古事記にまつわる阿波の神社 

 

 

21、蛭子(ひるこ)神社

  古事記の冒頭の重要な部分である国生み舞台の「おのごろ島」はなんとも後味の悪い話で終わっている。イザナギ、イザナミ両神が最初に産んだ二人の神様が完全な姿でなく、二人とも海に捨てられてしまった、とされている。最初に生まれた神様は「水蛭子」であり、続いて「淡島」である。このシリーズ9では「淡島」についてふれ、その淡島を祀る「淡島神社」について書いたので、今回は「蛭子神社」を尋ねてみることにした。

 古事記の水蛭子についての記述は簡単である。「蛭子が生まれたのは女性のほうから声を掛けたからだ」というのがその理由である。イザナミノミコトから声を掛けることがそんなに罪深いことだろうか。古代の日本が母系社会であったことから考えると、女性から声を掛けることがそんなにも罪深いこととは到底考えられない。そのような考えは古事記の編纂当時の儒教思想に基づいた考えであり、それ以前日本にはなかったのではないだろうか。私はこの部分は古代から伝わった伝承ではなく古事記編纂者が意図したものではないかと思っている。しかも古事記では「蛭子」ではなく、「水蛭子」と書いてヒルコと読ましている。古事記が古代からの伝承に文字を当てはめたとするならばヒルコには「蛭子」の字で充分であり「水」の字は余分である。この「水」に古事記編纂者はどんな意味を込めているのだろうか。私には「蛭子」という卑しめた文字だけでは物足らない、蔑みを強調する意図があったのではないかと思っている。

 この禍禍しい姿を想像する「蛭子」を捨て去ることによって、あたかも「誤りの神話」はここで終わって、これから「正しい神話」が始まる、とでも云わんとしているかのように見える。これがもし、神話でなくて歴史書であれば、さしずめ革命が起きて新たな国家が誕生した、という場面であろう。私は古事記編纂者が何かを葬り去りたかったのではないかと思っている。

 ところで、同じ時代に書かれた国の歴史書である日本書紀には、「蛭子」はどのように登場しているのだろうか。日本書紀では「国生み」に続いて「神々の誕生」が始まる。最初に生まれたのが日の神オオヒルメノムチであり、続いて月の神ツクヨミノミコト、3番目に「蛭子」が生まれ、続いてスサノオノミコトが産まれている。そして、蛭子については3歳になるまで脚が立たず、堅い樟の木で作った舟に乗せて風のまにまに押し流して棄ててしまった、と書かれている。最初に生まれたオオヒルメノムチとは、古事記で言う天照大神のことである。ここで言うムチとは神に対する尊称であり、最初のオオは修飾語であるので厳密な神名は「ヒルメ」ということになる。つまり、「ヒルメ」の後に「ヒルコ」が生まれた、ということになる。

 

 ところで古事記は今では誰でも目にすることの出来る現存する最も古い書物となっているが、江戸時代に本居宣長が古事記に解釈を施すまでの間、長く皇室の中に仕舞われて一般には目にすることが出来なかった秘蔵の書物であった。だから対外的にも長い間、わが国の歴史書は「日本書紀」が代表していたのである。そしてそこには最初に生まれた神はオオヒルメノムチであり、そこに「一書には、天照大神という」としている。しかし、ヒルコに関しては古事記も日本書紀も冒頭に触れたように簡単にしか書かれていない。まるで記述を避けているようにも思えてくる。私はこの2つの歴史書が誕生する飛鳥時代には律令国家建設の時期にあたり、律令制度確立にあたって葬り去っておかなければならなかったことがあったのではないかと考えている。

 このいわくつきの神様を祀ってある「蛭子神社」をインターネットで検索すると全国に広く点在していることが分かる。それは西から鹿児島、福岡、兵庫、愛媛、和歌山、福井、岐阜、三重、神奈川、秋田などにほぼ1社づつ祭られていることが認められる。ところが徳島県を調べてみると、ここには「蛭子神社」が多いことに驚かされる。なんと徳島県には「蛭子神社」が、私が調べた範囲だけでも27社あり、しかも県南部の海岸に面した阿南市だけで15社に上るのである。この阿南市の「蛭子神社」の多さが際立っているのは、紀伊水道を挟んだ反対側の和歌山市には「蛭子若宮神社」1社しか見当たらないのとは対照的である。しかも阿南市の中でも那賀川河口を中心に集中しているのが特徴的である。これらの神社の社格は村社か無格程度のものであるが、これらの神社のある地名が「蛭子浜」とか「蛭子山」、「蛭子前」、「蛭子東」、「戎野」とつけられており古くから地域に溶け込んでいたことを偲ばせる。そしてさらに驚いたことに、それらの「蛭子神社」が密集している真ん中に、同じ「おのごろ島」から流された「淡島神社」が祀られているのである。「淡島神社」はシリーズ9で書いたように、地形的に眺めて「おのごろ島」から海流に乗ってたどり着きそうだと想定した、徳島県阿南市の淡島海岸にある。そして「蛭子神社」も同じところに集中していたのだ。

 私は淡島海岸の近くにある阿南市出来町と中林町の蛭子浜にある「蛭子神社」を尋ねてきた。両方とも無格の神社とはいえ長い歴史と風格を感じさせる趣深い神社であった。

 ところで、冒頭に書いた「ヒルコ」として時の為政者が神話の名を借りてわが国の歴史から葬り去ろうとしたのは何だったのだろうか?

 私は勝手にこう解釈している。それは、中国の歴史書に日本の国王とされている「ヒミコ」ではなかっただろうか。律令国家を建設し、神代から続く「スメラミコト」体制を明確にしていくためには、中国の歴史書に、わが国には別の国王がいた、という記述ははなはだ邪魔であったろうと思われる。当時では中国の歴史書は世界の歴史書にも相当していたからである。そこで古事記編集者は「ヒミコ」を「ヒルコ」として葬り、「ヒルメ=天照大神」を柱とする新たな歴史書に書き直したのだ、と私は思っている。 だからこそ古事記も日本書紀もヒルコには深く触れずに1行文で済ましてしまったと見ているのだが、どうだろうか。

もちろんこれらを立証する裏付けはありませんが、、。


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