古事記にまつわる阿波の神社 

 

9、淡島(あわしま)神社

  伊弉諾神宮のところでも書いたことだが、伊佐奈岐命と伊邪那美命がおのごろ島で国生みを始めた最初は正常な国土や神を生むことが出来なかった。最初に生れたのは未熟児の水蛭子(ひるこ)と淡島(あわしま)であった。古事記には次のように書かれている。『然れども、くみどに興して 子 水蛭子を生みたまいき この子は葦舟に入れて流し去てき。つぎに淡島を生みたまいき。この子もまた子の例(かず)に入れず』と。おそらく水蛭子とは蛭のように手足がまだ発育していない未熟の水子を堕胎したのではないだろうか。ちなみに日本書紀では3年経っても足が立たないので流した、としている。いずれにしても、この水蛭子は葦舟に乗せて流してしまったが、淡島についてはどう処置したかは書かれていない。しかし二人の未熟児を丁寧に弔ってあげようとの気持ちには差がないことだろう。狭い島での葬送となれば水蛭子と同じように箱舟に乗せて流してあげる以外に考えられない。もちろん古事記にはこれらの未熟な子がその後どうなったかについては書かれていない。かれらはどこに流れていったのだろうか、そんなことに想像を膨らませてみた。

 おのごろ島とされる沼島は淡路島の西側に位置している。ここから舟に乗せて流せば当然のこととして鳴門海峡の速い流れに乗って紀伊水道を南下していく。鳴門海峡の流れは速く、海流に乗ってしまえばしばらくは陸地に漂着できそうにない。もし、漂着するときには常識的に考えて和歌山県側に漂着するよりも徳島県側に漂着する可能性が遥かに高い。では早い鳴門海峡の海流に乗った葦舟はどのあたりに漂着するのだろうか。ここで徳島県の地図を思い出してもらいたい。紀伊水道に面した徳島県の地形は鳴門海峡からしばらくはほぼ垂直に南に下るが、20kmほど南下した辺りから陸地が海にせり出している。一番せり出した先端を地図で確認すると、そこは阿南市淡島という地名が見える。そしてそこに淡島神社がある。

 もし、この淡島の海岸に漂着しなければ、その舟が次にたどり着くのは橘湾を挟んだ南側の蒲生田岬(がもうだみさき)ということになる。ここは四国の最も東にせりだした突端とされており、ここに漂着出来なければその先は太平洋となってしまう。だから陸地への漂着のチャンスはこの阿南市淡島周辺か蒲生田岬のどちらかということになる。阿南市にある淡島といっても別に島ではなく美しい海岸線の続く陸地で周辺は淡島海岸があり、子供たちに人気の淡島海水浴場も有名である。淡島と島のつく地名も周辺の光景には似合わない名前に思える。この阿南市淡島に淡島神社があるのだ。

 この淡島神社こそおのごろ島から流された未熟児の淡島が流れ着いたところに相当しているのではないかと思っている。ところが全国には多くの淡島神社があることに驚かされる。私が住んでいる東京の世田谷にも淡島神社が祀られており、その周辺には交通量の多い淡島通りが走っている。しかしこれらの淡島神社はすべて今回ここで取り上げるおのごろ島から流された淡島とは全く関係のない神社であることが分かった。全国に点在している淡島神社は、神功皇后が三韓出兵の帰路、瀬戸の海上で嵐に遭遇し、船中で祈りを捧げたところ「舟の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに舟を進めるように」とのお告げにより無事入港できた故事から祀られている神社である。そしてその中心となっているのが和歌山市にある淡島神社とのことである。つまりおのごろ島から流された未熟島である淡島と思われる神社は徳島県阿南市にある淡島神社しか見当たらないということになる。

 多くの寺院で水子供養が祀られている。はからずもいろいろな事情でこの世に生を受けられないで葬られた水子をねんごろに弔う風習は古くから我が国に続いている。古事記に書かれた時代の人たちにとってもそのような気持ちが強かったことと想像できる。昔の阿波の人たちに古事記に対する思い入れが強かったとすれば彼らが漂着した水子を弔う祠を作ることは自然な行為として考えることが出来る。あるいは当初はそんな気持ちから作った神社が、その後の淡島神社ブームのなかで他の淡島神社の中に埋没していったということも考えられる。

私はここの淡島神社はまさに古事記のストーリーにぴったり符合するところに位置しているだけにイザナギノミコトとイザナミノミコトが最初に懐妊し、水子として堕胎してしまった淡島を祀る神社であると確信している。

 では、一方の水蛭子(ひるこ)はどうなったのだろうか。こちらも古事記にはその後のことはなにも書かれていない。しかし、子供を葦舟に乗せてひそかに流してしまう話はどこかで聞いたことがあるでしょう、そう、赤ん坊のモーゼがパピルスで編んだかごに入れられてひそかに川に流された話が有名です。しかし、モーゼは拾い上げられて立派に成長している。我が国の水蛭子はそのまま大海原へと流れてしまったのだろうか。まったく手がかりがないが、こんな伝説が残っている。葦舟に乗せて流された水蛭子はひそかに海岸に流れ着き、成長して商売の神エビスさんとなった。しかし、本来の神様には加えてもらえず出雲の神在月での集まりにも出席させてもらえない。しかし商売の神様として庶民に親しまれ、各地の地名には今でも「蛭子町」とかいて「エビス町」と呼んでいる、とか。 

 えびすさんとは事代主神(ことしろぬしのかみ)のことである。古くより事代主神社は徳島市八万町夷山の蛭子山に鎮座していた。しかし、あまりにも参詣客が多く、周辺の田畑が踏み荒らされたので農民たちには貧乏戎と呼ばれて大いに迷惑がられていた。そこで神社の火災を機に現在の徳島市通町に移されたといわれている。また、徳島市沖洲には蛭子神社もある。さらにえびすさんは徳島、勝浦の地で生れたとも言い伝えられており、徳島にはえびすさんにまつわる話が豊富だ。あるいは水蛭子を乗せた葦舟は徳島の海岸に流れ着いていたのかもしれない。

  話は替るが、古事記の垂仁天皇のところに「時じくの香(かく)の木の実」という項目がある。ここには次のような話が書かれている『天皇はタジマモリに常世の国へ行って時じくの香の木の実を持って来いと命じた。タジマモリはやっとのことでその木の実を採って帰ってみると、すでに天皇は亡くなっていた』と。天皇が命じた「時じくの香の木の実」とは永遠の命を生む不老長寿の実を意味しており、中国の神仙思想の仙薬と同じことであろうと思われる。

悲しんだタジマモリは、その実の半分を大后に差し上げ、残りを天皇の御陵の戸に奉って泣き叫び死んでしまった。『その時じくの香の木の実は、今の橘なり』としている。しかし、この実を半分もらった大后もその後に亡くなってしまった、と古事記は結んでいる。

 タジマモリは一体どこへ「時じくの香の実」を捜しに行ったのだろうか。実は、橘の木は照葉樹であり、茶や椿の木、サトイモなどと同じくインドネシアなど東南アジアから黒潮に乗って伝播してきたものである。そこには食文化などに多くの共通文化を有している照葉樹林帯文化圏の一端に属するものであり、日本はその北端にあたる。だから、橘の木を探そうとすると、常識的にはまず太平洋側の黒潮の流れている地域を探さなければならない。

ところが、さきほどにも少し触れたが、この淡島海岸の南には大きく橘湾が広がっている。その湾の奥には阿南市橘町がある。そしてこの橘町の南には同じ照葉樹である椿の名を持った椿町もあり、まさに照葉樹林帯が色濃い地域といえる。橘という地名はここだけとは限らないが、大和から探しに出て行ったとすると、まず四国の南海岸に足を向けることが自然なことのように思われる。そしてそこに橘の木が生い茂る徳島の南部、阿南市橘町の地へたどり着いたのではないかと思っている。ここには冬でも青々と緑の葉が茂っている常緑樹に覆われており、大和の地から訪ねてきた者にとってはまさに『常世の国』に写ったに違いない。

 以上、ここで私が書いたことはあくまでも私の推測の域を出ないことばかりであるが古事記が書かなかった行間を埋めることになったのではないかと思っている。


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