亭主の寸話59

『蕎麦3 そばの古代史考』 

 

蕎麦が我が国に登場するのは縄文時代後期の北海道などいくつかの遺跡から出土した蕎麦の花粉としてである。縄文時代の中期より日本列島には寒冷化が始まっており、それによって従来の食べ物が得られなくなっていったことが寒さに強いソバが残っていった理由でないだろうか。蕎麦以外でこの時代から現在まで続いている穀物は少ない。稲作が我が国に持ち込まれるよりも蕎麦の方が早いと考えられるからである。現在、我が国に残っている稲作以前の古代の穀物はせいぜい粟(アワ)や稗(ヒエ)くらいであろう。しかし、もはや粟や稗を店頭で購入することは難しい。こうしてみると今も日常の食品として古代穀物が残っているのは蕎麦だけであろう。当然ながら古代の飛鳥時代、奈良時代にも蕎麦は食べられていたはずである。ところがこれらの時代の書物である古事記、日本書紀、万葉集には蕎麦のことが出てこない。「古事記」にはオオゲツヒメが蚕、稲、粟、アズキ、麦、大豆を生んだ、と書かれている。つまりこれら弥生時代と想定される神代の時代に稲や大豆などが我が国へ持ち込まれたことを意味しているのだが、蕎麦についてはどこにも書かれていない。何故だろうか、この頃には皆が蕎麦を知らなかったのか? いえいえ、飛鳥時代に天皇から救荒作物として蕎麦の栽培を奨励するようにとの勅諭が発せられていることからも、古事記が書かれたこの当時にはすでに広く民衆に知れ渡っていたと考えられる。さらに、それに先立つ古代朝鮮半島の百済から軍事援助を頼まれて赴いた白村江の戦の時の倭国の跡地からも大量の炭化した蕎麦が見つかっているのである。

明らかに当時の倭国の一部にはすでに栽培されていたと考えられる蕎麦が何故、歴史書や和歌などの表舞台に表れてこないのだろうか。当時の他の穀物である粟や稗と比較して蕎麦はどのように見られていたのだろうか、私には大きな疑惑が湧いてくるのを感じる。山内義治氏によると、ソバはそもそも日本には自生していない植物であり大陸かどこかから人の手で運ばれてきた作物であるという。また、安達巌氏の「たべもの伝来史」によるとソバは縄文時代晩期に中央アジアからもたらされた、とされている。ソバは縄文時代晩期には北海道から九州にいたる日本海側の遺跡から多く見られ、ほぼ同時代のものと見られるものが発見されている。すなわち北海道では美々遺跡や御殿山遺跡など北海道の南西部に限られて見られ、本土ではソバ花粉のほとんどが日本海側の遺跡に片寄っている。安田喜憲氏によれば、縄文時代後期にソバが我が国の日本海側の各地に持ち込まれたと思われるが、それらが同じ時代のものであり、しかも広範囲であることから、かなり多くの人の流入が想定される、としている。

ちょうどこの時期は、中国では周、戦国時代から秦の始皇帝による統一国家へと王朝が切り替わっていった時期であり、このときに中国の中原といわれる周辺の東側に住んでいた民族が穀物を持って海に逃れたのではないかとも想像できる。そこで思い当ることがある。BC200頃に秦の始皇帝に不老不死の薬草を採りに行くと言って数千人の若者たちと穀物の種などを持って日本(蓬莱山)に向かって船出した徐福の話が中国の歴史書に残っている。それはちょうど日本では弥生時代中、後期に当るがこの話の、我が国での続きがない。また、弥生時代に続く古墳時代には、古墳から騎馬民族の土偶や壁画が沢山出土していることから江上波夫氏は騎馬民族が我が国に渡ってきたのではないか、との説をとなえている。いずれにしても彼らは蕎麦と共に育った寒冷地の民族である。彼らが倭国に渡ってきたとすると当然それまで身近に食べていた蕎麦を食糧に選んだことだろう。中国の遺跡発掘によって当時の中国の人たちの農作物の様子が分かっている。それは、一般的な傾向として中国北部からは粟、麦、黍、蕎麦、高粱などが出土しており、南部地方からは稲、粟、黍などの穀物のほか、瓜類、梅、棗など果実の出土が目立っている。このことからも中国北部に住んでいた民族は蕎麦を常食にしていた人たちである。食糧確保に腐心していた我が国の神代と言われる時代の人たちにとって、先進的な農業技術を持った若者たちが集団で渡来してきたとなると、どこかで我が国の食べ物に影響を与えていないわけがない。これ以上は想像をたくましくするするしかない。

私はふと、出雲族ってなんだったのか、気になってきた。出雲の地に集団で生活していた民族が「古事記」に書かれているように大和政権に国譲りをした後、和歌山や四国など全国に多くが散って行ったが、この民族とはどんな人たちであったのか、渡来した徐福の集団などとは関係ないのであろうか。なにか引っかかるものがあるが、私にはそれ以上の想像を膨らませるだけの情報を持ち合わせていない。

わが国ではソバの花粉は前述した通り縄文時代の初期から北海道や東北の遺跡から見られており、かなり前から栽培されていた可能性がある。縄文後期には福岡県板付遺跡から、弥生時代に入ると佐賀県菜畑遺跡や島根県タテチョウ遺跡からもソバの花粉が見られている。縄文時代の遺跡に見られる蕎麦は普通種であり、現在我々が食べている蕎麦なのである。高天原の時代から遙かに下って「続日本記」には、元正天皇が養老6年(722)7月19日に「宜しく天下の国司に令して、百姓に勧課して晩禾、蕎麦及び大小麦を植え蔵置して以て年荒に備えしむべし」と勅諭を出しているからである。この勅諭は古事記や日本書紀が完成した直後に出されている。つまりこれは天皇が勅諭として緊急対策にソバを栽培するように奨励しているのであり、天皇も農民も蕎麦について広く知られていたと考えられるにもかかわらず国の歴史書にはソバは全く登場してこないのである。

 

私は、縄文時代の後期から弥生時代前半にかけて、日本海側に住んでいた蕎麦を常食としていた民族と、古事記でいう高天原など神代の舞台に住む民族との間の交流がなかったのではないかと想像している。高天原民族は稲作を食の基本とし、米と大豆の食文化を展開して行ったと想像している。高天原の流れを受け継いだ大和朝廷が全国を支配することにより米と大豆が表の食べ物となり、その後の日本は米本位経済社会へと大きく舵を切ることになる。一方、蕎麦は日蔭のたべもの、救荒作物として位置付けられ、国の歴史書にもほとんど登場しないまま細々と山間の畑で受けつながれてきたのではないだろうか。だから我が国では縄文時代から食べ続けられながら「そば」についての記述がなかったのではないだろうか。

これに似た話として納豆の話を紹介しよう。我が国へは昔、2つの系列の納豆が持ち込まれている。一つは平安時代の初め頃の帰化僧や遣唐使が中国、黄河の北の文化として持ってきた麹菌で発酵した納豆である。当時の大和朝廷はこの納豆を「豆醤」として大宝律令で保護した。そしてこれらの納豆は京都を中心に広く関西に広がっていたが、今では「大徳寺納豆」や「浄福寺納豆」としてわずかに残っているだけである。一方、それよりも古い時代に南方漁労民によって東南アジアから渡ってきた「糸引き納豆」が各地に広がっていた。しかし、これら糸引き納豆は大和朝廷が推し進める「寺納豆」に押さえ込まれ、京都周辺では普及することが出来なかった。それから千年以上たった現在も、関西の「糸引き納豆」の消費量は他の地域に較べて依然として少ない。食べ物の習慣は根強く長年にわたって影響するものである。

 

我々が今知ることが出来る蕎麦食の痕跡は、縄文時代の遺跡からの出土の次は663年の白村江の戦いで敗戦した廃墟からの炭化した蕎麦であり、その次は元正天皇の勅諭まで飛んでしまう。さらにその次となると元正天皇の勅諭から850年後の木曾の定勝寺改修記録に現われるまで表面に出てきていないのである。そばが我が国の食の表舞台に登場するのはなんと江戸時代半ばになってからである。そしてこの長い日本の歴史は米中心の食文化一色に塗りつぶされてしまっていたのだ。

長い間救荒作物として日陰者扱いされていた蕎麦が、どのように江戸っ子の食べ物へと替わって行ったのか、その変遷の過程については岩崎信也氏の「江戸っ子はなぜ蕎麦なのか」(光文社新書)に詳しいので興味のある方は一読をお奨めしたい。

古事記は天武天皇によって「天皇は遙か神代の時代から繋がっている一本の道」であることが示された歴史書である。そしてこの天皇制は他の者に取って代わることの出来ない大原則であるとして律令制度の基本としたのである。だから古事記に登場する食べ物も彼らが常食としていたものだけしか書かれなかったのかも知れない。こうして片隅に追いやられていた日蔭の食べ物が表舞台に立つのが江戸時代半ばであり、米本位制社会が確立した後からであった。しかし、明治政府が文明開化を旗印に欧風化を富国強兵の手段に選んだことにより江戸文化は古い、捨て去られなければならない文化とみなされ、蕎麦文化も同じ運命を辿ることになったのであろう。

現在ではソバといえば、ラーメンであったり即席めんを想像する世相となっている。だから、あえて昔から食べ続けていた蕎麦を指すときには「日本そば」と言わなければならなくなっているのは悲しい限りである。

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