加藤昇の 大豆の話


U−12 豆腐と納豆

 私はダイズの仕事に携わっていた若い頃から豆腐を「マメが腐る」と書くことに強い違和感があった。自分が作る豆腐のつややかな白い豆腐生地を眺めるにつけ、腐るという言葉の対極にある力強ささえ感じていたものであった。逆に納豆は字のようにマメが円満に収まっている状態とは逆に、見た目はまさに腐敗そのものである。昔の人がこれら二つを間違えて書いたのではないかという人さえいました。皆さんの中にも同じように感じておられる方がいるかもしれないので、このテーマを取り上げてみました。

 豆腐は中国から伝えられてきたものです。その中国では、豆腐はさらに北方の遊牧民から持ち込まれた食品であったのです。南北朝から唐代にかけて、北方遊牧民族が中国へ侵入したとき、乳加工品、ことにその保存食品である乳腐が中原人の間に持ち込まれたのでした。乳利用の遅れていた中国では乳の代用品として大豆を原料とした豆腐が工夫されたといわれています。つまり豆腐の原型は乳製品の一種である“乳腐”だったのです。“豆腐”や“乳腐”の腐という字は腐敗などとは全く関係がない。牛乳から脂肪分の分離が不完全な乳汁は主に蛋白質から成るが、放置すると乳酸醗酵を起こす。この沈殿物が乳腐(カード)で、乾燥したものが乾酪(チーズ)である。豆汁にニガリを入れて沈殿凝固させた豆腐は、その状態や製造の過程がこの乳製品に似ており豆腐の呼び方が定着していったようである。

 乳腐はチーズか、バター分の分離不充分なヨーグルトと考えればよい。では、この乳腐の「腐」の字にはどんな意味があるのだろうか。明らかに伝統的な解釈の「くさる」ではない。さりとて、乳製品で「腐」に転訓しそうな品物は、現代蒙古語には見あたらない、と梅棹教授は言っている。いずれにせよ、この「腐」字は乳製品の胡語に対する宛字であり、胡語なればこそ尊大傲慢なシナ人がこのように不快・不潔な字をあてたのだろうと教授は考えている。時代は南北朝、五胡十六の国々が江北を席捲して行ったころの話である。かくして、乳腐と同様にやや軟かく、いささかブルンブルンとした感触の、いわば脳味噌みたいな食物を腐とよぶことが一般に行われることになり、豆乳から作られた乳腐の代用品なる豆腐と成ったのである。

 一方納豆の字についてはその製法をイメージした命名ではないかと考えられる。納豆は塩納豆(塩辛納豆)と糸引き納豆に大きく分けられる。塩納豆は大豆に塩を加えて長期間醗酵させたもので、その製法は古く中国から伝わったといわれるが、「大徳寺納豆」、「浄福寺納豆」などの名で知られるように、現在では、京都、奈良などの古い寺院を中心に、特定の地域でごくわずかつくられているにすぎない。これに対して糸引き納豆は、塩を加えず、細菌の一種である納豆菌の作用によって、短期間に粘質物を生成させる大豆醗酵食品であり、現在、日本で納豆といえば、大部分は糸引き納豆のことである。

 この糸引き納豆は縄文時代に南方漁労民によってもたらされたと考えられている。一方、中国で生まれた麹菌文化は豆鼓として発達し、仏教などと共に中国文化として紹介され、大和朝廷は大宝律令でこれを「豆醤」とし”醤院令”を施行して保護していた。ではどちらの「納豆」に納豆の字を最初に当てはめたのだろうか。

 「納豆」という文字の初出文献だが、いまのところ藤原明衡(989-1066)作の平安朝末の漢文体小説『新猿楽記』とされている。この物語では、平安京で一家を上げての猿楽見物にことよせて、老若男女、僧侶、妻妾など多数庶民の世態人情を描き出し、物欲、色欲ただならぬ世情を痛烈に批判したものだが、この本の中に「食い意地のはった酒好きの女」が紹介されている。この女は、飲み食いにしか興味のない人間で、そのうえ、かなりのゲテモノ好きときている。彼女の好んだゲテモノの中に「納豆」が登場してくる。文章の流れから考えてこの納豆は、当時の都の貴族や上流階級の者たちにとって、ねばねばして耐えがたい匂いのある珍しい「糸引き納豆」ではなかったかと思われる。

 これら豆腐と納豆は東アジアの大豆文化圏に広くゆきわたっており、大豆の利用法の大きな柱となっている。特に中国には豆腐のバラエティが豊富であり、東南アジア各国ではいろいろな納豆を味わうことが出来る。これらの地に旅行したときには自分の舌で、大豆文化の広がりを確認してみてください。


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