古事記にまつわる阿波の神社 

 

 

22、素盞雄神社と建神社

  すでに吉野川市山川町でスサノオノミコトを祀る「天村雲神社」を尋ねている。そしてこの周辺にはスサノオノミコトにまつわる地名、「須賀」が点在しているのも知った。今回訪れた素盞雄(すさのお)神社と建(たけ)神社は天村雲神社などがある山川町村雲とは吉野川をはさんだ隣町の脇町にある。山川町の天村雲神社の近くにはやはりスサノオノミコトを祀る祇園神社がある。

スサノオノミコトは古事記では須佐之男命(建速須佐之男命)と書かれており、日本書紀では素盞鳴尊(神素戔鳴尊)となっている。ここ素盞雄神社は村民たちが長い年月にわたって静かに守ってきた雰囲気が漂っている。質素な神社ではあるが、境内に生えている樹木の大きさなどから想像するとかつてはもっと大きな境内を構えていた神社ではなかっただろうかと想像出来る。

スサノオノミコトは正式には建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)と称されているので、その頭文字から「建神社」としたのが近くにあるもうひとつのスサノオノミコトを祭る神社である。ここは古い歴史を持つ式内社だったとされている。吉野川をはさんだこの周辺はまさにスサノオノミコトに色濃く染められた一帯ということができよう。

 

 古事記によると、イザナキノ命が黄泉の国から逃げ帰ってきて、その穢れを橘の阿波岐原でミソギをしたとき、左目を洗ったときに生まれたのが天照大御神であり、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)が生まれ、鼻を洗ったときに生まれたのが建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)であると書かれている。ところが日本書紀には、天照大神、月夜見尊に続いて水蛭子(ひるこ)を生み、これを海に流してから神素戔鳴尊が生まれた、と書かれている。生まれる順番が少し食い違っている。この須佐之男命の乱暴さの記述は両方に共通している。日本書紀には、スサノオノミコトは性質が勇猛で怒り憤ることが多く、またしょっちゅう泣き喚いた。そして人民を多勢殺したり青々と草木の茂る山を枯木の山と変えたりした、と書かれている。

いずれにしてもスサノオノミコトは高天原に生まれたれっきとした天津神(あまつかみ)のはずなのに、この神の6代目の子孫が国津神(くにつかみ)の大国主命となっている。ということは、スサノオノミコトは高天原に生まれた国津神だったのか。この辺が古事記などの悩ましいところでもある。

 

高天原に居たときはさんざん悪戯をしていたスサノオノミコトも、地上に追放されてからはヤマタノオロチを退治してアメノムラクモノ剣を天照大神に献上したり、クシナダヒメを娶って須賀の宮に新居をつくり仲むつまじく暮らすなど打って変わった良い神へと変身している。これは高天原を追放されるときの天照大神の思いやりがスサノオノミコトを変えたのだとの見方もあるがどうだろうか。さらにスサノオノミコトは新居を須賀の地に構え、その喜びをわが国最初の和歌に詠んでいる。妻となったクシナダヒメとは仲睦まじく、二人の間にヤシマジヌミ神を産んでいるが、しかし一方ではちゃっかり大山津見神の娘との間にも子供をもうけており、その神の子孫が大国主命となるである。

 

現代では、スサノオノミコトを祀る神社として観光客が大勢つめかけているのは京都の八坂神社であろう。あるいはご祭神が誰であるか知らずに立派な建物に惹かれてお参りをしている人もいるのかも知れない。全国に点在するスサノオノミコトを祀る神社で多いのは祇園社と天王社であり、これら祇園社と天王社の総本社が京都・祇園の八坂神社なのです。それは、八坂神社がもともと祇園社と呼ばれていたからであり、天王社は神仏習合時代に牛頭天王を祀っていたからである。牛頭天王はインドのお寺の守護神でスサノオノミコトと同一視されていた。いずれにしても八坂神社は京都の観光イベント祇園祭と共に全国にその名が知れ渡っている。それはこの地に朝廷があり、貴族が住んでいたから華やかな祭りに盛り上がったのであって、古事記の世界で言えば中心からはずれた後世の祭りごとにすぎないのではないかと思っている。

 

 私はこの地、徳島の山川町、脇町に住んでいた古代の住民たちがなぜこれほどにスサノオノミコトに固執したのかを知りたいと思っている。自分たちの土地をスサノオノミコトが住んだとされる「須賀」と呼び、同じ町内に「天村雲神社」を2つも作ったり、「祇園社」、「素盞雄神社」、「建神社」とスサノオノミコトにまつわる神社を次々に作っていく、その熱い気持ちはどこから来ているのだろうか。この地に住んでいた人たちにとってスサノオノミコトとはどんな存在だったのだろうか、興味がつきないところだ。

 

 またスサノオノミコトは蘇民将来としても民衆と深くつながっている一面がある。さらに日本書紀によれば、スサノオノミコトは高天原を追放されたときに自分の子、五十猛(いそたける)神をつれて新羅の国に天降っている。そして「私はこんな国に住みたくない」と言って粘土で舟を作り出雲の国の鳥上の峰に着いた、とされている。どうして日本書紀にはこんなことをわざわざ書いたのだろうか。いずれにしてもスサノオノミコトは他の神と比べても複雑な内面を持っているようでいろいろな憶測が飛び交う神様である。

 

 この村に住んでいた古代の人たちはこれらの神社を囲んでどんな暮らしをしていたのだろうか。神社を通じてスサノオノミコトとどんな心のつながりを持っていたのだろうか。そんなことを思い巡らしながら吉野川の土手を帰ってきた。



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