市電のある風景・京 都

 (13) 東山線
日本国旗
 
撮影: 1975~1977, 制作: 2017/11 

東大路を走る京都市電をご紹介します。この路線は北大路、西大路及び九条通とともに京都の市街地を囲む外郭線を形成する東側部分に当たります。京都の市電が廃止される1978 年まで走っていましたので、比較的若い方も通学や観光で利用された思い出があると思います。

京都市電東山線岡崎公園前
Kyoto City Tram at Okazaki Park ~ Kumano Shrine Sep-1975.

京都市電東山線路線図
  東山線が最初に開通したのは東山三条~馬町で、1912(大正元)年のことです。たびたび言及していますが、明治末期に作られた市街地の整備計画に基づき、道路を拡幅して市電を敷設しました。
その後南北両側が延長され、1928(昭和3)年には百万遍~東福寺となりました。百万遍~高野の区間は、戦争中の1943(昭和18)年に開通しています。



京都市電東山線東山七条
Higashiyama-Nanajo

東山七条、智積院の前です。電車に乗る人々で大変混み合っています。ここから祇園にかけての沿線には、三十三間堂、国立博物館、清水寺、産寧坂、円山公園等々、有名な観光スポットが続いており、大勢の観光客が市電を利用しました。

(1977/9/25)
 

京都市電東山線祇園
Gion
祇園の三叉路交差点、いわゆる石段下です。炎天下にもかかわらず、八坂神社へお参りする人達で賑わっていました。

撮影時の[22]系統は、今出川通を経由する外郭循環線でした。  (1975/9/6)
 
京都市電東山線祇園
  京都市電東山線祇園
同じく祇園の電停です。多くの観光客が利用する市電でありながら、この狭い安全地帯に代表されるように、付帯設備はお粗末でした。京都観光にクルマを使うという発想をやめさせる工夫が全く見られず、立派な社会資本である市電が、無理解と無策のまま消えていきました。 (1977/9/23)

←1972年に四条線が廃止された後も、四条線の電停名「四条京阪前」が表示版に残っていました。消し忘れです。
 
京都市電東山線知恩院前   Chion'in Mae

知恩院前の電停です。近くの女子高の生徒さんが帰宅する時間です。市電の中で、他校の人とお友達になる機会があったことでしょうね。

(1975/9/6)
京都市電東山線東山三条   Higashiyama-Sanjo

東山三条の交差点です。京阪電車の京津線との平面交差が見られました。
お互いの架線が絶縁されている様子が分かります。
たまたま、京阪電車側の軌道が工事中でした。 
京阪電車東山三条   こちらは東山三条の交差点を行く、京阪京津線です。奥が蹴上方向で、手前に市電の線路が写っています。
車両は260形の急行電車、ステップのない鉄道仕様ですので、御陵(みささぎ)までノンストップです。こんな大きな電車が道路の真ん中を走っていました。
京都市電東山線東山仁王門   Higashiyama-Niomon

東山仁王門です。右へ行くと平安神宮の大鳥居や美術館、動物園などがあります。市電を使って、のんびりと散策を楽しむことができる場所です。
 
京都市電東山線東山仁王門   上掲と同じ場所です。毘沙門天信行寺の土塀の陰から、小さく市電を入れてみました。
一方通行の矢印の小路が、電停名になっている仁王門通 です。道路名は、この先の川端通にある頂妙寺の仁王門が起源だそうです。



京都市電東山線岡崎公園前   Okazaki Park

岡崎公園前です。岡崎公園はここよりずっと東にありますが、市電の電停としては一番近いところになります。
※現在のバス停名は、東山二条です。
 

背景は妙伝寺の伽藍です。この辺りは江戸時代、宝永の大火によって多くの寺院が鴨川の東へ移転させられ、寺町を形成しています。
京都市電東山線岡崎公園前   上掲のすぐ北側、岡崎公園前の電停です。この先で、琵琶湖疏水に架かる徳成橋を渡ります。
冒頭の写真をもう一度ご覧下さい。沿線で一番心に残る風景です。

[16]系統は烏丸車庫と九条車庫を東山線経由で結ぶ系統でした。 1976年に今出川線が廃止され、同線を走っていた[22]系統が北大路経由の外郭循環線になりました。このため、[16]は[22] に統合されています。

 
京都市電東山線熊野神社前   Kumano Shrine

熊野神社前の交差点です。北東角にあるのが京都を代表するお菓子、聖護院八ツ橋の熊野店です。八ツ橋発祥の地と言われる総本店は、ここから一筋北の春日北通にあります。

 
京都市電東山線飛鳥井町   Asukaicho

百万遍の北、飛鳥井町です。この先の区間は元々市街地ではなく、畑の中に造られたため、高野まで一直線になっています。

(1976/3/13)
 
京都市電東山線叡電前   Eiden Mae

元田中の叡電前で、京福電鉄叡山線(叡電)と平面交差していました。
1900形のワンマンカーが叡電の線路を横切っていきます。
1955年まで、この場所には市電と叡電を結ぶ短絡線があり、市営競輪の開催日に市電が叡電の宝ヶ池まで乗り入れていました。市電を残しておけば、京都駅前発鞍馬行きの観光電車が実現していたかも知れません。


叡電と市電の邂逅シーンです。レトロな叡電124号は1928年製、ピンと張ったポールが何とも素晴らしい。↓
京都市電東山線叡電前 

京都市電東山線田中大久保町   Tanaka-Okubocho

田中大久保町まで来ると、正面の山々がくっきりと見えるようになります。比較的新しい路線で、交通量も少ないため、敷石の美しさが維持されている区間です。
京都市電東山線田中大久保町   上掲の歩道橋から南を望んでいます。東大路から七条通を経由して京都駅に到る[6]系統が、すれ違っています。
 
 
京都市電東山線田中大久保町   こちらは北側の風景です。真っ直ぐに伸びる線路の突き当たりが高野です。
京都市電東山線高野   高野の交差点です。線路は左方向に曲がって、北大路に入ります。

かつてこの地には鐘紡の巨大な工場がありました。戦時中に市電が高野まで延びた理由の一つに、その通勤輸送があったと想像されます。
1972年、工場跡地の一角にスケートリンク「高野アリーナ」が開業しましたが、1999年に閉鎖されました。小生も、手すりを磨きに行った覚えがあります。

【余談】
高野にあった工場の跡地は、大部分が公団住宅になりましたが、ここに工場があったことを示す貴重な遺構が残されています。
1907(明治40)年に造られた煉瓦造りのノコギリ屋根の工場外壁で、左端にアーチ状の門が見えます。右の建物は、自治会の集会所として現役で使用されています。
市電に関係ない話に脱線して、申し訳ありません。上掲写真の撮影から41年後の、2017/11/10に訪問しました。

  高野鐘紡跡地
References:
京都市交通局「さよなら京都市電」毎日写真ニューサービス, 1978.9.30
鉄道ピクトリアル増刊356「京都市電訣別号」1978.12.10
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/pdffile/toshi23.pdf
http://shigeru.kommy.com/renga.htm
 


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