古事記にまつわる阿波の神社
13、天村雲神社
ヤマタノオロチ伝説にまつわる神社が阿波にあるとは思いもしなかった。ところがいろいろ調べているうちにここ吉野川市山川町にはヤマタノオロチにまつわる舞台が広がっていることに気がついた。
目指す天村雲(あめのむらくも)神社は徳島の街から吉野川に沿って車で1時間ほど走ったところにある。ここ山川町村雲は吉野川の土手から少し入った、水田や畑に囲まれたのんびりした田舎の光景の中にあった。そんなところに祀られている天村雲神社にはどんな物語があるのか、まずは簡単に古事記のストーリーを紹介しておきましょう。
高天原でさんざん悪戯をして下界に追放されたスサノオノ命(須佐之男命)は、出雲国の肥河(ひのかわ)の上流、鳥髪という所に降りてくる。そこで泣き崩れている美しい娘とその両親に出会う。様子を聞くと毎年恐ろしいヤマタノオロチという大蛇が来て娘を一人ずつ食べてしまう。それがこれから来てこの娘が食べられるのだという。スサノオノ命は両親に、娘と結婚させてもらえるなら私が助けてあげよう、と約束をする。スサノオノ命はヤマタノオロチの好きな酒を用意しておき、酔っ払ったヤマタノオロチを切り殺してしまう。そのとき尻尾を切ったらそこから「草薙(くさなぎ)の剣」が出てきた。スサノオノ命はその剣を高天原の天照大神に献上する。
こうして約束どおりその娘、櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚し、新居を「須加」という地に構え、その喜びの気持ちを歌に詠んだ。
『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を』
この歌が我が国最初の歌だとされている。
それからしばらくたって、高天原ではニニギノミコトが天孫降臨することになるが、このとき天照大神からこの「草薙の剣」と「八咫(やた)の鏡」そして「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を自分と思って祀れ、と預かる。これらは後に天皇の象徴として皇室に受け継がれる三種の神器となる。こうして「草薙の剣」は再び下界に下りてくる。
その後、この「草薙の剣」は垂神天皇の時代に現在の伊勢神宮に祀られるが、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国制圧に向かうときに伊勢神宮でこの剣を受け取り、東国へと遠征に出掛ける。この東征に向かう途中、今の静岡県焼津あたりで土地の豪族の計略に会い、周辺の草に火を放たれる。このとき日本武尊は預かった剣で周囲の草を薙ぎ払い、難を逃れることが出来た。そこでこの剣を「草薙の剣」と名づけたとされている。
余談ながら、私は若い頃の勤務地が清水市(現在の静岡市清水区)だったので草薙神社は地元として何度も訪れていた。特に秋祭りには名物の流星が盛んで秋空に舞う流星は今も目に焼きついている。
無事に東国制圧を成し遂げた日本武尊は帰り道に、尾張の国で土地の娘と結婚し、この娘に草薙の剣を預けたまま息吹山の悪神を討伐に行くが、山ノ神によって病にされ途中で死んでしまう。娘はこの預かった剣を祀るために「熱田神宮」を建てる。それ以来、現在も熱田神宮に「草薙の剣」は祀られていることになっている。
以上が古事記に書かれている「草薙の剣」のあらましである。しかし、ヤマタノオロチの尻尾の中から出てきたときに「草薙の剣」と命名するのは少し変だとは思いませんか。「草薙の剣」と命名されるのは日本武尊が周辺に火を放たれた時に草を薙ぎ倒したことから名づけられたものであり、ヤマタノオロチの尻尾から出てきたときには別の名前があったはずです。
日本書紀には、ヤマタノオロチの頭上にはいつも雲がかかっていたので、尻尾から出てきた剣に『天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)』と名づけた、としている。そしてその剣によって日本武尊は東征のときに草を薙ぎ倒して難を逃れたことから「草薙の剣」と呼ばれるようになった、とされている。こちらのほうが自然さを感じさせる。つまり、今回訪れた「天村雲神社」はスサノオノ命がヤマタノオロチを退治したときに出てきた天叢雲剣にまつわる神社なのです。そして意外にも式内社「天村雲神社」は全国でも徳島のここだけにしかないのです。
この「天村雲神社」のご祭神は天村雲命である。この神様はスサノオノ命の息子である五十猛命(いだてのみこと)だといわれている。さらに、この神社の隣村が山川町大須賀という地名である。なんと、スサノオノ命がクシナダヒメと新婚家庭を構えた須賀の地名がここにあるのだ。これは一体どうしたことだろう。古代の阿波人が古事記の物語を楽しんで地名につけたのか、あるいは古事記に書かれていたような出来事がこの地にあったのか、興味が尽きないところである。
さらに興味深いことに、この山川町に「天村雲神社」が二つあることです。山川町村雲にある「天村雲神社」のほかに、山川町雲宮にも「天村雲神社」がある。ここの神社の隣村には山川町中須賀がある。なんと両方の「天村雲神社」の隣にはいずれもスサノオノ命が居を構えた「須賀」の地があるのだ。この二つの神社は2kmしか離れていない。一体これはなにを意味しているのだろうか。これらの神社が出来た平安時代の昔から両方の部落で本家争いを繰り返していたのだろうか。ここに住んでいた人たちにとって「天村雲神社」とは、一体どんな存在だったのだろうか。
いろいろ調べているうちに面白いレポートに出くわした。徳島有機農業推進協議会の活動報告の中にこんな話がのっていた。
「式内社天村雲神社」は「忌部神社」の摂社であり、忌部氏は天皇家の祭事を上古の時代から司っている。ここ「天村雲神社」の上流には銅や鉄などを産出する鉱山があり、戦前まで実際に採掘されていた。上古の時代に忌部一族がここで「天叢雲剣」を造り、天皇に献上していたのではないか、と想像している。なんともすばらしい活動報告である。
また、他の資料には、「忌部神社」の神官家のひとつに「村雲家」があることからも、阿波忌部族と天村雲神、ヤマト王権の成立と阿波忌部族との密接な関係を窺がうことが出来るとして、やはり「天叢雲剣」は当地の忌部族が製造した可能性が高い、としている。
ところで、この剣はその後も幾多の変遷をたどることになる。源平合戦の壇ノ浦での平家滅亡の際には「二位の尼」が腰にこの剣を差して入水してそのまま失われてしまった、とされている。他の二つの神器は回収されたが「草薙の剣」だけは見つけられなかったらしい。このことが頼朝、義経不仲の原因のひとつともいわれている。
でも現に宮中儀式ではちゃんと「三種の神器」は備えられている。実在しているのが本物だと思っていればいいことで、それ以上は考えないことにしている。
いろいろと思いを巡らしながら帰路に着いた。昼食場所を探しながら車を走らせて道路沿いの蕎麦屋に入った。入ってから気がついたのだが、なんと店の名前が「八雲」というのだ。スサノオノ命が新婚時代の住居である須賀の宮から山に立ち上っている雲の様子を詠んだ、例の「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに、、、」の八雲である。天村雲神社の向こうには鉄や銅が産出して、地元の人たちから神の山として崇められている高越山がそびえている。この歌は高越山の景色を詠んだのだろうと想像できる。店の主人にそれらを尋ねるのも忘れて、蕎麦を食べながら上古の夢に浸っていた。