心のふるさと・梨の里
黒川院歴史散策マップ

宮座の写真集がありますので、どうぞご覧ください。
甘木市高木黒川地区は明治22年に旧上座郡黒川村が佐田村と合併し高木村となり、昭和30年に甘木市と合併し現在に至ります。英彦山の記録では、平安時代弘仁10(819)年に彦山が嵯峨天皇より寺領七里四方を与えられ、彦山の荘園となったとされています。中世南北朝時代正慶2(1333)年に、後伏見天皇の第六皇子とされ、南北朝の戦乱を逃れた助有法親王が彦山の初代世襲座主(彦山の山伏らの長)となりこの黒川に居を定め黒川院と称したとされています。座主は、天正6(1578)年には、北部九州を押さえていた豊後の大友家に対し、筑前夜須郡の秋月種実が背き、同年12月にはこの黒川院も秋月軍により焼き討ちされ灰燼に帰しました。その後、15代彦山世襲座主深有尼の時代、天正15(1587)年の豊臣秀吉の九州平定の後、彦山は領地を没収され、筑前に小早川隆景が入った後一時期同家により当地を寄進されますが、再び取り上げられ座主は黒川を去り、江戸時代にはのどかな農村へと変貌していきます。
各箇所の解説は順次アップしていきます。
A 鍛冶屋
中世の宝満山山伏兼刀鍛冶の金剛兵衛一派の子孫が住んでおり、ここで作刀していたものと思われます。彦山座主に付属した刀鍛冶であったものと思われます。
B コーゲン
ここの水は長寿を授けると言われ、厚原庵という寺院跡だと思われます。
C 高木公民館
D 黒川小学校跡・共星の里
E 興有座主墓石
小学校跡の道から登った丘の上の北小路公民館入り口脇にあります。永正3(1507)年に若くして没した第9代彦山世襲座主興有大納言禅師の墓石です。
F 天神森
瓢箪型のこんもりと茂った丘で山頂に菅原道真を祀る天神様があります。その下には、正慶2(1333)年に初代英彦山世襲座主となり黒川院を開いたとされ、後伏見天皇の第六子だと言われている助有法親王の墓があると言われています。山頂部には堀切などもあり砦ともなっているようです。
G 観音堂
天神森東側すぐ下の観音様を祀る小さなお堂で、初代彦山世襲座主助有法親王の后の妃の堺姫を祀っていると言われています。大きな宝筺印塔があり、竹林庵という寺院だと言われています。
H 京ん坂
黒川中心部から疣目・佐田へと抜ける道です。
I 椿の馬場
県道から東南へ折れると、細く延びる道筋で、かつて道沿いに大きな椿があったためこのように呼ばれています。
J 北小路
椿の馬場から北へ天神森に向かって延びる小道です。
K モウソウヤネ
大正7年に公会堂を建設する為破壊されましたが、かつては盛り土に舜有座主墓石、五輪塔、一字一石経などがありました。黒田の武士が散在していた彦山座主の墓を暴き集めたものだとの伝承があったようです。現在は馬場公民館の建物の横に舜有座主墓石、五輪塔などが安置してあります。
L 薬師堂
木造薬師如来像と十二神将がありました。謙徳山宝寿寺の跡だといわれています。江戸時代の記録では、彦山座主の祈念所で座主代々の位牌があったとされています。
M カモン坂
黒川の南部から中心地に入る旧道でした。下門坂の意味だと思われます。
N ソンダの三叉路
北へ折れると岩屋権現への道。椿の馬場を東へ直進すると黒川院の中心部・オシタンヤシキとオタテです。この辺りはソンダと呼ばれ園田、座主直営の田畑が広がっていたのかも知れません。
O オシタンヤシキ・御下屋敷
現在は二反ほどの広い水田ですが、かつては、ここに彦山座主関連の屋敷があったものと思われ、江戸時代の記録では南光坊があったとされています。また、かつては、百貫石と呼ばれる大きな岩があり、庭園の一部だったとも言われています。
P オタテの三叉路
北へ折れ坂を上るとオタテ、直進すると善福庵などへ行きます。
Q オタテ・御館
ボウルを伏せたような岩山から黒川中心部へと延びる尾根筋の先端部にあります。平坦地が三反ほど有り、座主の居館跡の可能性があります。現在は梨畑ですが、かつて土器などがたくさん出土しました。ここからの眺望はすばらしく、正面・西にセン山と黒川中心部、北西の下方に天神森、右側・北に屏風のようなベンガヘラ山、東に振り返ると岩山など、一望の下に黒川盆地が望めます。東へと尾根筋を少し登るとかすかに堀切の跡があります。
R 善福庵跡
今は、畑の菱形の敷地に善福庵という寺院があったと言われています
S 岩屋権現鳥居
道をそのまま進み鳥居口手前から右へ折れると外宮、石段を150mほど登ると上宮がある。
T 岩屋権現下宮
岩屋権現上宮下の鳥居から右へ折れ更にコンクリートの道へと右に折れて川沿いに下ると大岩の下にお宮があります。かつての山伏の修行場でしょうか。
U 岩屋権現上宮
石段を登ってゆくと左に椎の木があり椎木神が祀ってあり、高木神社のオクンチ祭では供物を捧げます。石段を登り切ると右に大岩の割れ目が目に入ります。針の耳と呼ばれています。それを過ぎると巨岩の下に上宮があります。また、この付近には護摩焚岩、金鎖岩など山伏の修行場が残っています。
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V 岩山
ボウルを伏せたような丸い緩やかで穏やかな山容は甘木インターからでもはっきり見えます。黒川のシンボルのような山です。山頂部はバケモンデーラ(化け物平)とも呼ばれ、気を付けないと迷ってしまい、どこに出るか判らない危険な面も持っています
W セン山
オタテ・御館の真西にあります。山腹の平坦地は、チョウレンバタケと呼ばれており、かつて馬の骨が出土したとのことです。
Y タッチュウザカ
塔頭坂の意味で、かつてあった寺院の登り口だったのでしょう。
Z 迫山舜有座主墓石
塔頭坂を上り迫の集落から北側の尾根に登ると14代世襲彦山座主舜有大僧都の墓石などがあります。戦国時代永禄11(1569)年に豊後の大友宗麟との戦いで佐田岳(甘木市鳥屋山)で自害した13台座主連忠の跡を継いで座主となり、天正15(1587)年に豊臣秀吉の九州平定の直後に亡くなりました。江戸時代には英彦山から墓参の使者が毎年訪れていたようです。
1 鐘突堂
三角形に尖った小さな山です。かつてはここに鐘があり朝な夕なに時を告げていたものと思われます。
2 ショージバン
正寺庵という寺院があったと言われています。
3 実相寺跡
実相寺というお寺があったと言われています。
4 高木神社
黒川の鎮守です。かつては大行事社と呼ばれ、彦山神領・彦庄内の各村に置かれていました。その中でも当社は英彦山麓七大行事社の一つで、御際神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・高皇産霊尊です。平安時代弘仁13(822)年に建造されています。10月29日を中心に前後数日間行われるオクンチは、筑前朝倉の宮座行事として、福岡県の無形民俗文化財にも指定されています。
5 疣目高木神社
疣目はかつては伊母目と表記されていました。伊母目地区の鎮守様です。
このページは「黒川郷土史研究会」様より頂いた、
心のふるさと 黒川院歴史散策マップ」をそのままHP資料として転載しました。
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