古事記にまつわる阿波の神社 


11、金山神社と立岩神社

  国立歴史民族博物館の館長をされていた佐原真氏は『徳島県は銅鐸の宝庫ですが、なぜこれだけ徳島に多いのか、銅鐸を主な研究テーマにしている私にも、まだ分かりません』とおっしゃっておられた。徳島は銅鐸ばかりでなく古墳なども多く、まだ隠された世界が地の底に眠っていると想像している。

 今日は銅鐸ではなく銅鏡に関連する神社を訪ねてきた。それは金山(かなやま)神社と立岩(たていわ)神社である。

徳島の10kmばかり南に位置する小松島から八多川を上流にさかのぼり、途中から中津峰山に向かって車を走らせると金山神社への分かれ道が出てくる。そこを右折すると左に山方比古(やまがたひこ)神社、別名金山神社があり、その80mほど離れたところに立岩神社がある。この二つの神社は表裏一体となって、かつてこの地にいた職人たちの守り神として、あるいは自分たち仲間のシンボルとしての身近なものだったのではなかっただろうか。この神社は式内社として古く平安時代にはすでにこの地に祀られていた長い歴史を持っている。まず、古事記にはどのように登場してくるのかを見てみよう。

それは有名な天岩戸の場面である。天照大神はスサノオノミコトのあまりにもひどい行いに怒って天岩戸に隠れてしまう。そのために高天原も下界の葦原中国(あしはらのなかつくに)も真っ暗になってしまう。高天原の神様たちは困って皆で相談をするが、このとき知恵の神様である思金神(おもいかねのかみ)が提案をする。『常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集(つど)えて鳴かしめて、天の安河(やすのかわら)の河上の天堅石(あめのかたいし)を取り、天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて、鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求(ま)ぎて、石斯許理度売命(いしこりどめ)に科(おお)せて鏡を作らしめ、、、』と。つまり、鍛冶職人のアマツマラと、その共同作業者であるイシコリドメに金山の鉄で鏡を作らせよう、というのである。こうして作られた鏡が『八尺鏡(やあたのかがみ)』である、と書かれている。この鏡を木の枝につるしてアメノウズメノミコトが踊り、アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトが岩戸から覗いた天照大神の顔の前に鏡を差し出す。自分の顔が鏡に映ったのを不審に思って身を乗り出した天照大神をタジカラオノミコトが腕を取って岩戸から引き出し、フトダマノミコトが後戻りできないように後ろに注連縄(しめなわ)を張り巡らして世の中が元の明るさになる、というくだりである。

 ところでこの「八尺(やあた)鏡」とは八尺の長さの鏡だとの解釈が一般的だが、私はこの解釈は間違いだと思っている。確かに尺は中国の周の時代(紀元前1046~771)に作られた長さの単位ではある。周時代に作られた長さの単位は、手のひらから手首の脈を打っているところまでを基本とし、この長さを「寸」としている。寸の字の最後の点は脈を打っている場所を示している。自分の手首の脈の位置を探ってみても納得できるようにそれは大体3cmである。その寸を10倍したのが「尺」で肘の脈を打つところまでの長さとした。つまり30cmの長さということになる。この尺の字は、中国から我が国に仏教と共に最初に持ち込まれた呉音では「シャク」と読まれ,その後遣唐使が持ち帰った漢音では「セキ」と読まれていた文字である。八尺と書いて「ヤアタ」とか「ヤタ」とは読んでいない。ところが同じ周の長さの単位で「咫」というのがある。これは婦人の肘の長さを示しており「寸」の長さの8倍としているので約24cmということになる。この字は漢でも呉でも「シ」と読んでいたが、この「咫」という字がわが国の上古の時代には「アタ」または略して「タ」と読まれていたことが分かっている。これはわが国では親指と小指を張ったときの長さを示しており約20cmだったとしている。つまり、「ヤアタの鏡」または「ヤタの鏡」と読むためには「八尺鏡」ではなく『八咫鏡』と書くのが正しいことになる。

 では、「咫」が長さの単位だったとして「八咫鏡」の大きさを想像してみよう。すると、周の長さでは24cm8倍として直径192cm、わが国上古の長さでも20cm8160cmということになる。当時の鋳造技術から考えてありえない大きさの鏡であるし、こんな鏡は古代の中国にも日本にも出土したためしがない。だいたい特筆すべき大事な鏡に単なる長さだけの名前をつけるだろうか。現代でも貴重な品物に命名するときには作者の名前か、あるいは作られた場所の名前が一般的である。「八咫鏡」のように天照大神の身代わりともされる大切な鏡に単なる寸法だけで呼ぶというのは不自然である。

 ここで今回の神社の出番となる。この二つの神社がある場所は徳島市多家良(たから)町というところであり、隣は八多(はた)町である。古く上古の時代からこの地には銅の製錬、鋳造所があったと伝えられており金山神社の横には古代たたら遺跡が今も残されている。また、この周辺には弥生式土器や古墳なども見つかっており、上古の時代から古代金属器の製作集団が住んでいたところである。ここの地名である多家良町は古代の製錬技術である「たたら」からきているといわれている。この地区はまさに鋳造技術を職業にしていた集団が住んでいたところである。そして、この地区には古くからタタラ踊りが受け継がれており、今も古代の人たちとのつながりを窺い知ることが出来る。多家良町の隣は八多町である。ヤタという鏡の命名はこの地の名前からきていると考えることが出来るのではないだろうか。つまり「八咫鏡」はこの地で作られ、地名の「八多」が「八咫」になったか、あるいは元々この地名が「八咫」と呼ばれていたのが、いつの間にかより平易な「八多」に替わっていったと考えられる。
 さらにこの鏡を作った職人を古事記では「天津麻羅」と呼んでいる。それについては隣に祀られている立岩神社が明らかにしてくれる。

立岩神社のご神体は大きく聳え立つ巨大な岩である。どこにもありそうな巨岩崇拝のようでもあるが、隣の金山神社と一緒に眺めると、とたんに別の姿が見えてくる。添付写真を見てもらうと下手な説明よりも理解が早いが、この大岩はまさに男根の麻羅そのものである。このいきり立った石の迫力は目の当たりにすると見事の一言である。10人の男の参拝者に「この岩に命名してくれ」と頼めば、おそらく全員が「麻羅岩」か、あるいは同義語を答えるに違いない。女性の参拝者は恥ずかしがって答えを避けることだろう。それほどこの高さ7m、幅4mの大岩は男根=麻羅以外の表現のしようのない迫力がある。この岩の周辺を仕事場にしていた上古のたたら職人たちは当時では自分たちにまだ名前がなかったので、古事記に書き込まれるときには、目印になるこの岩を愛称として「鍛人天津麻羅」としたのではないかと想像される。

 かくして古事記の「八咫鏡」について書かれている段落はこの「金山神社」と「立岩神社」ですべて説明がつくことになる。つまり、天の岩戸を開くために作った鏡も、その後天照大神のご神体と崇められる3種の神器の鏡もこの多家良町に住んでいたたたら職人によって作られたものであり、それを今に残しているのがこの二つの神社であろう。

 私が冒頭に書いた「徳島に銅鐸が多い」理由は、この地が古代の銅の製錬技術発祥の地だったことと関係しているのではないかと想像している。


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