古事記にまつわる阿波の神社
25 天岩戸神社
阿波の国に古事記にまつわる神社が多ければ当然のこととして古事記の上巻に書かれている神代の最大の舞台となる高天原の天の岩戸にまつわる神社があって当然であろう。実際に徳島県内には天の岩戸神社はいくつかある。しかし、単に大きな岩をご神体にしただけではこれが天の岩戸だとは言えない。古事記には天岩戸の場面はどのように描かれているのか改めて読み返してみよう。
『弟、スサノオノミコトのあまりにもの狼藉に天照大神は天の岩戸に立てこもり、高天原も葦原の中つ国(地上)もまるで夜のように暗くなってしまった。困った八百万の神たちは天の安の河原に集まって相談をした。ここで知恵の神である思金神の発案で、天の岩戸の前に長鳴き鳥を集めて鳴かせ、天の金山の鉄で鏡を作らせ、玉祖命に珠を作らせ、天児屋命・布刀玉命に命じて鹿の骨で占い、榊の木を引き抜いてそれに勾玉を飾り中央に八咫鏡をつけ、下枝に布を結びつけて布刀玉命に持たせ、天児屋命にのりとを唱えさせた。アメノウズメノ命はたすき掛けして真榊をカズラにし、笹の葉を手に持って乳房をふり乱し腰ひもをほどけさせながら踊ったので高天原がどよめくほどに神々たちが大笑いした。
天照大神は怪しく思って天岩戸を細めに開いて「なぜアメノウズメノ命はそんなにも遊び、神々が笑っているのか」と問えば、アメノウズメノ命は「あなたよりも立派な神様がおられるのでみんなが喜んでいるのです」と答える。天照大神は不思議に思って顔を出すと布刀玉命は天照大神の顔の前に鏡を出した。鏡に映った自分の姿に思わず体を乗り出したところを隠れていた手力男神が手を取って天の岩戸から引き出し、直ちに布刀玉命が後ろにしめ縄を引きわたしたので高天原も葦原の中つ国も明るくなった。』 とされている。
このくだりからもわかるように天の岩戸の場面になくてはならないものを挙げると、@天照大神が身を隠す岩戸があること、A八百万の神が集う広場がある、B天の岩戸の前にアメノウズメノ命が踊る場所があること、C八咫鏡を作る職人集団が近くにいる、D長鳴き鳥が近くにいる、E安の河原に相当する河原がある、F付近に鹿が住んでいること、G榊の木が生えている林があること、H付近に布を作る職人がいること、などである。そして今回尋ねていった「天の岩戸」神社はこれらの条件をすべて備えている神社なのである。
私が訪ねたのは吉野川の上流にあるつるぎ町一宇にある「天の岩戸神社」である。国道192号線の貞光町から剣山に向かって山道を車で走り登るが、この分岐点にある松尾神社は毎年元日の夜に「天の岩戸神楽」を奉納することで知られている。目指す天の岩戸神社
は徳島県の霊峰「剣山」の中腹、標高830メートル付近にあり今では周辺が管理された杉の大木でおおわれているが、昔は雑木が生い茂る鬱蒼とした雰囲気であっただろうことは容易に想像できる。天の岩戸神社の300m下の谷川には安河明神を祀る祠があるとされており、ここが安の河原だったと想像されている。今回は自動車で来ていたのでそこまで下りていくのをやめにした。それにこの山ではマムシに注意するようにとの情報を耳にしていたからでもある。
先に挙げた天の岩戸の場面で必要ないくつかの要件を確かめてみよう。まずは@の天照大神が身を隠す岩戸だが、写真に見るように大きな岩が2枚合わさり神様が身を隠す雰囲気が十分に備わっている。次にAの八百万の神が集う広場であるが、かならずしも十分な広さの平らな広場があるとは言えないが広い斜面が続いており神様たちが集うのには十分であろうと見た。Bの天の岩戸の前に天のウズメノ命が踊る場所であるが、写真に見るように岩戸の前には平らで広い岩盤があり、天のウズメノ命が乱舞するには格好の舞台である。Cの八咫鏡を作る職人集団が近くにいることについては、私の神社巡り11番目の「金山神社と立岩神社」を読んでもらうとわかるが東方の山裾には八咫鏡を作る職人集団が住んでいる金山がある。次にDの長鳴き鳥であるが、この山の向こうは高知県であり、ここには「長鳴鳥」で有名な「東天紅」が今も飼われている。東天紅の鳴き声は世界最長の記録があるとも言われており、国の天然記念物に指定されているほどだ。恐らく昔からの伝承的な飼育技術で飼い続けられているのであろう。Eの安の河原については既に触れたとおりであるが、神代の地形が現代にそのまま残っているとも思えないので、祠が祀られていることで往時の存在を信じておきたい。Fの付近に鹿が住んでいることやGの榊の木が生えている林があることなどは周辺の雰囲気を見れば十分に推測することが出来る。Hの布を作る技術については、この付近では「太布」という楮などの木の繊維で布を作る技術が伝えられており、現在この製造技法は保存伝承会で受け継がれて今も作り続けられている。
さらにこの場所が天の岩戸神社を祀るのにふさわしいと思われるのは、目の前の峰を越えた隣の斜面の同じ標高に忌部の子孫である三木家が存在していることである。高天原での場面でも出ていた布刀玉命は,忌部の祖神であり、天岩戸の神事を執り行う祭司として古事記に書かれているが、現在の三木家も天皇即位に際して執り行われる大嘗祭に用いる麁服(あらたえ)を皇室に貢進するという役目を今も続けている。大嘗祭とは前天皇から新天皇へと「天皇霊」を受け継いで皇祖神と心身一体化することであり,いわば「天孫降臨」の故事を儀式的に再現したものである。昔の大嘗祭の麁服は先に述べた太布のことである、とも言われている。
私が子供の頃には近所の年寄りたちが「そら」という言葉をよく使っていたことを知っている。私が生まれ育ったのは県南地域であり、この地域の老人たちが「そら」と指しているのはぼんやりと北方の吉野川上流の方向であるが、でもそれは河原や平野を指しているのではなく、かつては山の上に住む山岳部落を指していたのではなかったか、と思い起こしている。昔は三木家があるあたりを「空の地」と呼ばれていたとも聞く。恐らく昔は天の岩戸神社や三木家がある辺りが「そら」と呼ばれ、そこには高天原を想像させる山岳民族が棲んでいたのではないだろうか。標高830メートルに住む山岳民族と平野に住む民族とは容易に交流できなかったであろう。そこで、下から見上げた人たちは彼らの場所を「そら」と表現していたのではないだろうか。そして「そら」の集落を高天原のように眺めていたことであろう。それら山岳民族が減っていくに従い「そら」という言葉はぼんやりと山裾の吉野川上流一帯をさすようになったのではないかと想像している。ここの山裾には「忌部神社」など、今まで訪ねてきた多くの“古事記にまつわる神社”が点在している。それらは「そら地」に住んでいた山岳住民が平地に降りて来て先祖祀りをしていた足跡ではなかろうか、と勝手に想像している。
古事記を書いた人たちは大和に居て、国の近代化への布石として律令制度を推し進めながら皇位継承を盤石なものにするため、高天原からつながる天皇の歴史を書いた。それが古事記である。その中心となって推進したのは天智天皇を父に持ち、天武天皇を夫に持った持統天皇である。天智天皇の息子の大友皇子と夫との間で争われた壬申の乱を再び繰り返さないためにも直系による皇位継承の確立が絶対に必要と痛感したのだろう。そのためにも持統天皇は自分の息子である草壁皇子に皇位を引き継がなければならず、それに邪魔となる大津皇子の処刑などの荒療治に出ている。しかし草壁皇子が若くして死んでしまったことからその子の成長を待たなければならなくなった。ここで皇位を孫(後の文武天皇)に引き継ぐという前代未聞の計画を成功させなければならなかった。そのことを正当化するために天照大神が孫のニニギノミコトに権限を譲って地上を支配させるという「天孫降臨」のくだりを古事記のハイライトの部分に書き込んでいる。つまり、古事記の神代の物語は全く根拠のない作り話ではなく、周辺で起こっている出来事を下敷きに神代と天皇が直結している物語を作っていったと考えられる。つまり神代の物語は荒唐無稽なフィクションではなく現実にあったことを反映しているものなのです。でも彼らは高天原を現在自分たちが住んでいる大和にするのにはためらいがあったのだろう。ではどこか、古代の大王たちが遊んだとされる淡路島が恰好の距離感だったのだろう。しかし、淡路島だけで神代の物語を繰り広げるには狭すぎた。そこで淡路島を国生みの場とし、それ以降の展開は西隣にある阿波などを神代の舞台に選んだのではないだろうか、などなどと思いを巡らせながら帰路についた。