(14) 名古屋港 |
撮影: 1969, 制作: 2015/12, 改訂: 2024/8 |
日比野から市道江川線を南下して、名古屋港に至る路線を紹介します。沿線には港車庫があり、ユニークな形状で知られる800型が配属されていました。この路線は地下鉄の建設が開始されたため、1969年2月20日に廃止されました。廃止の直前に撮影した写真をご覧下さい。 |
赤色で示すルートが、今回ご紹介する路線です。名古屋港へは、江川線を通って名古屋駅から来る[50]系統が走っていました。 緑色は、当時存在した他の市電路線です。熱田駅前から船方を経由して名古屋港に至る[20]系統がありましたが、こちらは別の機会にご紹介します。 |
市道江川線と国道1号線の交差点にある、六番町の電停です。頭上に見える大きなアーチ橋は、東海道新幹線の第2六番町橋梁です。補剛桁で路盤を釣り下げる構造で、専門用語ではローゼ橋という名称です。全長100m,
スパン長85mの巨大な橋を架設した時は、新聞で大きく取り上げられた記憶があります。 それから半世紀を経た2013年に、名古屋高速4号東海線の高架橋がこのアーチ橋のさらに上空に造られました。 (1969/1/26) |
六番町~六番町六丁目です。このあたりは尾張徳川家の初代義直公の時代に、干拓によって出来た熱田新田です。新田の各区割りに一番から三十三番までの番号が付けられ、町名になりました。 左端は六番町神明社、奥は名古屋市工業研究所です。 |
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六番町六丁目~七番町です。地下鉄名港線の工事事務所が写っています。この道路の真下に地下鉄の名港線を通すことになり、他の路線より早く1969年2月に市電が廃止されました。 |
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港車庫前です。車庫に入る複線の引き込み線があり、庫内に多くの車両が並んでいます。 港車庫が開設されたのは戦時中の1943年です。 名古屋港行きの[50]系統と、西稲永行きの[51], [52] 系統を担当していました。 |
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港車庫の構内です。トラバーサによって、車両を移動させている光景を見ることができました。トラバーサの運転台も写っています。 (1969/1/20) |
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1956年に開発された800型車両です。モノコック構造を取り入れて、軽量化を図った画期的な車両です。側板には強度を保つためのコルゲート加工がなされていて、6本のリブが見えます。 |
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上掲806号の車内です。 床下に釣り下げたモーターからの回転を、ユニバーサルジョイントとウォームギアで車輪に伝える「乗り越しカルダン駆動」が採用されています。まるで鉄道模型のような駆動方式であると、評されました。 |
800型の前面は田の字形になった4枚のガラスで構成されています。これも従来の名古屋市電にはない、斬新的なデザインです。 港車庫はこの線の廃止とともに閉鎖されました。残念なことに、800型は全12両が渥美半島沖に沈められて、魚のアパートとなっています。 |
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港車庫前~港区役所前です。背景に東邦ガスの巨大なタンクが見えます。当時は天然ガスが普及する前でしたので、石炭を乾留してガスを製造し、都市ガスとして供給していました。 冒頭の写真は、この手前にある港北運河の橋で撮影しました。 ※現在ガスタンクは姿を消し、石炭を運んだ運河も埋め立てられています。まさに「山中方一日, 世上已千年」の世界です。 |
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港北運河の南、港市役所前です。背景の建物は1967年に開設された港図書館です。 ※建物は1999年に建て替えられて、モダンな形に変わっています。 |
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築地口の北側です。古い道路標識と、CALTEXのなつかしい★印の看板が見えます。 |
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市電は築地口の北側で、名四国道と交差していました。 この線の正式名称は野立築地口線で、1937年の開業です。同年に熱田新田で開催された「名古屋汎太平洋平和博覧会」の観客輸送が建設の目的でした。 線名になっている野立(のだて)は日比野の西側にある町名ですが、電停名にはありません。 |
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築地口の交差点です。800型の[50]系統が、名古屋港方面へ直進しています。 後方の中央相互銀行は現在の愛知銀行で、建物も健在です。一方、右端に名古屋相互銀行の看板が見えますが、こちらは現在の名古屋銀行で、交差点の筋向かいに移転しています。 (1969/2/2) |
築地口交差点の線路は、南北に直進する[50]系統のルートと、北から西へ曲がる[51], [52]系統のルート、それに船方方面から来て名古屋港に入る[20]系統の3ルートがありました。 日比野~名古屋港が廃止されたときに、船方方面から交差点の西側へ通行できるよう、線路が新設されています。 (1969/1/20) |
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築地口の南側電停です。 右方向、船方方面から名古屋港行きの[20]系統が入ってきました。行き先表示は「名港」と書かれています。 ここから名古屋港までは築港線になります。築港線は市の中心部と港を結ぶルートとして、熱田駅前から船方経由で1912(明治45)年に開業しています。 |
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次の電停、港本町です。明治の開業時は、ここが港の終点でした。「築港」と呼ばれた名古屋港まで延長されたのは、1918(大正7)年です。 |
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終点の名古屋港です。倉庫や港湾関係の事務所があるだけの殺風景な所でした。 車両には方向幕がなく、系統板に経路が表示されています。路線廃止に伴って転属が予定されているため、その準備と思われます。 (1969/2/15) |
1900型のトップナンバー1901号です。1800型の1815 号を改番した詩作車なので、1900型の特徴であるスカートがなく、側窓の形状も異なります。右掲が量産型の1913号です。 (1969/1/20) |
臨港線の踏切の手前で線路が終わっていました。その先が中央突堤になります。 ※今は水族館ができて、お洒落な街並になっています。 |
References: http://toppy.net/nagoya/atsuta7.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%81%E6%A9%8B http://www.city.nagoya.jp/atsuta/category/121-10-0-0-0-0-0-0-0-0.html http://network2010.org/article/147 |