最後だったか。あの時は剃刀握ってたせいで本気でビビった。思わず叱りつけたが、まさかあの程度で拗ねモードが一週間以上持続しているとは考えにくいし…。
 試しに部分的に適度に濁し、長年の友人、兄弟にとっては親の次に──下手すりゃ親より──近しい人間の史浩に相談をしてみたところ、
「………。犬も喰わないナントカってより、真剣に下らん話だな…」
 やっぱり想像通りの答えが返ってきた。あまりに想像通りすぎて、涼介の口からはため息が零れた。
「……言うと思ってたよ。お前に相談したのが間違いだったな」
「俺か!? 俺が悪いのかッ?」
 何でそこでお前まで逆ギレる。涼介が半眼で睨むと、ゲホゴホと盛大に史浩は咳き込んだ。
 客もまばらな深夜近くのファミレス、喚いて、中腰になりかかった姿勢は無意味に目立つ。ごまかすためか、史浩は視線のかち合ったウェイターを片手を挙げて呼び止めた。コーヒーのお代わりを軽いジェスチャー交えて注文し、お前は?、という顔で涼介を伺い見る。
「いや俺は…、……ああ。もらっておく」
 つまり、これは『はいはい、あんたの話を聞こーじゃありませんかー』のサインなわけだ。まだ長居する気があるという彼なりの白旗だ。
 それが分かったので、煮詰まったマズいコーヒー(涼介さん基準)の2杯目を涼介自身もカップに受ける。
「…でっ?」
「で、とは?」
「お前なりの考察なり仮定なりが、先に一応はあるんだろう? そこをまず拝聴し、のちに俺なりの意見を述べさせて頂こうじゃないか」
「賢明だ」
 厭味ったらしい回りくどさはサラッと流し、涼介は近頃よく痛むこめかみを指で押さえた。そうしてやや長めの沈黙を挟んだ後で、
「……反抗期かな、とは…」
 今度の史浩のパフォーマンスは、ブッ、と音を立てて飲みかけのコーヒーを口から吹き出すことだった。
 当然、こちらのカップぎりぎりにまで吹かれた茶色い液体が飛んでくる。慌てて、涼介は自分のカップをソーサーごと引き寄せた。
「何やってるんだ、さっきからお前はッ!」
「すまん、布巾コレで拭いてくれ! ……って、正気か涼介!」
「何が!」
 しばし真剣に見つめ合い、次に大きくため息を吐いたのは史浩だった。
「…正気なんだな」
「だから何がだ。おい、お前の飛躍は時々突飛だ、着いて行くのが苦労だぞ」
「それはな、涼介。俺が今心から言いたい台詞だよ…」
 打ち返された台詞の割には、何となくこっちの方が失礼なことを言われたよーなのは気のせいか。おまけに、『常識勝負』とでも名付けるもので戦うのなら、この男相手に、自分がひどく分が悪いことを薄々ながらに涼介も知っていた。凄まじくそれは不本意かつ、冷静な判断だった。